第二百六十八話 ジルヴェルドグランツェ
「溟海を統べし者 四海天下に死する者 幽冥に潜む者――」
リシィが蒼衣の神唱を歌う最中、翠槍の“創生”の力によって動きを衰えさせたはずエウロヴェが、突如として僕たちに首を伸ばしてきた。
自らの顎をも砕き、大きく開かれた口腔にはザナルオンの“死の虚”。
蒼龍を乗っ取り、その能力まで自らのものとしていたのか、僕たちを飲み込まんと前方からは大アギトが、背後からは緋剣の尾が迫る。
長い胴体は枝葉と根に侵蝕されながらも波打ち、山となって僕たちの逃げ道を塞ぎ、またベルク師匠たちの援護まで阻む。
「白金龍の血の砌 打ちて 焼きて また打たん 万界に仇する祖神 蒼衣を以て失せ 葬神三衣――【蒼淵の虚皇】!!」
それでもリシィが先に蒼衣を顕現させ、そしてこの刹那の状況の中、天井に空いた黒塔に続く縦穴からは目映く輝く銀光が差し込んだ。
何かが下りて来る。
それが何なのか、何者なのか、姿を表すまでは何の確証も持てないけど、ここまでの長かった道程で確信を得られるのなら、この光は彼女だけだ。
なら、僕は……!
「やらせるものかっ!!」
僕が銀槍を突き出すのと、頭上から銀光が飛び出したのは同時。
リシィを庇い体を反転させ、背後から迫る緋剣の尾は銀槍の突きで軌道を逸らし、神器の右肩を削るほどの間一髪で凌ぐ。
そして正面から迫っていたエウロヴェ自身は、降り注いだ銀光に喉元を食らいつかれ、僕たちを飲み込む前に行動を阻まれた。
「ぐおぉぉああああああああああああああああああっ!!」
――ギィキイイィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!
エウロヴェの緋剣が光結界を斬り裂き、僕たちの側面を壁となって抜けていく。
押し負けないよう右腕に力を込め、骨が砕かれてしまうような衝撃にも耐え、互いが互いの神器を削りながらも、ついには尾の付け根にまで達した。
間髪入れずにリシィが蒼衣を振るう。ヴェールの形状を剣に変化させ、その一薙ぎで緋剣と尾を繋ぐ接続部を断ち斬ったんだ。
龍鱗の堅牢さなんて関係ない、“死の虚”に直接触れてしまえば如何な超常存在だろうとも細胞は壊死し、女性の細腕でも抵抗すらなく分断が出来る。
――ゴンッ! ギィンッ! ドシュッゴオオォォォォォォォォンッ!!
そうして、切り離された緋剣は風車のように転がり、内部を這い回るエウロヴェ自身を傷つけながら封牢結界の壁に突き刺さった。
直ぐに緋剣は赤光の粒子と消え、斬り裂かれた緋龍の胴体からはマグマのように赤熱する龍血が勢い良く噴き出す。
『グランディータ、未だに母たる始祖を切り開いた人間に味方するか。愚かなり、嘆かわし。リヴィルザルと共に、崩壊する世界で骸と果てるが良い』
巨大な二柱の龍が絡み合う。互いが互いに食らいつき、また両者ともに長い胴体で互いを締め上げる。
銀恢の槍皇 星龍グランディータ、彼女だ。
だけど、攻撃の隙を突いて先制したとはいえ、グランディータはエウロヴェよりも一回りも二回りも小さい。
何より、緋龍の鱗の棘が締めるほどに白銀の鱗を傷つけ、美しく光り輝いた彼女の姿は瞬きの瞬間で血に濡れてしまった。
全身を赤く染めても尚、グランディータはエウロヴェから離れようとしない。
『カイト クサカ様、どうかお願い申し上げます。我が同胞、エウロヴェの因業に報いをお与えくださいませ。長く苦しい時を連綿と続く、人と龍との不幸な因縁に終止符を……。どうか、どうか、貴方様にお願い申し上げます』
グランディータが噛みついたまま、優しくも悲しげな声音で願いを告げた。
二柱の龍が暴れる衝撃は封牢結界内を破壊し、既に全域に広がっていた森林も薙ぎ倒され、至るところから火の手まで上がっている。
震える大気は暴風となり肌を叩き、僕たちは煽られながらも空中に留まって時折襲い来るエウロヴェの体当たりを避け続け、手出しが出来ない。
僕たちはグランディータの願いに、ただ力強く頷くことで返した。
ベルク師匠がエウロヴェの進路を阻んで翼を広げる。
実際に阻むのは、巨大な緋龍よりも更に大きく形成された“金光の柔壁”。
テュルケが黒鋼の竜の背で立ち上がり、溢れんばかりの金光を放っているんだ。
金色に輝く壁は、暴れ狂うエウロヴェをグランディータごと押し返し、邪魔だとばかりに振るわれた尾まで跳ね返す。
そうして金光の柔壁によって緋龍は行動の先を悉く阻まれ、その度に捻れる胴体はマグマの如き龍血を絞り出されるように噴き出し続けた。
サクラが、テュルケが、ベルク師匠が、アディーテが、例え自らの一撃が針の穴ほどに満たなくとも、ほんの少しの亀裂がダムを決壊させるように、繰り返し繰り返し途絶えることのない攻撃を加えていく。
「……リシィ、頼みがあるんだ」
「ええ、グランディータがエウロヴェを制する今が絶好の機会よ。どうするの?」
「リシィの思い描く“銀灰の騎士”の姿を、この身の全てに顕現して欲しい」
一瞬、リシィの表情と瞳の色から感情が抜け落ちた。
大気を震わす破壊音が鳴り響く中、静寂が訪れたようにも思える。
「そっ……」
「主様! 主様は未だに神器の侵蝕を受けておるのだろう! そんなことをすれば、ただで済まないのではないか!? リシィ、それだけは見過ごせぬ!」
何かを言おうとしたリシィを遮り、ノウェムが声を荒げた。
「大丈夫。僕は必要な犠牲となりたいわけではない、主の理想とする騎士に少しでも近づきたいだけなんだ。リシィ、頼む。人々を、この世界を守れる力を僕に」
リシィの表情に感情が戻り、瞳色とともに複雑にその色と形を変えていく。
最初は悲しみだろうか、次に怒り、口を引き絞って何かを言いたげに、それでも結局は何も言わず、最後は黄金色の瞳で僕を見詰めた。
僕の体は外見ではわからないけど、先程の緋剣の一撃を凌いだことからも、最早人の身を超越してしまうほどに神器の侵蝕が進行しているのは明らかだ。
だから、いずれこの身が神器と変わってしまうのなら、僕はせめて最愛のリシィが望む姿となりたい。
「リシィ、ノウェム、僕の帰る場所は君たちの元だ」
「覚悟は……出来ているのね……」
「リシィ!? ダメだ! これ以上は主様がっ……!」
「ああ、この不条理を終わらせ、生きて大切な人々の元に帰る覚悟だ」
ノウェムは泣きそうになりながらも口を閉じ、リシィは再び強い意志が込められた瞳と表情で、目を逸らすことなく僕を真っ直ぐに見詰める。
誰も傷つけさせない、それは体だけでなく大切にする者の心もだ。
僕は帰りたい、帰るんだ。彼女たちと、いつまでも共に在りたいと願うから。
例え姿形を変えることとなっても、嘘偽りなく、僕は必ず生きて帰る。
そして、リシィが僕の胸に手を当て神唱を歌い始めた。
「月輪を統べし者 天愁孤月を掲げる者 銀灰を抱く者――」
ズクリと、心の奥底に流れ込んで来る何かを感じる。
決して不快ではない何か、初めて彼女の龍血に触れた時のあの感覚。
「白金龍の血の砌 打ちて 焼きて また打たん――」
リシィが、歌いながら泣いている。
眉根を寄せ、それでも強く僕を見据えたまま。
僕は、彼女のこぼれる涙をすくい上げ、そのまま髪を梳くように撫でた。
「万界に仇する祖神 銀槍を以て穿て 葬神五槍――」
やがて、目も開けられないほどの銀光が視界の全てを埋め尽くす。
これはリシィが発したものではなく、僕自身から放たれたものだ。
ギチリギチリと、引き千切られるような痛みが全身を包み込む。
肉体だけでなく、心までも神器となってしまうような。
これを何と表現すれば良いのか、とても言い表せない。
ただひとつ、わかることがあるとすれば……。
「私の騎士よ! リシィティアレルナ ルン テレイーズが命ずる! 今こそ禍神を滅する龍血の神器となり、その力を貴方の思うまま存分に振るいなさい!」
僕は今、一振りの銀色の槍に姿を変える――。
「――【銀灰の騎士】!!」