第二話 迷い込んだのは【重積層迷宮都市ラトレイア】(挿絵あり)
……リティシレア……ん? リシティレレ……んん? しまった、見惚れて正しい名前を聞き取れなかった……。
今の状況が異常事態で混乱しているのもある。だけど、受け入れられないながらもどこかで納得もしているのは、やはり多くのゲームをプレイしてきて、ファンタジー世界に馴染みがあるせいなんだ。
とりあえずは、彼女に倣って自己紹介から始めよう。
「ぼ、僕の名前は、久坂……灰人 久坂と言います。その、貴女の名前は……リ、リシティアリェリィいっ!? 痛っ!?」
アーッ!? 呼び慣れない語感に、僕は上手く呂律が回らず舌を噛み、痛みのあまり思わず口を押さえてうずくまってしまった。
「ふがごふぐ……」
人様の名前を、それも命の恩人の名前を噛むとか、これはさすがに弁解の余地もない。さらには痛みで涙目になる大の男とか、失礼な上に笑いのネタだ。
だけど、痛みを堪えておそるおそる視線を上げると、名前を噛まれた彼女は上体を捻って後ろを向き、プルプルと振るえていた。
あー……これは笑われている。こちらからでは表情はうかがえないけど、それはもう滑稽な僕の様を見れば笑っても仕方ない。
そしてどういうわけか、いつの間にか彼女の後ろに控えていたメイドさんは、僕ではなく笑っている彼女を見て愕然とした表情をしている。なんだろう……。
いつまでもうずくまっているわけにはいかないので、再度ゆるゆると立ち上がると、リシィテ……さんはすでにこちらを向いていた。
頬と耳が赤みを帯び、目尻にも涙が滲んでいるので、やはり笑っていたんだ。今は抑揚なく僕を見ている視線が、どうにも責められているようで居た堪れない。
ああ、やはりこれは夢で、何事もなく家でゲームを再開したい……。
「“カイト”ね。私のことは“リシィ”で、貴方たち来訪者にとっては馴染みのない発音でしょうから、あまりかしこまらないで接して」
「あ、ああ……ありがとう。リシィと呼ばせてもらうよ」
馴染み云々ではないと思うけど、今は厚意に甘えさせてもらう。
それよりも、彼女が口にした“来訪者”だ。
この場合は“異世界人”の意味と取れるけど、すでに表現として存在しているのなら、僕の他にも別の世界からの“来訪者”がいるということになる……。
「カイト、今から翻訳器を渡すから、上手く使ってみて」
「え、うん、わかった。どうすればいい?」
「そうね、効果は“心象伝達”と“言語変換”だから、話すのではなく相手に伝えようとする心象を意識することね」
リシィはそう言うと、自分の耳から“翻訳器”を取り出し、僕の手に乗せてきた。
形状は片側だけのイヤホン、耳にはめ込むだけのようだ。言語を翻訳しているわけではなく心象の伝達か……オーバーテクノロジーな気がするけど……。
「えーと、どうだろうか? こんにちは?」
「ええ、こんにちは? 上手く使えてよかったわ。それはひとつしかないの」
「そうなのか……あ、僕が装着すれば、そっちの娘とも会話ができるのか?」
「はいですっ、私はテュルケ ライェントリトと言います! そのまま“テュルケ”と呼んでくださいですです!」
「はは、元気だね。よろしく、テュルケ」
リシィの横にピョコンと飛び出てきて、自己紹介をするメイドさん。
先ほどの驚愕の表情はどこに消えたのか、元気でなんだか嬉しそうだ。
「テュルケ、彼の手当てをお願いね」
「はいです! お嬢さま!」
とりあえずは、これで助かったのだろうか……?
彼女たちが野盗の類には見えないけど、“テレイーズの当主”が何を意味するのかはわからず、“神龍の名代”というのも異様な泊だ。
それに、どう見てもメイドさんに“お嬢さま”と呼ばれていることから、リシィが高貴な家柄の娘であることは確かなんだろう。
気にはなるけど、今は状況の把握が何より先だ。
本当に、僕はどうしてこんな状況に陥ってしまったのか……。
―――
「できましたです! 痛くないですぅ?」
「ありがとう、充分すぎるくらいだよ」
「えへへっ」
僕たちは少し離れた場所に腰を落ち着け、テュルケに傷の手当てをしてもらった。
傷といっても転がってできた擦り傷なので、水で洗い流されたあとはガーゼとテープで止められただけ。異世界だからと、別に回復魔法があるわけではないらしい。
そうして手当てのあとは、リシィが昔ながらの方法で熾した焚火を囲んだ。
「テュルケを先行させてよかったわ。転びそうになるんだもの、危なかったわね」
「ああ、助けてもらわなかったら、あのまま下敷きだったかもしれない……。そうだ、助けてくれて本当にありがとう。走るのも限界だったんだ」
「間に合ってよかったわ。テュルケが足音に気がついたのよね」
「えへへ! 私、耳には自信がありますです!」
テュルケは焚火で食材を調理しながら嬉しそうに笑う。だけどリシィはと言うと、美人さんがもったいないくらいに先ほどから無表情だ。
まあ、無表情でも可憐なことは確かだけど、僕も笑ったところを一度……あれ、瞳の色が緑から黄に変わるグラデーションになっている……。
最初に見た時は夕陽色に見えたはずだけど……見間違いか……?
と、とりあえず、今は先にいろいろと聞きたいことがある。
「リシィ、僕の今の状況について、詳しく聞きたいんだけど」
「そうね、何から話すべきかしら……」
リシィは形のいい小さな顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「お嬢さま、お話中に失礼しますです。お食事ができましたです!」
「ありがとう、テュルケ。食事をしながら話しましょうか」
テュルケに「粗末なものですが」と言われて渡されたトレイの上には、火を通された干し肉と、あとはパンとカップに入った黄色いスープがあった。
とりあえず、どこか馴染みのあるいい匂いのスープから口をつけると、馴染みがあるもなにも間違いなくコーンスープで、僕はようやく肩の力を抜くことができた。
「おいしい……」
「ありがとうございますです!」
満面の笑顔を向けてくれるテュルケは、青い闇夜に沈む寒々とした景観の中で本当に心まで暖かくしてくれる存在だ。リシィは変わらず無表情に見えるけど、そんなテュルケの様子を見て少し和らいだのがわかった。
ここまで様子を見て、リシィとテュルケが主従の関係にあるのはわかるけど、それでもお互いに信頼……というよりは親愛を持って接していることが伝わってくる。
そして、リシィもコーンスープに口をつけ、一息ついたあとで話し始めた。
「まずは今いるここのことからね……。この場所は、【重積層迷宮都市ラトレイア】と呼ばれる、この世界にある中でも最大級の規模を誇る大迷宮よ」
「え、迷宮……!? そ、空があるけど……!?」
今、僕たちは建物の軒下に腰を落ち着けていて、周囲に“迷宮”だと認識できるものは何もない。
いや、雰囲気だけなら迷宮にも思えるけど……ひょっとしたら異世界のお約束で、かつての都市が不思議な力で迷宮化したものなのかもしれない……。
「そうね、迷宮の中に空があるなんて、見るまで誰も信じないわよね」
「……ん? 中? 地上の都市が迷宮化したわけではなく……?」
「いえ、ここは地下よ? 正確には“大断崖”の中ね」
……っ!? ここが大断崖の中……?
つ、つまり、どういうことだ……。それが意味することは、この世界には自分の知る法則の“外”が存在するということになる……。
彼女の説明に改めて周囲を確認するも、街は装飾過多な廃墟なだけで地下だと証明するものは何もない、至って普通の街並みだ。
一車線しかない街路、建ち並ぶのはバロック様式の建造物、見上げると濁った闇夜に青銀の月が浮かび、特に空が彼女の説明を受けて異様なものに見える。
「さすがに驚くな……」
「ええ、ここはカイトだけでなく、この世界の者も驚く“世界”そのものを内包した大迷宮なの。【神代遺構】と呼ばれる、太古の遺跡の上に造られたとされる巨大建造物で、内部では空間や時間さえも歪んでいると聞くわ」
「……正直な話、騙されている気分だ。創作物の中でこういうことには馴染みがあったけど、実際に目の当たりにすると戸惑ってしまう」
「私たちも訪れて日は浅いから、同じ気持ちだわ。ね、テュルケ」
「ですです!」
世界を内包する、空間の歪んだ大迷宮……ということはつまり。
「空間が歪んでいるか、それはやはり……」
「ええ、カイトの世界……“地球”だったかしら、この迷宮のどこかで繋がっていると言われているわ。そして、稀に迷い込む者が、“来訪者”と呼ばれる貴方たち」
……なんてこった。
理由はわからないけど、なぜかそれに迷い込んだ結果が今の状態か。
いったいいつ、寝落ちしている間に……? 僕の部屋が繋がった……?
話を聞いたところで意味がわからない。
「僕は、元の世界に帰れるのか……?」
「ごめんなさい、私はそこまでは知らないの」
「そうか……これからどうすればいいのか、見当もつかない」
「心中お察ししますです、カイトさん」
「ありがとう、テュルケ」
自分のことではないのに、心配そうに猫耳をシュンとさせる姿に癒やされる。
今は思うままに、彼女の猫耳をヨーシヨシヨシと撫で回したい心境だ。
そういえば、見えないけど尻尾はあるのかな?
「ひとまずは、食事が終わったら移動するわ」
「どこに?」
「“迷宮探索拠点都市ルテリア”へ。カイトのことは探索者ギルドに引き継ぐまで、テレイーズの名において私たちが責任を持って護送するわ」
「あ、ありがとう……」
「安心して、来訪者の保護は厳命されていて、探索者の責務とされているの。それに、私自身が人を放り出すような真似は決してしないわ」
リシィが限りなく無表情であることは変わりない。
だけど、話しているうちに幾分かお互いの緊張も和らぎ、成り行きで仕方ない面もあるけど、僕はそんな彼女を信じてついていこうと思った。
……まあ本音は、美人にホイホイついていく悲しい男の宿命。
異世界に転移して早々、これほどの奇跡的な美少女と出会えたのだから。
テュルケ ライェントリト