第二十二話 異変 神々の序曲
◇◇◇
私が湯殿で倒れてから三日。
途中から記憶がなくて、気が付いたらベットの上だったから、何故倒れてしまったのかはあまり覚えていない。
テュルケに聞いても、謝罪するばかりで要領を得ないし、カイトはカイトで露骨に目を逸らすの。
納得が行かないわ……。
「王手! へへっ、また俺の勝ち!」
「おお……ヨエル ナル ツヨイ」
今は宿処のリビングにいて、カイトが言語の勉強をしている。
遊んでいるようにも見えるけれど、より実践的な会話がしたいと言う彼の要望で、ヨエルを招いてああしてやり取りをしているみたいね。
二人がやっているのは“ショーギ”……“ショイギ”だったかしら?
カイトがどこからか持ってきた盤上遊戯で、遊びながら戦術を学べるもの。
私もやり方を教えてもらって一度挑戦してみたけれど、彼には全くと言って良いほど勝てなかったの。
ショイギ、奥が深いわ。ヨエルは才能があるみたいで、少し悔しいわね……。
「ツギ ハイル ヒシャカク モツ コマ ツカウナイ ヨイ?」
「うん、それで! 次も負けないからな!」
か、片言なのが可愛いわ……。
「ん~! ね~ちゃ~!」
「あ、ごめんね、ムイタ」
いけない、気が逸れていたわ。
私はソファに腰を下ろし、ムイタと一緒に木彫りのパズルをしている。
これもカイトが持ってきたもので、彼の世界の“ゾウ”と言う動物を模したものらしいのだけれど、バラバラになったまま一向に元に戻らないの。
カイトがお手本を見せた時は、耳の角度を変えて上手い具合に嵌め込んでいたわね。けれど、まだ四歳のムイタでは難しいみたい。
「ムイタ、ここはこっちの方が……」
「ん~っ!」
ムイタはぐずってきてしまったわ……。頭を撫でてあげても余計に酷くなるだけで、私はこんな時にどうすれば良いのかわからない。
「ヨエル、ムイタが」
「あっ、ムイタ、どうした?」
「にぃ~、ぽんぽん」
「あー、もうこんな時間か、これ終わったら帰ろうな」
「ん? 今日モ 昼 食ベル アル ヨイ」
「そうしたいけど、いつも母ちゃん一人にしておけないから」
「おお……スバラシイ ヨイ 兄 ゴクジョウ」
「へへっ、父ちゃんに任されてるからな!」
ムイタはお腹が空いている、と言うことなのかしら。
流石はお兄ちゃんね……。
それに、あれで会話が成立しているのだから、子供と思って侮れないわね。
私なんて、カイトが何を言っているのか、全然わからなかったもの。
あれではまだまだ翻訳器は外せないわ。
お昼の食卓、ルテリアに来てから一番穏やかだと感じられる時間。
ここに来るまでは殆どが野宿だったから、思えばこの二年間、あまりゆっくりと過ごすこともなかったのね。
サクラは様々な料理、それもカイトの国の料理まで得意で、最近はテュルケも教えてもらって本当に楽しそうにしている。
このまま穏やかな時間が続いて欲しい、そう願いたいけれど、私には責任があるの。だから、全てを取り戻してから……そう思うのなら、構わないわよね。
「リシィ、箸はもう少し上を持って、間を空けた方が掴み易いよ」
「え、ええ……カイトは器用よね。こんなもので食事が出来るなんて」
「はは、生まれた時から使っていればね」
カイトが、“ハシ”と言う食器の扱いに悪戦苦闘している私を見かねてか、助言をしてくれた。
嬉し……じゃないわ! ナイフとフォークも用意してあるけれど、何でも器用にこなすテュルケは既にハシを使えるようになっていて、主として自分も使えるようになりたいと、私も練習を始めたの。
べ、べべ別にカイトの国の習慣に慣れ親しみたいとか……とか、そんな理由じゃないんだから!
スープを飲む時に、お椀に口をつけるのも慣れないわ。“オミソシィル”と言うカイトの国のスープは、とても深い味わいでコクもあって美味しいのだけれど……。
「あっ」
「あ……はは、慣れていないと良くあるね」
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫、下に落ちたわけじゃないから」
恥ずかしい……カルラ豆の煮つけを頑張ってハシで取ろうとしたら、弾いてカイトのオミソシィルの中に飛んでいってしまった。
テュルケもサクラも、何故そんな柔らかな眼差しで見ているの……。
……あっ!?
カ、カイトが私の飛ばしたカルラ豆を食べた! カイトが私のを食べた!!
うぅ……もうダメ、限界だわ。
私はハシを置いた。
「きょ、今日はここまでにしておいてあげるわ。けれど、必ず使えるようになるから、見ていなさいよね」
「う、うん、応援している」
「お嬢さま、頑張ってくださいですです!」
「リシィさん用に、練習用のお箸を用意した方がよろしいでしょうか?」
「そんなものまであるんだ……」
顔が熱い……練習用って何かしら……。
食事が終わって、教練所に向かう時間が近づく。
ここしばらくの間で、カイトは見惚れ……見違えるほどに逞しくなっていた。
確か“神脈炉”だったかしら、それの影響を受けて鍛錬の効果が現れると……線が細いのは変わらないけれど、筋肉が随分と目立つようになっているのは、見ていて……見ていて……。
んっ……な、何かを思い出しそうになったわ……。
湯殿でのこと……ダメ、思い出せない……。
私が意識を失う前に、何かあったのかしら……。
「リシィ、どうかした?」
「え、ええ……いえ、な、何でもないわ」
いけない、気を引き締めないと。
竜角を取り戻すためには、カイト以上に学ばないといけないのだから。
こんなところで現を抜かしている場合ではないわ。
「お待たせしました」
「お待たせしましたです!」
「サクラ、テュルケ、いつも後片づけをありがとう」
「ええ、二人ともご苦労さま」
「いえ、大したことではありませんから」
「えへへ、ですです!」
穏やかな日常。『全てを取り戻してから……』そう思ってはいても、どうしてもいつまでも続けば良いと願ってしまう。
……そうね、私はきっと、今のこの場所が好きなんだわ。
いけないとは思っていても、好きになってしまったのね。
いつまでもここにいたい……竜角を取り戻した後もずっと……。
叶わないかも知れない。それでも、願わくば――。
◆◆◆
さて、教練所に行く時間だ。
咄嗟のこととは言えリシィの裸を見てしまって、今は非常に顔を合わせづらい。
テュルケに聞いたところ、どうも“僕と一緒に”と言う記憶が抜け落ちているようで、ギクシャクとまでは行かなかったのは幸いだった。
様子のおかしい時がたまにあるけど、それは一緒にお風呂に入る前からなので、今回ばかりは気にしなくて良いだろう。
いや、気にするべきなんだろうけど、果たして聞いて良いものか……。
「皆さん、支度は済みましたか?」
「僕はいつでも出られるよ」
「私もいつでも大丈夫よ」
「大丈夫ですです!」
「では、行きましょう」
そう言って、宿処の扉を開いたところで、急にサクラの動きが止まった。
ゆるりと首を回して虚空を望む。視線の先を見ても、宿処の壁があるだけだ。
サクラはいつも、開いた扉を支えて皆が出るのを待っているから、出入り口を塞いだまま立ち止まっているのは、明らかに様子がおかしい。
「サクラ、どうし――」
その瞬間、前触れのないけたたましい警報が鳴り響いた。
『ウーウーー』と、ルテリア全域に轟くような大音響、これは……この唐突な身を総毛立たせる感覚、僕には覚えがある。繰り返される内に馴染んでしまった、“緊急地震速報”と同じ感覚だ。だけど、この警報は只事じゃない様子だけを伝え、僕はこれが何を示すのかまだ教えてもらっていない。
サクラだけでなく、遅れてリシィとテュルケも何かに気が付いたのか、いつの間にか同じ方向を向いていた。
これは、まさか……。
「皆さん、待機してください。状況はわかりませんが、【鉄棺種】が迷宮より現出しました。追って指示を出すまでは、ここから動かないでください」