第百七十九話 “三位一体の偽神”
深い、ただ深いばかりの深闇に青光が灯っていく。
内縁から光量を増し、露わになるのは広大な空間とそこに棲まう存在。
僕も、誰もが息を飲み込むことしか出来ない。
蛇に睨まれた蛙だ、今なら蛙の気持ちが充分にわかってしまう。
来てはならなかった、如何な勇猛さもここでは全てが無謀に変えられてしまう。
僕たちは残りの人生を懸けてでも、逃げ続けるべきだったのかも知れない。
『定命の者よ、謝罪する 謝罪する 謝罪する』
『我ら三星龍、そなたらを試していた 試していた 試していた』
『これより訪れし真なる試練を越えるがために ために ために』
僕たちの眼前で鎌首をもたげた三柱の龍が語る。
巨大な龍が三体も横たわる空間は円筒形で、その規模は測り知れない。
大気は霞がかり、遠く周囲を囲む青い壁は到るところに破壊の跡が残っている。
僕たちがいるのは、その広大な空間の中央にあるすりばち状の、いや、龍にとっての盃のような何かだ。足場はここだけしかなく、後は盃の縁から望んだ遥か下方に、龍の太く長い体が蠢いているだけの異常な空間。
青光はその龍の体の更に下から漏れていて、青く照らし出される巨大な様は最早人が形容出来る範疇を遥かに越えていた。
閉塞、広大、陽光なき薄暗がりの世界、ここで人が感じるものは只々、怖い。
『恐れることはない ない ない』
『我ら三星龍、人と共に在りし者 者 者』
『定命の者よ、そなたに頼みがある ある ある』
三柱の龍は交互に口を開き、三位一体の言葉が紡がれている。
神々しい……なんてことはない、互いに絡み合いとぐろを巻いて鎮座する三柱の龍は磔にされ、長い年月を経ても血を流すその様が只々おぞましく恐ろしい。
それこそ僕たちと龍の大きさは蛙どころか蟻と人以上もの差があり、こんな巨大な龍を磔にしているものが、ただの十字架や杭であるはずもなかった。
それは、巨大な龍をこの場に縫い止めているのは、夥しい数の墓守だ。
自らを楔とし折り重なって壁に食い込み、龍を縛りつける鎖ともなっている。
その数は千や二千は下らない、万や十万どころでもない、これだけの墓守に組み敷かれて身動ぐことの出来る龍、恐ろしく感じてしまうわけだ。
「頼み、とは……?」
三柱の龍の存在感に気圧され、世界ごとすり潰されてしまうような墓守の数にも怯え、僕はようやくそれだけを絞り出すように吐き出した。
黄龍ヤラウェスが、好々爺のように愛嬌のある表情で口を開く。
『“鉄棺種を遣う者”、邪なる禍つ機“アシュリーン”』
蒼龍ザナルオンが、目すらない胴体まで届く大アギトの口を開く。
『彼奴が棲まうは我ら辿れぬこの洞の最奥』
緋龍エウロヴェが、燃える金眼で僕たちを見下ろし猛るくちばしを開く。
『定命の者よ、我ら三星龍が悲願、彼奴の野望を打ち砕かん』
「わかりました……」
何故、疑問も持たずにただ頷いたのかはわからない。
僕は盃の縁に迫り上がって来た龍の体に無防備に身を預け、そのまま彼らの言う“洞”にまで連れて行かれた。
洞は龍の巨体のほぼ真後ろにあり、洞と言うよりは人が通れるほどの壁に空いた裂け目でしかない。
リシィたちを盃に置き去りにし、誰も何も言わず、僕自身が何も疑問に思わず、彼らの意向に従っている。
おかしい……心も体も自分の意思にも関わらず、勝手に動いているようだ。
『進め 進め 進め』
『世界に真の救済を 救済を 救済を』
『定命の者よ、そなたの手で結末を覆すのだ 覆すのだ 覆すのだ』
僕は“三位一体の神”の言葉に背中を押され、躊躇わず洞に踏み入った。
内部は入口の裂け目よりも更に狭く、いくつもの配管やケーブルが重なり合った合間に出来た通路だ。
侵入しようとした形跡はあるものの、こんな場所にまで防衛設備があるのか、弾痕や焼け焦げた跡が所々に残っている。
内部は暗く、右腕の青炎と奥から漏れる明かりを頼りにケーブルを搔き分けて進むも、神龍が“邪なる禍つ機”とまで言うほどの抵抗は見られず、僕はすんなりと数十メートルしかない最奥まで辿り着くことが出来た。
「アシュリーン……アシュリーンなのか……?」
最奥にあったのは、一枚の古ぼけたディスプレイだけ。
幾重にもなる配管の合間の壁に傾いて設置され、最奥と呼ぶにはこれではあまりにも何でもない。
これで何を覆し、いったい何を救済すれば良いのか。
『ジー……コチッ、【天上の揺籃】起動コード確認、対象“ヒト”種、遺伝情報確認一致、権限付与成功、再起動情報添付成功、対象ヲ管理者トシ認証ヲ行イマス』
僕を舐めるように頭上から照射された青光が、何らかの情報を読み取り、指示も必要とせずに自動で作業を進め始めた。
ディスプレイには計測情報や何らかの施設、恐らくは【天上の揺籃】の全容を表した3D立体図など、事細かな情報が次々と流れては消えていく。
問おうとも応えず、ディスプレイに触れても反応があるわけでもなく、これは与えられた役割をプログラム上で実行するだけのもの、アシュリーンではない。
「アシュリーン……いるんじゃないのか……」
――パシュッ
茫洋とした意識の中で突然右胸に灼熱が走り、逆流した血が口から溢れるとともに、僕は立つこともままならずにあっさりと床に倒れてしまった。
思考が纏まらない、状況判断が出来ない、それでも胸から全身を駆け巡る激痛に、今まで靄がかかっていたような意識が浮上を始める。
「イィィハァッ! 肺を撃ち抜いても死なない! 頑丈なのは本当か、小僧!」
一人の男がどこからともなく現れ、僕に銃を向けて撃たれた右胸を踏んだ。
痩せこけた頬にほぼないとも言える短髪、灰色の瞳、踊るような声音だった割に顔は仏頂面でピクリとも笑っていない。右手にはロシア製の拳銃マカロフ。
信奉者の最後の一人、ロシア人、グリゴリー ブレイフマン。
消音器付きのマカロフ、特殊工作員か暗殺者か……。今目の前にいるこいつは詳細を聞き出す前に行方をくらまし、名前と人種しかわかっていない。
存在を忘れていたわけではない、リシィに対する刺客として警戒は怠らなかったはずなのに、僕は神龍の精神侵蝕に飲み込まれてしまっていたんだ。
「イハッ! その如何にも悔しそうな目は良いねぇ。お前さんは後で捨てられる、だが見届けさせると依頼主からの要望だ。そこで床を舐めてろ」
声音は楽しそうにも関わらず、本当に笑っていない……こいつは……。
「さあ、こいつをどうするんだ?」
「ゴボッ……待て、それに……触るな……」
「すげえ! すげえ! まだ喋れる! 左肺も撃ち抜くか!? イハハッ!」
「やめっ……ああああああああああああああああああっ!!」
神器の力で肺を撃たれても生き延び、“創生”の力で急速に修復されている右胸に再び足を踏み降ろされた。激痛に全身が焼け、身を捩りたくとも満足に動かない体は、自分自身のものなのにそれを許してくれない。
ブレイフマンは楽しそうで楽しくなさそうに、キーボードを操作している。
「ぐぎぎ……やめっろっ! 何が……目的だっ……!!」
「ハハァ? もう遅い、【天上の揺籃】は浮上し、あの龍どもの目的に使われる。楽しいなあ、楽しいなあ、壊す時が一番楽しいと思わないか。イハハッ!」
「狂っている……のかっ、そんなこと……すればっ……!」
「イイィィハアアァァァァッ! 狂ってる! 狂ってる! 狂ってる! 狂ってるぅうっ! イきそうなほど最高の褒め言葉をありがとうよ!!」
こいつは本当に狂っている……!
楽しいと言うのに楽しくなさそうに、笑っているのに笑わず、まるでそれだけで絶頂してしまったかのように、股間まで膨らませ身を震わせている。
『認証完了、【天上の揺籃】オペレーションシステム緊急停止、メインフレーム再起動後、管理者ノ再設定ヲ行ッテクダサイ。コアブロックカラノ退避ヲ推奨シマス』
「おまえ……! 何をした……!!」
「イイィィハアアァァァァァァッ!! 終わりの始まりさあっ!!」
地の底から地響きが伝わる、【天上の揺籃】が再起動を始めたんだ。
つまり、どういうことだ……霞がかった思考と、胸の激痛が思考を鈍らせる。
何の想定も出来ず、空の思考は僕をただの床に転がる人形にしかしていない。
どうすれば良いのか……今までの僕ならどう動いていたのか……わからない、わからない、わからない、わからない……。地響きだけが大きくなっていく。
――カイトォッ!!
その時、声が聞こえた気がした。何よりも守りたい、僕の大切な女性の声が。
ここで寝転がっている場合じゃないんだ……わからないことをわからないままにしていても、何ひとつ解決することなんてないんだ……だから……。
――諦めない。
――人らしく。
――覚悟を決め。
――誰かのために。
――自分のために。
足りないのなら、足りるまで足せば良い。
空の思考は、それだけの覚悟を詰め込める受け皿にだってなるんだから。
「人の義から外れた邪道……お前は、ここで散れっ……!!」
「イィイイイイィィィィィィィィッ! ……ハァ?」
正義を貫こうとするのなら、絶対に力で誰かを傷つけてはならない。
だけど、人に仇なす者が在るのなら、僕はこの手を汚してでも世界から排除しよう。
躊躇いも、後悔も、無様な涙だって全てを飲み込む。相手が例え同じ地球人だろうと、リシィの、皆の安寧の妨げにはさせない。
そうして、僕は青光を纏った左腕でブレイフマンの心臓を貫いた。
それでも、この右腕だけは汚したくないんだ。