第百六十六話 第十深界層“神座楽園”
「お湯の温度は如何ですか?」
「気持ち良いですぅ~。私もサクラさんみたいに、生活の役に立つ能力が欲しかったですぅ~」
「テュルケの能力も役に立つわ。迷宮にクッションなんて持ち込めないもの」
「えへへ、ありがとうございますです! お背中お拭きしますです!」
「ええ、お願いね」
結局あの後、祝宴の最中は私もカイトも引っ切りなしに探索者に声をかけられ、一時も一緒にいることが出来なかった。
宴は夜通し続くみたいだけれど、私たちは巨兵を相手にして来たばかりだから、途中で抜けて早めに休むことにしたの。
今は部屋に戻り、サクラに湯を沸かしてもらって体を拭いている。
硬い床に布を敷き、その上に跪いて上半身は裸、最初こそテュルケ以外の視線があると気になったけれど、今はもう慣れたものね。
私はテュルケと、サクラはノウェムと互いに髪や背中を洗い合うの。
旅に出た頃は馴染みがなかったことも、すっかり当たり前になってしまったわ。
「あぅ、石鹸が後一個しかありませんですぅ」
「後でラダモさんに聞いてみましょうか。彼女からは花の香りがしていましたから、代わりになるものがあるのかも知れません」
「あ、私が聞きに行きますです! ラダモちゃんとお友達になりましたぁっ!」
「テュルケ……いつの間に……」
「えへへっ」
荷物になるから仕方がないのだけれど、少しずつ大事に使っていた石鹸がなくなってしまうのは由々しき事態だわ……。
臭いが気になるのは探索者としては二流よね……。それでも、カイトの前でだけは嫌がられたくないもの……当の本人は「そんなことはないよ?」と首を傾げるけれど、あれは本音なのか気遣いなのかどちらなのかしら……。
「くふふ、乙女心とは奥ゆかしきものよな。見ていて飽きぬ」
「ノッ、ノウェムも一応は乙女なのよね!?」
「そうでありたいと願うが、年若きには勝てぬよ。くふふふふ」
「むうぅ……」
な、何か達観されているのが気にかかるわ……見かけだけなら私たちの中では一番年下なのに、本来の年齢はいくつなのかしら……。
そうして、テュルケが石鹸と湯を馴染ませた布で私の体を丁寧に洗ってくれる。
彼女が私の専属になってからもう七年、旅に出た後もこうして変わらず仕えてくれるのだから、心から感謝をしているわ。
首筋から背、背から腰、肩から腕へと優しく撫でる手つきは、こんな設備も道具も整っていない場所でも決して変わることはない。
本当に、テュルケが一緒に来てくれて良かった……。
「傷痕、消えて来ましたです。良かったですぅ~」
「え? あ、この前の銃弾が抜けた傷ね」
「はいです」
テュルケが念入りに腕を揉むようにしていたのは、陸上母艦で受けた肩の傷を気にしていたみたい。
私たちは竜種だから、このくらいの傷ならいずれ跡形もなくなるけれど、いつも全身が擦り傷切り傷だらけなのは女の子らしくないわよね。
けれど……。
「気にしないで。こんな傷だらけの体でも、カイトは誇っても良いと言ってくれたもの。頑張った証は醜くなんかない、むしろ綺麗だって」
「主様はそんなことを気にする玉ではないからな。我の力の行使とともに鼻血を噴き出す醜い様を見ても、真っ先に駆けつけお礼を言うくらいだ」
「カイトさんは、私たちが気にするようなものでも、案外笑って良いものだと受け止めてくれますね。だから、好きになれるんです」
「えへへ、ですです~」
本当にその通りね。
カイトは私の折れた竜角だって全く気にしない、多分異世界の人でなかったとしても、彼は同じようにただ笑って接してくれるんだわ。
私の……私の最愛の……。
けれど、これより先は多くの探索者を飲み込み続ける最悪の“魔宮”。
【重積層迷宮都市ラトレイア】を未だに踏破困難なものとする、引き裂かれた空間による“交差世界連続体”。
そんな、話に聞いただけでも恐れを抱いてしまうような場所で、神器と私自身を狙う墓守、そして“三位一体の偽神”と対峙しなければならない。
それでも、私は進みたい。
自分のためでも誰かのためでもなく、ただ大切なカイトのために。
「皆、気持ちは一緒なのよね。支えましょう、カイトを」
◆◆◆
五日の休息を取った僕たちは、食料の確保と第十深界層を確認するために、始めて野営地の外へと出てみた。
第十深界層“神座楽園”、現在人類が到達している【重積層迷宮都市ラトレイア】の最奥。
そこはあらゆる“世界”を内包する“交差世界連続体”と説明され、ただの一歩で帰還路を見失うと聞く、夢と浪漫を諦めきれなかった勇敢な探索者たちの墓場。
見果てぬ夢が時として人を避けられない“死”へと誘うんだ。
英雄か、愚者か、僕はどちらにもなれなくて良い。
「野営地を出ただけでは普通の迷宮にしか見えないな」
「うむ、だが淀んでいる。武人でありながら踏み出すことに恐れを抱くとは」
「みんな、境界にだけは気を付けて、領域からは絶対に外れないように」
野営地の出入口となる高さ三メートルほどの扉もない門を抜けると、そこは一目見ただけでは普通の石造りの迷宮でしかなかった。
苔生した黒灰色の石材が均一に積み重なり、迷宮の情報が偽りなのではないかと思うほどに“普通”の様相だ。だけど、野営地付近は唯一確立されている、一辺二キロ四方の通常空間でしかない。
少しでも、ほんの一歩でも、その外に踏み出してしまうと帰れなくなる。
「先導しますね。外れないようについて来てください」
地図を持ったサクラが通路を進み始めた。
行き先はハムモンから教えてもらった食料の確保場所だけど、サクラも始めての道行きで、当然地図も野営地周辺の二キロ四方のものしかない。
もしも狩場以外の“世界”に踏み入ったら、まず確実に帰って来られないと鬼気迫るほどに念を押されたので、今回は様子見で狩場と往復するだけのつもりだ。
「そこの壁にお気を付けください」
「ふわぁ、こんな何でもない通路にもあるです?」
「良く見ると歪んでいるのはわかるけど、気が付かずに触れたら別世界か……」
「それも一方通行なのよね? 特にノウェムとアディーテは気を付けて」
「アディーテはともかく、何故に我が迂闊に触れると思うた!」
「アウー?」
こんな場所でキャットファイトはやめて欲しい。
巻き込まれて壁に触れることになるのは、明らかに僕だから。
「ノウェム、リシィは心配してくれているんだよ。ここは穏便に……」
「わかっておるわ! その代わり主様に抱っこしてもらうぞ!」
「何でっ!?」
「貴女、つい先日まで良いようにしてたわよね! しばらくはお預けよ!」
「おやおや~、羨ましかったのか? そう言うことなら、次は私がと素直に……」
「なっ、ななにゃああああっ!? それ以上言ったら吹き飛ばすわよっ!!」
「喧嘩はやめて!?」
ここは迷宮の深層だよな……ピクニックに来ているわけじゃないよな……。
ノウェムなりに緊張を解き解そうとでもしているのか、そ、それにしても空間の歪みの傍でやらなくても良いじゃないか……。
ただ、サクラが指し示した壁は幅四メートルもある通路の左側なので、右寄りに歩くことで万が一にも触れることはない空間の歪みだ。
そう、“空間の歪み”。
この迷宮にのみ見られるその現象は、ノウェムの転移陣のような性質を持ち、とは言え殆どが無作為にどこか別の場所へ飛ばされるものらしい。
最悪は、『いしのなかにいる』が現実に起こり得るんだ……。
しばらくしてサクラは足を止めた。
時間にすると二十分も経っていない。
「ここのようですね」
「狩場への入口か……。見た感じでは通路が続いているのに、それを塞ぐようにあるのか。僕にも地図を確認させて」
「はい、右の通路を進んで二度曲がるだけですから、間違いはありません」
狩場への空間の歪みは幅四メートル、高さ六メートルほどの通路を塞ぐように存在している。通路はそのまま奥に続いているけど、その手前で景色が捩じ曲がっているため、ここまで来れた探索者なら気が付かないことはないだろう。
この歪みの向こうに、墓守の存在しない野生動物と透明な植物が生い茂る楽園、僕たちにとっては食材の狩場があるとのこと。
迷宮の最奥に挑む前に、充分な休息と肩慣らしから始めよう。