第百五十八話 紳士レベル が あがった
最短の道程を進んだ結果、三週間で辿り着いた第九深界層に僕たちは感嘆の声とともにただ驚くことしか出来なかった。
新たな界層に入った時は大抵驚くとはいえ、ここは良く目にする光景ながらも、それが同時に存在する異質な世界だったから余計にだ。
第九深界層“四象万界”、全ての四季を同時に内包する追憶の地。
世界そのものが分割され、その境界では万象が揺らめき、来訪者……特に日本人なら懐かしさを覚えてしまう景観が広がっている。
故郷、日本を思い起こす不思議な感覚……今、僕たちがいる場所は迷宮内にも関わらずひたすら暑く、両親を探して歩いた夏の避暑地がこんな感じだった。
地面からは陽炎が立ち上り、地平を埋めるのは豊かな新緑と湖の青、澄み渡る青空では入道雲まで僕たちを見下ろしているんだ。
だけど、本当に不思議なのはその先。
夏の景観から少し視線を巡らせると、ある一本道の境界を堺に樹木は赤く燃える紅葉に染まり、空までわざとらしい夕陽色の秋の景観に変わる。
それ以上は遠過ぎて霞んでいるけど、その更に向こうで白く見える世界は恐らく雪が降り積もっているんだろう。
「暑い……わ……」
「迷宮内は寒いので余計にですね……。温度を下げるのは苦手ですが、出来るだけ干渉してみます」
リシィがコートを脱ぎ、白い肩口を露出させて手で仰いでいる。
迷宮内でもルテリアでも寒いか涼しいしかなく、久しぶりの熱気に体内で籠もった熱が上手く発散出来ていないようで、これは堪えてしまう。
「ベルク師匠は大丈夫ですか? 湯気が出ていますが……」
「熱耐性はあるのだが、陽に熱せられる竜鎧が某よりも周囲に熱を与えてしまう。アディーテ殿、大丈夫か?」
「アウゥウゥ~……おみずぅ~……」
「ま、まずい……」
とりあえず、僕たちは境界門のある岩山から下って近場の林の中に逃げ込んだ。
吹く風も生暖かいものの、燦々と照り付ける太陽から身を隠せる木陰は幾分かマシだ。これでもサクラが温度を下げてくれているはずだから、この領域を進むなら熱中症との戦いになってしまうだろう。
巨兵と対峙する前に出来るだけ消耗は避けたい……。
「アディーテさん、お水です。しっかりしてください」
「アウゥ~、干からびるぅ~、おみずぅ~」
サクラが、大の字に寝転がったアディーテに水を飲ませている。
地力で体温調整の出来るサクラは良いとしても、水精種のアディーテではこの暑さはかなり厳しいはずだ。
水場も湖までは大分遠いし、まずは木陰沿いに隣に移動するべきだな。
「アディーテ、動けそうか? “秋”に移動するまでは頑張って欲しい」
「アウゥ~、らいじょぶぅ~」
「本当に大丈夫か……? みんな、少し休んだら移動だ」
そう、この世界には“四季”がある。
しかも端から春、夏、秋、冬と謎の“揺らぎ”に遮られ、ひとつの世界に隣接して同時に存在しているんだ。
この界層は横に長いため、踏破するだけなら一週間とかからないらしいけど、“夏”の暑さは厳しく“春”か“秋”側に移動して進むのが一般的とのこと。
距離的には“秋”、むしろ早く脱出したかったので他に選択肢はなかった。
「姫さま、どうですぅ?」
「ええ、何もしていないよりは涼しいわ。テュルケも扇いであげるわね」
「えへへ、ありがとうございますです!」
リシィとテュルケは木陰に腰を下ろしてお互いを布で扇いでいる。
ほんの少し歩いて来ただけで汗だくになるほど暑いので、今は何とも微笑ましい光景……なのは良いけど、二人は木陰で気が抜けたのか、リシィはノースリーブの脇から手を差し入れて肌との間に隙間を作り、テュルケに至ってはブラウスのボタンをいくつか外して立派なお胸様の谷……。
「ど、どどうかした? ノ、ノウェム?」
「主様よ、覗き見は感心せぬな」
「……っ!?」
リシィとテュルケのあられもない姿に気を取られているうちに、一際頬を赤くしたノウェムが僕に迫っていた。
「ご、ごめんなさい! 覗き見をするつもりはなかったんだ!」
「そうではない、覗き見をするなら我のあるがままを見るが良いっ!!」
「何を言ってるんだ!? ノウェム!?」
そう言ってノウェムはミニドレスを肩から剥ぎ取ろうとし、僕に覆い被さるように突然倒れてしまった。
触れた肌は異様に熱く乾いて視線も定まっていない、暑さに完全にやられているんだ。この短時間で熱中症……身体的に弱い種とはこういうことか……!
「サクラ、ノウェムの体温調整を!」
「ノウェムさん!?」
「ノウェム、水を飲んで。テュルケ、塩を!」
「はっ、はいですです!」
この後、ノウェムとアディーテの回復を待ち、僕たちは林の中を通って“秋”へと移動した。
一見すると長閑な雰囲気だけど、墓守以上に環境こそが最大の障害……気を付けないと巨兵どころではないな……。
―――
――その日の夜、第九深界層“秋”野営地。
秋領域とあってか、昼間は程良い気温だった外気も日が落ちたことで大分寒くなってしまった。
森と湖の世界だった“夏”に比べてこの“秋”は渓谷、それも紅葉と湯に煙る温泉地帯という日本人なら確実に見たことのある景観で、ご丁寧に旅館らしき廃墟まであるんだ。
今更だけど、界層が内包する世界とは本当に何なんだろうか……。
流石にここまで来ると地図も曖昧で決められた野営地もなく、僕たちは道中で偶然見つけた廃墟を今日の野営地と決めた。
木造の建物はホラーゲームの舞台になりそうなほど崩壊が進み、当然人の気配なんてものはない。何となく和洋折衷にも見えるけど、原型を止めているものはないため、記憶に近いものを呼び起こしているだけなんだろう。
「あううぅ……手を離さないでくださいですぅ……」
「カッ、カイトが震えているから仕方なく支えてあげているだけなんだからっ! かか勘違いしないでよねっ! べっ、別に怖くなん……きゃああっ!!」
少し壁が軋んだだけで、それまで僕の左腕に掴まり震えていたリシィが抱き着いてきた、右腕には同じように震えるテュルケ。
野営地は壁や柱の強度を確かめた上で玄関広間にしたけど、水場がなかったので僕とリシィとテュルケの三人で周囲を探索中だ。
何百何千年もこの姿のまま保存され続ける日が落ちた後の廃墟、明かりはほんの数メートル先までを照らすランタンの光と僕の右腕の青光だけ。
気温が下がったことで家鳴りはするし風が窓枠を軋ませ、剥がれ落ちた壁紙とその下で露出する染みが、心の持ちようによっては人の顔に見えるかも知れない。
「あぅ、カイトおにぃちゃんは怖くないです……?」
「ああ、僕はホラーゲーム……怖い創作物にもそれなりに触れていたから、この手のことには耐性があるんだ」
「ふわぁ……」
あまり自慢の出来ることではないけど、そんな僕の内心とは裏腹に、テュルケは尊敬の眼差しで見上げてくる。純粋な眼差しが今は少し痛い……。
「リシィも、ただの廃墟だから目を開けても大丈夫だよ」
「めっ、目なんか閉じてないもにょっ!」
噛んだ上に真っ青な瞳は涙目だ、リシィにも苦手なものはあったんだな。
廃墟の廊下は石材で、自分たちの靴音が幾重にも反響してあらぬ幻聴も聞こえるのか、リシィもテュルケも後ろを振り返っては暗闇に余計震えている。
しかも、自分たちの状態ですら把握出来ていないようで、僕に密着する二人からは甘ったるい匂いが香り、色々と刺激されてしまう。
昼間は汗だくだったから、怖い思いをしてでも水場を探したいんだ。
「ひゃうっ!?」
「うやっ!? おばけええぇぇっ!!」
暗い廊下の先、外気が月明かりに照らされ白く揺らめいている。
怖い怖いと思っていると、あんなものでも人の形に見えるのかも知れないけど、あれは多分二人にとって念願のもので間違いない。
「二人とも大丈夫、あれは湯気だよ。僕たちが探しているものだ」
「えぅ……もうっ、帰りたいっ、あぅっ……」
「ふうぅっ、帰りたいっですっ、ううぅぅっ……」
な、泣き出してしまった……。
仕方がないので、僕は二人を抱えて湯気が入り込んで来る扉から、正体をハッキリさせようと外に出てみた。前室が二つ、目的地はその先。
「二人とも、目を開けて。ほら、露天風呂だ」
「え……」
「ふぇ……」
「まあこれじゃ使えないけど、お湯は湧いているから汗は流せるな」
露天風呂と言って良いものか。不揃いの石で作られている浴槽は、湯船の殆どが堆積した落ち葉が土となって埋まり、その本来の役割を果たせないほどの酷い残骸となってしまっていた。
お湯は石の合間から湧き出しているため、それだけでも探した甲斐はある。
「ふわぁ……良かったですぅ。やりましたですっ、姫さまっ!」
「え、ええ、湯に浸かれないのは残念だけれど、贅沢は言えないわね……あっ!? ごごごごめんなさいっ!? みっ、密着していたなんて……汚いわよね……」
ようやく二人は自分の状態に気が付き離れてくれたけど、むしろ紳士的にはご褒美なので全くもって問題はありません!
むしろ、紳士力の鍛錬に理性がフル稼働していたくらいで、そろそろレベルもカンストしてしまうんじゃないかと思う。
だけど、クラスチェンジは変態じゃなくて真っ当な紳士にしたいかな……。
「あっ……けっ、けれど、もう一度あの暗闇を通って帰るのは無理だわ……」
「ふえぇぇっ! 私も無理ですぅっ! ど、どうしますですっ!?」
「うーん……体を洗うなら、僕が荷物を取って来ようか?」
「カイトは傍にいてっ!」
「行かないでくださいですですっ!」
どうすれば良いんだ……。