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第百二十五話 “本能に侵された獣”

 サクラとの距離は十メートル、僕はその中程まで進み出て対峙する。

 道幅は二メートルで左右は工房の壁、万が一ここで爆炎を放たれでもしたら避けようがない。


 だけど彼女は獣であってもサクラ、暴走していたとしても変わらないんだ。



「う、ううぅ……」



 静かに唸りを上げる彼女はやはり自我が飛んでしまっているのか、今はもう朝の熱に浮かされたような視線もなく、相手が僕だろうと睨んでくる。

 サクラはいつも笑っていた。稀に困った顔や悲しい顔をすることもあったけど、殆どの時間を微笑を浮かべ優しく見守ってくれていたんだ。


 本能が自我を奪うか……なら人らしく、語りかけるしかないだろう。



「サクラ、僕だ、カイトだ。その、近づいても良いか?」



 獣としての本質がそうさせるのか、優しく話しても警戒を解いてくれない。


 こんな状態は、創作物の中では刺激を与えることで自我を取り戻させていたけど、この場合も似た対処で解決出来るのだろうか。

 実際にサクラの様を目の当たりにすると、ただ破壊すれば良い墓守と違って上手く思考が働かない。アリーの時ともまた違う、自我を失って獣となった人の対処法なんて、僕の知識にはないんだ。


 まずは動きを封じたいけど……。



「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。僕はただサクラを迎えに来たんだ」



 ゆっくりと、ジリジリと足を前に進める。

 僕に向けられるサクラの敵対する視線は当然初めてだ。

 それは怒っているようにも、困惑しているようにも見え、彼女を仲間として無理やり押し込めた僕に対する責め苦でもあると言える。


 僕はサクラが編んでくれた右腕のカバーに左手を当て、問いかけ続ける。



「これを編んでくれたのを覚えていないか? 冬のルテリアでは冷たくなり過ぎて困っていたら、サクラがいつの間にか用意してくれていたんだ」



 五メートル、四メートル、三メートルと、距離が近づくほどに進行速度は鈍る。

 サクラもまたジリジリと後退し、警戒したまま離れようとするからだ。


 僕は目線の高さを四つん這いの彼女に合わせ、出来るだけ腰を落として進む。



「サクラ、宿処に帰ろう。僕は君が大切だから、一緒に帰って欲しいんだ」



 サクラのしっとりとした艶のある髪や尻尾は泥がつき、いつだって頼りにしてきた音に敏感な犬耳は、今はピンとこちらに向けられている。


 そういえば、忠犬の印象があるからつい頭を撫でたくなってしまうけど、実際に手を伸ばしたことはない。ノウェムは頭を撫でられるのが好きだけど、サクラはどうなんだろうか……。

 いやあるな、名の由来を聞いた時、迷宮に入る前の晩に懐中時計を返した時、あの時は確かに嬉しそうにしていた。


 僕が思う以上に、たくさんのことを我慢させていたのかも知れない。

 『本当は甘えたいのかも知れませんわよ?』……そうなのかも知れない。



「サクラ頼む、正気に戻……」



 サクラに向けて左腕を上げた瞬間だった。それまで後退っていた彼女が突然飛びかかって来て、間合いを詰められた僕は抵抗も出来ずに拘束されてしまった。


 抱かれて体が反転したことで、いつの間にか背後に迫ったセオリムさんに気が付く。彼の動きは神器の恩恵があるはずの目でも追いきれず、既に腰の長剣を抜くところまでいっていた。

 その様はまるで疾風、風を纏った緑色の剣身が誰かを狙っている。


 その剣筋の先には当然……。



「ダメだ!!」



 ――キィンッ!!



 僕はサクラに抱えられたまま、上半身を無理に捻って右腕でセオリムさんの剣閃を弾いた。

 その目的がただ意識を奪うだけのものであっても、サクラには傷ひとつ、打撲痕のひとつも作らせない!



「カイトくん、君は……!」

「まだだ! まだセオリムさんだろうと手出しはさせない!!」



 協力を仰いでおいてこれはない。

 万が一を考えたら、この判断は僕の甘さゆえの失態だ。


 だけど……だからこそ選んでやる、最高のハッピーエンドってやつを!!


 セオリムさんは追撃を諦めてそのまま後退り、サクラは僕を脇に抱えたまま跳躍して屋根の上まで一気に駆け上った。

 彼女の行動は自覚がないままに僕を求めているのか、それともまだどこかに自我が残っているのか、今わかる事実は“捕まってしまった”ということだけ。

 接したサクラの体は異常に火照って熱く、屋根の上を吹き荒ぶ寒気が一瞬で暖められている。


 僕は要するに獲物だ。食べられるわけじゃないけど、別の意味で食べられるかも知れない。となると、戻るのは自分の巣のはず……宿処か。


 僕は眼下で遠ざかる皆に指を差して行き先の指示を出し、慌てながらも頷いたリシィたちを確認すると今一度サクラに向き直した。



「サクラ、聞こえているんだろう? 僕はどこにも行かないから、進むなら一緒に行こう。何処かに行きたいのなら並んで歩こう。頼む、サクラ……!」


「う、ううぅ……カ、カ……」



 唸り、嗚咽にも聞こえ、そして絞り出すような『カ』、やはり本能の奥でサクラの自我はまだ僕を見ている。

 僕を“久坂 灰人”だと認識し、今の自分の行動に責任だって感じているはずだ。


 なら……。


 僕は脇を押さえるサクラの腕を軸に下半身を振り、工房の屋根に勢い良く右脚を突き入れた。

 あまりにも無理矢理なブレーキに疾走する彼女はつんのめり、僕は引っ張られた股関節が砕けるような痛みとともに解放された。



「ふっ、うううぅぅ……」



 屋根の上で再び僕とサクラの間に距離が空き、唸る彼女は羽織っただけの着物を翻して振り返った。

 僕をどうしたいのか……連れ去るつもりなら唸って警戒する必要はない。やはり僕に対しての不平不満が蓄積した結果なのか。


 そんな間も束の間、再びサクラは飛びかかって来た。

 精彩さの欠片もない、ただ野生のまま身体能力だけに頼った突進が襲い来る。

 彼女に間合いなんて関係ない、このくらいなら一息に詰め、連れ去ろうとするならいつでも出来るし、また殺そうとするならそれも可能だ。


 当然そんなことはさせない。

 サクラは手を鉤爪状にして腕を連続で伸ばし、それを時に避け、時に払い除け、彼女を捕らえる隙が出来るまでひたすら全身を使って凌ぎ続ける。

 その野性味溢れる乱打は鬱憤の証か、怒涛の連撃が僕の肌を何度も裂く。


 これもダメだ……正気に戻った後で、僕の傷を見たサクラは間違いなく悲しむ。



「サクラアアアアアアアアアアアアッ!!」



 策を持たない僕の無様な叫びは、だけど彼女の身を一瞬だけ震わせて攻撃の手を止めさせた。



「ままよ……!」



 その一瞬の隙を、僕はただサクラを抱き締めることだけに費やす。

 彼女の体温は、自らを燃やしてしまうんじゃないかと思えるほどに熱い。


 これでは、冷えるものも冷えないじゃないか……!



 ――ヒュッ……ゴオオォォオオオオォォォォォォォォォォォォッ!!



 正気を失った者を、その者の想いを寄せる相手が取り戻す手段なんて、昔からひとつしかない。それをわかっていて、それでもどうしても最後の覚悟が出来なくて……結果、足場を失った。


 爆炎が足元を彩り工房の天井を破壊し、僕とサクラは宙に投げ出される。

 内部は一階までの吹き抜けだ。優に三階分もの高さからの落下は今の僕では死にはしないだろうけど、しばらくは行動不能になってしまう。


 だけど、それで良い。サクラには何が何でも傷のひとつもつけはしない……!



 ――ドンッ! ゴッ! ゴガッガシャアアァァァァァァァァッ!!



「がはっ!! げほっ、がふっ、いっつ……ぐううっ……」



 内部は廃棄された工房か倉庫か、置き去りにされた墓守の残骸が積み重なり、その上で強く背を打った僕は抱き締めるサクラごと下まで転がり落ちた。しばらく息が止まり、それでも神器の恩恵が致命傷を許さない。


 埃が舞い上がり、穴の空いた天井から差し込む太陽と炎の光で、まるで雪が降るようにキラキラと輝いている。



「ごほっ! ごほっ! サッ、サクラ……大丈夫か?」



 ふらり……と、サクラは僕の腕の中から体を起こした。


 僕は全身を強打して思うように動けず、今の状態は仰向けで横たわる男とそれに馬乗りになる女。図らずとも最悪の体勢に、僕はチカチカと明滅する視界で酷く焦っていた。



「サ、サクラ……?」



 彼女は笑っている。


 だけどそれは、いつもの優しい微笑みではなく“本能に侵された獣”、獲物を前に怪しく自分の唇を舐めて笑う“女豹”だ。

 肩からずり落ち、開けた着物の下の肌は光と炎に照らされて熱く上気し、このまま身を任せてしまえと情動を誘う。


 “サクラ”という名の獣は、再び潤んだ瞳で僕だけを見詰め、裸身以上に上気した頬でゆっくりと顔を寄せてくる。


 今、気が付いた……僕はとんでもないものを目覚めさせてしまったんだ……。


 僕はここにきて、本当の貞操の危機をようやく自覚した。

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