第十一話 この街 と 桜
大断崖を背に、歩道橋から望める大通りはほぼ直線で、路の突き当りには壁があった。迷宮の入口から見た街を取り囲む壁だろう。高さが二、三十メートルはあり、ちょっとしたマンションのような存在感だ。
振り返ると、大断崖側の壁の手前には運河もあり、大通りの直線はそのまま橋に続いていく。
僕が周囲を一回り見たところで、サクラが口を開いた。
「この街ルテリアは、“騎士皇国エスクラディエ”の領内北端にある自治都市となります。人口はおよそ八十万人、二層の岩盤の上にあり、外敵も含めた墓守の侵入に対するため、三重の防護壁に護られている城塞都市でもあります」
「やはり、墓守は迷宮の外にも出てくるんだな」
「はい、ここに拠点が作られるより昔は、この辺り一帯は墓守の存在により、人類が踏み込めない土地だったと記録に残されています」
僕たちは歩道橋を渡り終え、話をしながら大断崖に向かって歩き始めた。
大断崖から吹いてくる風が冷たい。領内北端と言うことだから、北寄りにあるのと大断崖そのものの標高のせいだろう。
「街は、最外周となる第三壁と第二壁の間が、一般居住区や商業区となっている経済の要です。今、私たちのいるここは第二壁と第一壁の間で、行政区や工房区があります」
「宿処は居住区じゃないんだね」
「はい、最重要防衛施設が集中している分、来訪者の方にとっても一番安全な場所ですから」
来訪者が、そこまで大事にされる理由は何だろうか。
この世界にない知識と技術を持った存在は、確かに貴重とも思えるけど、それだって個人差がある。ゲームが趣味の一介の会社員に、世の中を変える知識や技術を期待されても、僕には応えられないだろう。
「第一壁の向こうは?」
「あちらは探索区です。迷宮探索のための施設、そして防衛拠点ともなる区画ですね。街の防衛は探索者と、衛士隊によって行われます」
「衛兵、じゃなくて衛士か。軍隊みたいなもの?」
「日本では確か『自衛隊』と言うのでしたね、あくまで都市防衛の組織です。他には、警察に当たる警士隊と、エスクラディエ駐留騎士団も存在していて、カイトさんから見たらややこしいかも知れません」
「うーん? 騎士団は在日米軍みたいなものかな?」
「ざいにちべぇぐん……ですか?」
流石に、サクラは在日米軍まではわからなかったようで、首を傾げている。
駐留騎士団は、自治都市だけど領内と言うことで、その騎士皇国とやらの主権維持のための存在かな……まだ情報が足りない。
程なくして僕たちは運河に出て、橋の手前で河下へと向きを変えた。
『防衛拠点』と言っていたけど、その証拠に岸辺の所々には防御陣地が敷設され、パッと見はソ連製百五十二ミリ榴弾砲のような火砲が大断崖を睨んでいる。
最終防衛ラインがこの辺りなんだろうか。後は上陸阻止の役割と、最悪は探索区を囮に榴弾の雨を降らせる……なんて戦術も考えられているのかも知れない。
運河の流れはかなり早く、河幅の広さと良い、要害としては充分だ。
幾分か近づいた大断崖を見る。真下から見上げた時に、街だと思った迷宮の入口付近は、離れてみてもやはり街だ。大小様々な建物が大断崖に張りついて、まるで我先にと登っているかのように遥か高みまで連なっている。
要するに、富士山の高さが壁になっているんだ。その内部迷宮の規模を考えたら、どう考えても無理ゲーだろうな……。
視線を戻すと、サクラの犬耳が僕の目線の高さでピンと立ち、こちらに向いているのが視界に入った。僕の反応が気になるのかな?
水面に反射する光が桜色の瞳をほんのりと色づけ、僕を興味深げに見るその仕草は、彼女の大人びた様子からは違う、そう、純朴な“柴犬”だ。
こ、これは思わず撫で回したくなってしまう……だけど、柴犬ではなく女性だ。
「……“桜”と言う名前は、その瞳の色から?」
ふと、彼女の瞳を見て、出会った時から思い至っていたことが口を衝いて出た。
「あ……はい! お爺ちゃんがつけてくれた名前です!」
サクラは一瞬驚いて、直ぐにふんわりと笑って答えた。
彼女は多分、お爺ちゃんっ娘じゃないかと思うんだ。
「やはり、私の瞳は桜色なのですね……」
「うん? そうだね、綺麗で淡いピンク色」
笑顔が陰る。その瞳は、ここではないどこか遠くを望んでいる。
何だろう、ひょっとして見たことが……いや、この世界には“桜”がない?
「サクラ、この世界に桜の木は……」
「はい、ありません。私は、お爺ちゃんの話の中でしか、桜の木を知らないんです。変ですよね、自分の名前なのに……」
えへへと、サクラは遠くを望みながら困ったように笑っている。
恐らく、祖父の話の中にしかない、日本に咲く桜を思い起こしているのだろう。
なるほどな……自分の名前の由来が気になるのは、僕にも身に覚えがある。
それが大切なものであればあるほどに、どうしたって思うところが出て来てしまうんだ。何とかしてあげたいけど、流石にないものは……そこまで考えて、ふと思い出すことがあった。
僕はおもむろに、懐のスマートフォンの電源を入れると、フォトライブラリから目的のものを探し始める。
「それは、携帯電話……ですか?」
「うん? 似たようなものかな。携帯電話はあるの?」
「この世界にはありませんが、来訪者の方が持ち込んだものでしたら、私もいくつか見たことはあります。そのような大きな画面で、その、そんなに鮮やかな色彩のものは初めて見ました」
翻訳器なんてものがあるから、あまり気にしていなかったけど、これもある種のオーバーテクノロジーとなるわけか。見せても大丈夫なのだろうか。
ただ、サクラの興味津々な様子を見て、それでも今だけは、と覚悟を決める。
……あった。
サムネイルをタップし画面一杯に表示すると、それを彼女に向ける。
当惑するサクラ。一度、二度、と僕とスマートフォンの画面を二度見し、いや、三度見て最終的に僕の顔を見た。
「本物、と言うわけにはいかないけど、これが桜だよ」
正真正銘の桜の写真。これは観光地や名所に咲く、誰もが魅了されるような由緒正しいものではない。ただ街の片隅で、昔からあるがままに根づく道端の桜の木を、通りすがりに見上げて撮ったもの。
ピンク色に艶めく花びらと、花びら越しに差し込む陽差しが眩しかった。そんな僕の感傷があったからこそ、今もこうして残っていたんだ。
サクラは今一度、スマートフォンの中に咲く、一面の桜に視線を落とした。
その瞳には大粒の涙――。
あわわ、ご、ごめんなさい! そうなるよね!
こんな道端で女性を泣かせてしまった、これでは通報されても仕方ない。
慌てて辺りを見回すも、幸いなことに川縁の土手の上には誰もいなかった。
うん……サクラが落ち着くまで、少しこのまま大人しくしていよう。
サクラはひとしきり食い入るように画面を見詰め、彼女が涙を拭おうとするのを見計らってハンカチを差し出す。
申し訳なさそうに、それでも素直に受け取った彼女は涙を拭った。
まあ、出かけにサクラから渡されたハンカチなんだけど……。
「あの……カイトさん、ありがとうございます。これが桜なんですね。胸が一杯で、何と言ったら良いのかわかりませんが、お爺ちゃんが『桜を愛でる』と言っていた気持ちがようやくわかりました。本当に、ありがとうございます」
サクラは涙を滲ませ、輝かしいばかりの笑顔を浮かべた。
本当に眩しい。水面まで祝福しているようで、少し照れくさい。
そうして僕は、照れ隠しをするように、妙な衝動にも駆られ、極自然にサクラの頭を撫でてしまった。彼女は嬉しそうに、犬耳を倒して尻尾も大きく揺らしている。
うら若い女性に対する印象ではないけど、どうにも両親がいた頃に飼っていた柴犬を思い出す。
そう言えば、一緒に桜の木の下を散歩したことがあったっけ……。
―――
どことなく距離が近くなったサクラと路地に入っていく。
周囲の建物は無骨で角ばったものが多く、聞こえてくるのは機械音と槌を打つ響きだけなので、この辺りが工房区なのかも知れない。
静謐な情緒が漂う街角は、ノスタルジックな感傷を思い起こしてしまう。空には鳥が滞空し、歩きながら視線を送っていると、建物の向こうへ消えていった。
「この辺りは懐かしい雰囲気だ。昔は下町に住んでいたから、少し思い出すよ」
「カイトさんは……日本に、帰りたいですか……?」
僕の感想に、サクラは上目遣いでそんなことを聞いてきた。
どうだろうか……心残りがあるとすれば、祖父を残して来たことくらい。今まで、あまり恵まれた環境ではなかったから、僕を探そうとする人もそう多くはない。
それにひとつだけ、僕はこの世界でひとつだけ調べたいことがあった。
思い至る可能性、例え今直ぐ帰れたとしても、それを無視したら後悔だけが残る。
「正直な気持ちは『わからない』かな。僕にはひとつ気になることがあって、その内サクラにも協力をお願いするかも知れない」
「はい! 何でもお申しつけください!」
サクラは満面の笑顔で、何の憂慮もない頼りになる返事をした。
だけど、これを告げることは恐らく彼女を悲しませることになる……どうするか。
そうしている内に路地を抜け、僕たちは大きな湖を一望出来る高台の上に出た。
大小様々な船が行き交っていて、大きな港になっている湖岸には、所狭しと接岸した船が忙しなく荷のやり取りをしている。
そして、湖の中心には奇妙な形の島。
「カイトさん、あれがこの街の名の由来となった、神代遺構“湖塔ルテリア”です」