第十話 露天風呂ハートブレイク
翌日、僕は少し遅めの時間に目が覚めた。
ゆっくりと休めたことで疲労は抜けたけど、筋肉痛があまりにも酷く、体は何とも言えないギクシャクとした動きになっていた。
「そ、それで、今日はどこへ?」
「はい、本日は街をご案内します。それと一番の目的は、日本コミュニティの長にお会いしていただくことですね」
普通に会話を進めているつもりだけど、正直なところ今の状況はまずい。
何故ならここはお風呂で、僕はバスタオル一枚のサクラに、何故か背中を流してもらっているからだ。
筋肉痛を見かねた配慮か、あくまでもおもてなしの一貫か。いや、ひょっとしたら僕が迷い込んだのは、ギャルゲーの世界なのかも知れない。
サクラが管理している宿処は三階建てで、二階にリビングと廊下の奥に彼女の部屋が、三階は三部屋で僕が寝た部屋と、対面にリシィとテュルケの部屋がある。そして一階、僕たちがいる半地下となるここがお風呂だ。
「日本コミュニティと言うことは、国ごとに存在すると思っても良い?」
「はい、正確には言語ごとですね。翻訳器はそれなりの数が発掘されてはいますが、永久に貸与するわけにもいかないので、私たちの言語の習熟のためにも必ず参加していただいています」
「なるほど」
サクラは、僕に対しては日本語で、リシィたちが一緒だとこの世界の言語で話す。
翻訳器が貸与と言うことは、まず言語の勉強から始めないとダメだろう。
それにしても、翻訳器は発掘されたものか……現代で作れないのなら、この世界にはかつて栄えた文明があって、今は埋もれていると言うことになる。
これまでの会話から、【神代遺構】関連かな。スペースエレベーターを造った文明、一種のオーパーツのようなものが、現実的な影響力を持ってあるんだろう。
とは言え、この世界に来て一番の想定外は露天風呂があったことだ。
そう、僕が今いるのは露天風呂だ。
それも、内風呂の壁を抜き、庭と繋げて無理やり改造したものらしい。
内部は情緒のある庭園風で、狭いながらもとても気持ちが良く、ちょっとしたスパリゾートに来た気分だ。四方は石壁なので、景観に関しては空に薄っすらと見える、スペースレベーターを眺めるしかない。
「地球人の総数に比べて、日本人が多いとは感じていたけど、偶然?」
「それについては、あまり詳しくわかっていません。大地に流れる“神脈”、日本では“霊脈”や“龍脈”と呼ばれるものの影響だとされています」
「うん? “神脈”か……」
どう言うことだろうか、入口が開き易い地域があるのか……。
話を途中に、石鹸を洗い流してのそのそと湯に浸かると、『失礼します』とサクラまで入ってきた。
あ、あの……流石に過剰過ぎるサービスは、倫理的にダメだと思うのだけど……何故か彼女は、手をお椀型にして湯に差し入れ念じている風だ。
少しぬるかった湯が、特に差し湯をしているわけでもないのに、見る見る熱く適温になっていく。どうなっているんだ……。
「何か、急激に良い湯加減になってきたけど、サクラが何かしている?」
「はい、温度を上げています。カイトさんがお休みになられている間に、湯温を調整しておくのを忘れてしまって……ごめんなさい」
そっ、それで一緒に……!? サクラは頬を上気させて、犬耳と尻尾を落ち着かなさそうに彷徨わせている。やはり恥ずかしいのか。
纏め上げた髪は少し乱れ、汗で濡れた肌に張りついて絶妙な色気を醸し出し、何だか色々な意味で限界突破が出来てしまいそう。
湯に沈んだバスタオルは透けて、思わず見てしまった僕はムチウチになる勢いで空を見上げた。
「ご、ごめん……気にしないで。それよりも、それは魔法か何か?」
ギリギリ視界の端に入っているサクラは、僕を見て少し考え込んだ。
「“魔法”が何か、と言う概念自体は来訪者の方から伝わっていますが……はっきり申しまして、体系化された“魔法”と言うものは存在しません」
え、概念レベルで魔法がない……?
じゃあ、リシィの光矢は一体何だったんだ?
あれこそ、傍から見たら魔法にしか見えないけど……。
「ですがその代わりに、固有の特殊能力を各々の種族が持っています」
そう言って、彼女が弾くように人差し指を立てると、指先に小さな火が灯った。
「……んっ!? 今何をしたんだ!?」
「私は日本人の血と、“アグニール高等焔獣種”と呼ばれる種族の混血です。種族の特徴は、体内に炎熱を操作する器官を持つことですが、私はこの能力が……」
「凄いよサクラッ!!」
僕は思わず、生物学的な能力の発生原理に心を打たれ、つい火が灯った彼女の手を握り締めてしまった。熱くはない。
目の前には、文字通りの火が灯ったようになったサクラの顔。
まずい、バスタオル一枚の女性に対して、男が取って良い行動ではない。
「あ、あわわ、ごごごめん」
「い、いえ……大丈夫です」
顔を真っ赤にしながらもサクラは頷いてくれた。
それでも彼女の視線は泳いでいるので、早々にやってしまいました。
「えっと、上がろうか。本当に、その……ごめん」
「は、はははいっ!」
僕たちはいそいそと湯から上がって、風呂場を後にした。
それにしても、種族由来の固有能力か……『器官を体内に持つ』と言うことは、どう足掻いても普通の地球人には使えそうもない。
この世界の人にとって、それは恐らくもう一本の手脚やその延長で、わざわざ“魔法”と定義づける必要のないものだ。だからこその『魔法はない』だけど、僕たち地球人から見たらそれは“魔法”に他ならない。
魔法が習えたら、例えば探索者として、リシィたちに恩を返せたかも知れないのに、いきなり出先から挫かれてしまったな……。
―――
「まずはお召し物でしょうか?」
食事中にサクラが、昨晩の内に洗濯をしてくれていたらしい、椅子の上の綺麗に畳まれた僕のパーカーを見ながら言った。
今は宿処にあった作務衣を着ていて、これは間違いなく彼女の趣味だ。
「うーん、そうだね。この作務衣だけでも充分なんだけど、流石に下着がね……」
「はい、でしたら帰りにお召し物と日用品、食材も買い足しに行きましょう!」
「ありがとう」
サクラはニコニコと、焼き魚の身を丁寧に解して口に運んでいる。
少し遅めの朝食、普段インスタント食品ばかりだった僕からは、随分と贅沢だと思える食事だ。ご飯、味噌汁、焼き魚、煮物と、添え物のバランスも良く、異世界だと言うことをサクラの犬耳を見ない限りは疑ってしまう。
お風呂でやらかしてしまったものの、既に彼女の様子は落ち着いていて、味噌汁を口にした温かさと共に安堵の溜息が漏れる。
「ふぅー……お味噌汁、美味しい」
思わず口に出すと、わさわさと尻尾を揺らしながら、サクラが満面に笑った。
突然ロボットにおいかけられるなんて、波乱を含んだ始まりからは想像が出来ないほど、今の僕の状況は穏やかな日常の中にある。
日本に帰りたい気持ちはあるものの、これが続いて欲しいとも思ってしまった。
準備を整えて、サクラと一緒に宿処を後にする。
リシィたちは墓守回収の件で、朝からギルドに向かったとのことで今はいない。
狩りゲーのように素材か何かに使うのだろうか、確かに加工すれば良い武器防具にはなりそうだ。
朝の陽が射す路地は子供達が元気に走り回っていて、時折どこかから聞こえてくる馬車の蹄と車輪の音がアクセントになり、とても穏やかだ。
隣には大正メイドさんだから、どうにもここが異世界だと実感がないんだよな。
平穏過ぎるのもいずれ退屈になってしまうのだろうけど、変に平穏過ぎて危ないフラグが立たないようには気を付けないと……。
昨晩馬車を降りた通りを抜けて、更に進むと大通りに出た。
驚いたことに、片側二車線ある大通りは、慌ただしく行き交う人も馬車の往来も大都市のそれだ。
人々の装いは、建物と同じく中世ヨーロッパ風に見えて、どことなくSF染みた印象があるようにも見て取れる。僕が着ていたような、パーカーの人までいるな。
流石に和服は、僕とサクラ以外では見当たらないけど、特に注目されることもないので、和服も服の一種として認識されている可能性があった。
「カイトさん、こちらから渡ります」
「おー……お?」
歩道橋だ……信号機は見当たらないので、馬車の合間を縫うよりは、橋を作った方が安全かつ効率が良いのだろう。
大通りに注目していたせいで、気が付くのが遅れたけど、歩道橋の上まで来た時点で僕はようやく気が付いた。
“大断崖”――【重積層迷宮都市ラトレイア】の威容に。
天を衝く壁、“世界そのものを内包する大迷宮”。それは別に過言でもなんでもなく、ただありのままを見たままに告げただけ、と言うことを今更ながらに認識した。
「はぁ……こうして離れて見ると凄いな。言葉に出来ないよ」
「ふふ、そうですね。カイトさん、迷宮の入口ほどは見渡せないと思いますが、まずはこの街をご覧ください」
歩道橋の上から、ゆるりと“迷宮探索拠点都市ルテリア”を見渡す。
人々の行き交う喧騒の中、この街、そしてこの世界の話が始まる。