幕間七 神代からの先触れ
ルテリア行政府、場所は総議官執務室、室内では一人の少女が豪奢な革張りの椅子に深く埋もれていた。
聖テランディア神教国代表総議官、セントゥム エルトゥナン。
少女と言っても外見がそうであるだけで、実際は齢数百歳に及ぶルテリアで最も高齢の女性である。
翠眼銀髪、ノウェム メル エルトゥナンに良く似た面立ちとその名は、彼女がノウェムの親族、それも祖母であることを示している。
ルテリアに、間近に自分の孫がいる。それは当然、総議官である彼女の知るところではあるが、自分の存在は伝えずに陰ながら孫の動向を慮っていた。
「あの子の様子はどうです?」
静かに語りかける声音はその存在の威光からはかけ離れ、ただの一言で彼女の人となりを把握出来るほどに、優しくも穏やかなものであった。
尋ねられたのはセントゥム直属の補佐官、背に生えた身の丈ほどもある緑色の翼が目に映える年老いた男性だ。
「はっ、迷宮第五界層に到達した後、第三拠点シェハイムを襲撃した【鉄棺種】との戦闘に巻き込まれ、今はしばらくの余暇を楽しんでいるとの報告です」
「そうですか……今、第三拠点にはシュティーラもいるのでしたね。あの子にとって一度は叱りつけられた相手、心よりの休息を楽しめたのなら良いのですが……」
「今回ばかりは、サークロウス卿も目的を別としてお出でです。むしろ関心は、お嬢様に同道する来訪者カイト クサカに向けられるかと」
「カイト クサカ……あの子が伴侶と願った青年……。もしも叶うのであれば、私も一度お会いしたいですね……」
セントゥムはどこか物憂げな表情で天井を見上げた。
執務室の、講堂かはたまた教会かと見紛うほどの高い天井は、執務をするだけなら無駄でしかない。自分はもっと慎ましやかで構わないと、この部屋を始めて訪れた頃の彼女が思っていたことだ。
彼女の視線は高い天井を越えた更に先、石材に阻まれ見えないはずの彼方に浮かぶ“天の宮”にまで向けられている。
「私が天の宮を去り幾年月、彼の地は今も堕落の中にあるようです。あの子が地上に落とされた原因……それは、彼の者たちにあることは間違いありませんね」
「心中お察しいたします」
セントゥムはかつて、自らの意思で天の宮から地上に降りた。
主家に生まれながら、堕落するセーラム高等光翼種に思うところのある精神的な異端は少なからず存在し、彼女もまた疑念を感じた者の一人であった。
今の彼女には、聖テランディア神教国代表ルテリア総議官としての責務がある。
だがそれ以前に彼女は、セーラム高等光翼種としての己の“役目”を、今年に入ってから強く意識するようになっていた。
「【重積層迷宮都市ラトレイア】……いえ、このルテリアや、世界までも巻き込んだこれまでにない異常事態が、大迷宮の深奥で人知れず進行しています。私は今一度、天の宮に戻る必要がありそうですね」
「では、やはり……」
「ええ、鍵を使い、“御所”を開かなければなりません。ジェイエムスの説得には苦労すると思いますが、これは私にしか出来ない役目……。ニューラン、後は任せてもよろしいですか?」
「はっ、このニューラン、出来ればセントゥム様にどこまでも付き従いたい心持ちです。然らば、主と仰いだお方のお助けとなるのも当然のこと。お任せ下さい」
「ありがとうございます、ニューラン。長く、苦労をかけますね」
「はっ、勿体なきお言葉」
セントゥムはどこからともなく“銀色の鍵”を取り出した。
“鍵”と言っても鍵の形はしていない、一面が銀色に染まる“カードキー”。
天の宮に存在する“御所”の扉を開くための鍵は、この世に二つとないものではあるのだが、堕落した彼の地には置いておけないと彼女が持ち出したものだ。
それを携え二度と戻るまいと誓った故郷に舞い戻る、それは決して容易くない。
だが彼女は、そうしなければならない理由に早い内から気付き、覚悟もしていた。
「天の宮に戻り、御所を開きます。神龍グランディータへの拝謁、それがまずは世界の異変に対する第一歩となるかも知れません」
セントゥムは机の片隅に置かれた写真立てに意識を向けた。
彼女と、彼女が胸に抱く幼子の写真を懐かしく眺める翠眼が揺れる。
「願わくば、この一歩が新たな時代の先触れとならんことを……」
―――
深く、深く、仄暗い水の底、体を折り重ね沈む龍が瞳を開いた。
白銀龍――神龍グランディータ。
天の宮に神代より眠り続けた始祖龍が一柱。
彼女はそのとぐろを巻いた巨体を水上へ向け滑らせる。
水中にあっても輝く銀灰を纏い、自らも月の輝きのように煌々と燃え、昔日の面影を失ってもなお白銀の龍鱗は目映く光を放つ。
水上に静かに身を躍らせた彼女は、ただ一言だけ誰に告げるでもなく呟く。
「血は誰よりも濃く……あなた様なら、必ずや成し遂げることが出来ましょう……」
それを最後に、神龍グランティータは跡形もなく姿を消した。
彼女の体はその全てを銀砂に変え、夜陰の中に煌めきを残し儚く散ったのだ。
後に残ったのは、降り積もる銀砂と静かに満ち引きをする海と浜だけ。
全てを知る白銀龍の忘れ去られた果て、今はもう波音だけが寂寥を物語る。
――世界は回る。
久坂 灰人の与り知らぬところで、収束する世界は扉を開いた。