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第八十七話 失ったもの 失わなかったもの

 テントの中では、既に体を起こしたルコが気怠げに自分の髪を弄っていた。


 ジャケットが肩にかけられているものの、右腕の肩から先は失われている。

 斬られたからじゃなく、始めから“肉”の腕はなかったことにされ、傷跡は何年も前に塞がっていたかのようにつるりとした肌を見せるだけだ。


 以前に聞いた話によると、異世界転移の際に乗った飛行機ごと墜落したとのことなので、本来ならその時に失われていたものなのだろう。


 罪悪感と少しの安堵に、僕は後ろめたさを感じてしまった。



「あ、カイくん。変なんだよ、何で私の髪の毛は青くなってるのかな?」



 テントに入った僕を見て、ルコは小首を傾げ訪ねてきた。

 熱いものが胸の内に込み上げるけど、我慢して彼女の問いに答える。



「ルコは悪い夢を見ていたんだ。その悪い夢がそうさせた、もう大丈夫だよ」



 僕を見ながら、ルコはしばらくの間考え込む。


 現実と認識の齟齬は、緋剣が及ぼした力の分だけ乖離する。

 だけどその力は、“過去の原因”を取り除くにも関わらず“過去の改変”ではないようで、ルコには青い髪が残り、彼女以外も影響を受けることはなかった。


 理屈はわからないけど……ルコは緋剣によって解放され、その力を受けてもなお彼女は彼女のままだったと言うことだ。


 ルコを目の前にして、僕はようやくその事実を実感することが出来た。



「カイくん、ごめんね。多分それ私がやったんだよね?」



 僕の体は切り傷だらけ、全身に包帯を巻かれた姿は隠しようがない。

 てっきり記憶はなくなっているものと思っていたけど、全てではないようだ。



「いや、正確にはルコを操った悪い魔女の仕業だよ。覚えているのか?」


「ううん、何も。けど、沢山の何かが失くなったことだけは、直ぐにわかった」


「そうか……大丈夫か?」

「うん、大丈夫だよ。正義の味方(ヒーロー)はどんな逆境も乗り越えるんだ!」

「はは、どんな時でもルコは正義の味方を目指して……いや、正義の味方なのか」

「ふふーんっ! 私に憧れても良いんだよ!」

「とっくの昔に、ルコは僕の憧れだ」

「あはっ、そっか~」



 元気そう……でもないな、正義の味方なりの強がり。

 多くの記憶と経験を失いながら、それでも彼女は変わらないんだ。


 瞳の奥の青光も消え、今はただ日本人らしい風貌で少し幼い印象……変化したわけじゃないけど、恐らくは失った分だけ精神が退行したせいだ……。



「リシィも入って来て大丈夫だよ」

「え、ええ……失礼するわ」



 僕はテントの外までは一緒だったリシィを招いた。


 気を使ってくれたのか、それとも戸惑いか。どんな結果になろうとも、幼い頃の記憶だけは残る僕と違い、一緒に過ごした時間の少ないリシィとの記憶は全て失われるかも知れないんだ。

 それを思うと、既にルコを友人だと思うリシィは、僕よりも辛いのかも知れない。



「あは、リシィちゃんもお見舞いに来てくれたんだ。えと、え~と……? あれ、いつぶりだっけ?」


「……ルコッ!!」



 リシィは恐る恐る中に入り、ルコの様子を見ると一目散に飛びついた。


 恐らくは良いものも悪いものも、沢山の感情がない交ぜになって堪えられなくなったんだろう。リシィはルコを強く抱き締めながら、嗚咽を漏らし始める。



「ルコ、僕はテントから出ているから、何かあったら呼んでくれ」

「え~、来たばっかなのに。ずっといても良いんだよ?」

「いや、今はリシィに任せるよ」

「そっか、わかった~」



 改めて話したいことは沢山あった。彼女を心配するあまり、質問攻めにしそうなほど聞きたいことも沢山あった。


 だけど今は、ルコが変わらないでいてくれたことだけで良しとしよう。


 もう探索者には戻れないだろうけど、“肉”と融合していた結果があの青光の力なら、これで良かったんだ。





 テントから外に出た僕は、鞄から地図を取り出してサクラの元に向かった。


 結局サクラは、ミラーを従えて食事の用意をしている。休むように言ったけど性分だろうか。テュルケは端でうとうとしているので、あのまま休ませておこう。



「サクラ、第三拠点までの経路を確認したいんだけど、忙しいか?」

「いえ、下拵えをしているだけですから大丈夫ですよ。ミラーさんもいますし、後は任せてもよろしいですか?」

「オーケーでゴザル! レトルトなら任せるでゴザル!」



 心配だ……殆どが保存食だから、レトルトと言えばレトルトなんだけど……。


 僕とサクラは焚火から少し離れて腰を下ろし、今後の相談を始める。一応自分なりに地図は見たけど、上下構造が複雑過ぎてどうにも要領を得ないんだ。



「それで、ルコを護衛しながら進むことになるけど、次の第三拠点までの行程はどうなるんだ? 確か第五界層はラトレイアの城下町なんだよな。アリーがいるから、墓守との戦闘は避けられると思うけど」


「はい、第三拠点シェハイムは、ここからですとおよそ一日半ほどでの到着となります。無理をすれば野営しなくとも行けますが、そうですね……墓守を相手にしないで済むのでしたら、一日で辿り着けるかも知れません」


「そんなもんか。ルコの体は衰えていると見て、余裕は持ちたいところだ」

「はい、見る限りでは、右腕以外は以前と変わりないようにも思えます」


「何なら、アリーが墓守を捕まえて皆を乗せるワ。そのほうが楽勝でショ?」



 会話中に、アリーが突然背後から覗き込んで来て告げた。



「うん? 今までそうやって移動していたのか?」

「そうヨ、あまり乗り心地は良くなかったけド。脚より車輪つきの……そう、戦車クアドリガとか捕まえられたら最高ネ!」

「アリーは墓守トレーナーでも目指すのか? 怖いからシンカはさせないでね?」

「アナタ、何の話をしてるノ?」

「ごめんなさい」


「主様」

「おわっ!? な、なに、ノウェム?」



 やはり今度も背後から、ノウェムが僕の背に覆い被さって来た。

 能力使用の負荷はまだ抜け切っていないようで、若干体温が高く声も気怠そう。



「その小娘のせいで我とのデートが反故にされたのだが、忘れてはおるまいな?」


「なっ、小娘に小娘呼ばわりされたくないワ! 何なのアナタ!?」

「ほう、我に対して小娘と? お人形遊びしか出来ぬ小童が、我の機嫌を損ねた代償は如何とするか」

「小娘は小娘にしか見えないワ! アリーが本気を出したラ、アナタくらい直ぐに瓦礫の下敷きヨ!」


「待った! 何でいきなり喧嘩腰なの、ノウェムさん!?」



 た、確かにアリーのせいでノウェムは吐血までしたし、奇襲を警戒してさっさと迷宮に入ってしまったから、デートは保留にしていたんだ。



「ぐぬぬ……だって……」


「ノウェム、約束は覚えているから、その憤りは僕に預けてくれないか? 次の拠点でも、地上に戻ってから改めてでも、待たせた分は遊びに行こう。アリーも頼む、ノウェムはこう見えても多分君より年上なんだ。虫の居所が悪かっただけだよ」


「えっ、噂に聞くロリババ……」

「キ、サ、マ、我を『婆』と抜かすか。そこに直れ、手打ちにしてくれる!」


「やめて! 喧嘩はやめて!?」



 結局はサクラと、何事かと寄って来たミラーも加勢に入って二人を止めた。

 ノウェムの気持ちもわかる、だけど第三拠点までは我慢してもらうしかない。


 後でしっかり埋め合わせはするとして、今は頭を撫でることで勘弁してもらおう。



「くふふ……悪くはないぞ、主様よ」




 ―――




 翌朝、ルコの調子を確認しつつ、僕たちは野営地を後にした。


 広間の一階下に界層間大門があり、それを抜けると直ぐに第五界層だ。

 つまりは、この大迷宮を築き上げた人々がかつて住んでいた都市。


 下層第五界層“重積層迷宮都市ラトレイア”――大迷宮の名の由来にして、主城を護る難攻不落の重積層都市界層、“廃城街ラトレイア”。


 大門を抜けると、そこは小洒落た駅前広場の様相だった。

 まず目に入るのは噴水で、今も流れ出る水は清流のように澄んでいて、野営地での水汲みはここまで来ていたようだ。

 噴水を通り過ぎた向こうは崖で、手摺はあるけど覗き込むと底が見えない。所々を青白く照らすのは、第一界層でも見た街灯だろう。


 そしてあるのは崖だけじゃなく、僕の概念の中でその様を言い表せる言葉があるとしたら、“エッシャーの錯視の街”だ。

 崖の底から遥かな高みまでの視界全域に、積み重なり折り重なったどこか幻想的な雰囲気を醸し出す都市が、青い光源に揺らめいて存在している。



「えーと、右だっけ?」



 そんな光景に感嘆の声が漏れる前に、僕は酷く現実的な言葉を口にした。

 この景観をどう口で言い表わせば良いかわからなかったのと、先に進みたい冒険心が抑えられなかったからだ。


 どうにも、かつて胸を躍らせながら駆け巡った、ゲームの中だけのオープンワールドを思わせ、居ても立ってもいられない。



「はい、まずは上方へ向かう道を進みます。第四界層ほどではないですが、反転重力場には気を付けてくださいね。先導します」


「ああ、頼む」



 いくら探索しても、未だに探索し尽くせない未踏領域のある迷宮都市。


 僕は今、【重積層迷宮都市ラトレイア】の真髄にまで辿り着いた。

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