異世界転生―ヴァンパイアの秘密―
一旦、俺はフランクリンと別れた。
ヴァンパイアの特性上、どうやらフランクリンは日中に起きているのが難しいようだ。
俺がリーネに話を聞くと快諾すると、すぐに落ち着きを取り戻し、眠りに就いてしまった。
今も、リーネは眠っているはずである。
だからやるべきことはない。
アルヴェスト王国に昼という時間が何時間あるのか分からないが、窓から太陽を見る限り、まだまだ沈みそうにない。この時間を利用して、色々調べたいのだが、この辺の地理がまるでない。
困った俺は、一階のフロアをウロウロとしていた。
すると、奥の部屋から物音が聞こえてきた。
行ってみると、調理室のようだ。
食材を刻む包丁の音が聞こえてくる。
日中に眠るのがヴァンパイアの特性なら、今起きているのは、ヴァンパイアではないのか?
気になった俺は、調理室の前へ向かい、そして中を覗き込む。
クラシカルな執事服を着た初老の男性が、何やら料理の支度をしているようだった。
「あ、あの……」
と、俺は声をかけてみた。
殺されるわけではないから、問題ないだろう。
初老の男性はくるっと体を向けると、声を発した。
「これは、お嬢様が救出した少年ですね」
「まぁ、そんな感じです」
「もう、体は大丈夫なのですか?」
「はい、おかげさまで……。あなたは寝ないんですか?」
「これでも少しは眠った方なんですよ。歳を取ると、眠りが浅くていけません。明日の仕込みを今しようと考えたわけです」
「そうですか。えっと、確かクロードさんですよね。そう聞きました」
「はい。いかにも私はクロードと言います。あなたは?」
「カイエって呼んでください」
「カイエさんですか。あなたは寝なくても良いのですか? ゆっくりとされると良いでしょう」
「俺は夜になったら寝るんですよ。まぁこんなこと言っても信じてはもらえないかもしれませんが」
「いえ、ヴァンパイアには色んな人がいますからね、夜寝る人がいても不思議ではありません」
俺はヴァンパイアではない。
だけど、それは黙っていた。
「今、俺の部屋でフランクリン伯爵が寝ているんです。なんでもリーネに会いに来たそうですよ」
「そうですか。フランクリン様が……。では、フランクリン様のお食事も用意されないといけませんな」
「リーネとフランクリン伯爵は結婚するんですよね?」
「そうなりますね。挙式は一カ月後です」
「あの、アラベスク伯爵ってどんな人なんですか? 少し聞いたんですけど、リーネの許婚だったって」
「昔の話ですよ。あのお方はやめた方が良い。リーネ様は迷っておられるようですがね」
「どういう意味です?」
「簡単な話ですよ。リーネ様はアラベスク伯爵様をお慕いしているのです。昔から……」
「そうなんですか。じゃあどうして、フランクリンさんと結婚を?」
「今は亡き、アウグスト家の前当主、トゥトゥリス様の遺言です。しかし、アラベスク伯爵はまだあきらめてはいないようですがね。虎視眈々と策略を練っておられます」
「アラベスク伯爵って人は、リーネが好きなんですか?」
「いえ、リーネ様が好きなのではなく、このアウグスト家の血筋が必要なのです。アウグスト家を手中に治めれば、このトリステール地方を治めることになります。アラベスク伯爵様は王族なので、領地が欲しいのですよ。その点衰退しているアウグスト家は格好の餌。この地を手に入れ、自分だけの王国を作ろうとしているのです。それを止めるために、トゥトゥリス様はフランクリン様と婚約するようにと遺言を残されたのです。しかし、リーネ様はまだ若い。自分の気持ちに整理がつかないのです。さらに、まずいのはリーネ様の気持ちが揺らいでいるということ。ちょっとしたきっかけがあれば、婚約を破棄し、アラベスク伯爵様と婚約し直すでしょう」
「そ、そんな……。フランクリンさんは良い人なのに」
「私もそう思います。しかし、人の心はそう上手くいかないのですよ」
「アラベスク伯爵は今どこに?」
「アルヴェスト王国の都市の一つであるトニルン地方におられます」
「それはスーヴァリーガルの近くですか?」
「いえ、スーヴァリーガルはまだ先です。ここから一日はかかるでしょう」
「そうなんですか? 実は俺、スーヴァリーガルに行きたいんです。でもその前にフランクリンさんを助けたい」
「助けるとは?」
「リーネと結婚させるんです。そのためにはリーネの目を覚まさせなければならない。アラベスク伯爵に会う必要があります。どうしたら会えますか?」
「会うのは難しいでしょう。しかし、方法がないわけではありません」
「どんな方法ですか?」
「あなたがスーヴァリーガルの使者ということにするのです。アラベスク伯爵自身、フランクリン伯爵様と同じで、スーヴァリーガルに興味を持っています。それを利用するのです」
「これから行けますか?」
クロードは目を丸くした。
しかし、ゆっくりと呼吸を整えると、ニコッと軽やかな笑みを浮かべ、
「案内しましょう」
そう答えた――。
ヴァンパイアのすべてが日中に弱いわけではないのかもしれない。
黒いマントをかぶっているものの、クロードは陽射しが降りしきる中、俺を乗せて馬を走らせた。
馬で半日くらいの場所に、トニルン地方はあるらしい。
馬に乗った経験のない俺は、トニルンに着くころには疲労困憊していた。馬を乗り継ぎ、いよいよトニルン地方に入る。辺りは少しずつ闇に包まれて、夜の始まりを予感させた。
アラベスク伯爵とやら住む屋敷は、かなり大きな屋敷……というよりも城だった。
入口には歩兵がおり、俺とクロードを訝しい目で見つめていた。
「貴様ら何者だ?」
歩兵は言う。
当然の疑問だろう。アポなしでやってきたのだから、不審がられても仕方がない。
それでも行くしかない。フランクリンの為に……。
「我々はスーヴァリーガルからの使者です。アラベスク伯爵に取り次いでいただきたい」
と、クロードはもっともらしい言い方をした。
しかし、歩兵はなかなか首を上下には振らない。
「そんな約束は聞いておらんぞ。第一、今、スーヴァリーガルに渡航はできないはずだが」
「これを見せれば分かります」
咄嗟に俺は言った。
手にはスマートフォンを持っている。この世界でマジックアイテムと称され、スーヴァリーガルの渡来品として認知されているこのスマホなら、きっと事態を解決してくれると思えた。
「なんだこれは?」
「スーヴァリーガルのマジックアイテムです。そう言えば分かると思います」
「不思議な奴だな。まぁ良い。少し待ってろ。アラベスク伯爵様に取り次いでみよう」
俺は何をしているんだろうか? まだ、会って間もない少女の為に、どうしてここまで骨を折っているのだろう。本当はすぐにでも帰りたいはずなのに、なんとなく協力したくなるのだ。俺は森の中で倒れていたのだと言う。
放っておくことだってできたはずだ。だけど、アウグスト家の人々は俺を救ってくれた。
なら、その恩を返さないとならない。だから、俺はリーネの為に動くんだ。俺はそう自分で納得させた。
やがて、歩兵が血相を変えて戻ってくる。
「お主、名前は?」
「カイエです」
「カイエ殿。アラベスク伯爵様が今すぐお会いになりたいそうです。ご案内します」
俺が先に進もうとすると、隣に立っていたクロードが耳元で囁いた。
「私は、ここにおります。しかし何かあれば、これを強く握りしめてください」
クロードは俺に翡翠の石のようなものを渡した。
「これは?」
「私が持っているマジックアイテムでございます。強く握ると、その人間の精神状態を知れるのです。あなた様に何かあれば、すぐに私が駆けつけます。ご安心ください」
「なら、一緒に来てくださいよ」
「それはできません。何しろ、アラベスク様は私を嫌っておられますから……」
「わ、分かりました。とにかく何かあればこの石を握ります」
「ご武運を!」
俺はアラベスク伯爵のいる間に案内された。
食堂のような一室であり、横に長い机が置かれ、卓上には点々とろうそくの明かりが照らされていた。
室内の頭上には大きなシャンデリアがあり、そこからもろうそくの明かりが降り注いでいる。
アウグスト家に比べると、まだ光量があるように感じられる。
「アラベスク伯爵様。こちらカイエ様です」
「うむ……」
アラベスク伯爵は俺が想像していたタイプとは少し違った。
屈強な肉体。ベージュの髪に、ライトブラウンの瞳、そしてあごにはたっぷりとヒゲを蓄えている。
ヒゲがあるから、年齢が高く見えるが、多分二十五歳くらいだろうと察した。
「カイエと言ったな」アラベスクは椅子に座ったまま言った。「これをスーヴァリーガルより手に入れたらしいが、それは本当か?」
さて、どう答えるべきか……。
これは俺が東京から持ってきたもので、実はスーヴァリーガルのものではない。
だけど、それを言うと話がややこしくなると感じられる。
ここは話を合わせておいた方が良いだろう。
「本当です」
俺は言った。
すると、アラベスク伯爵はスマートフォンをテーブルの上に置き、まじまじと見つめた。
「これは一体何なんだ?」
電話……。
と言っても分からないだろう。
だから、俺は「マジックアイテムです」とだけ答えた。
アラベスク伯爵はマジックアイテムには相当の知識があるようで、後方にあった棚から、瓶のようなものを取り出した。それは、魔法瓶のポットだった。なぜ、こんなものが……。
「魔法瓶ですね」
「まほうびん? これはスーヴァリーガルより渡来したマジックアイテム『流星の壺』だ」
「流星の壺ですか」
「うむ。冷たいものは冷たいまま保存ができ、温かいものは温かいまま保存ができる壺なのだよ。なかなか高かったが、無理を言って手に入れたのだ」
俺の家にも魔法瓶くらいある。
いや、日本ならどんな家庭にだってあるだろう。だから、決して珍しくはない。それでも、このアルヴェスト王国ではかなり珍しいものになるだろう。冷たいものは冷たく、温かいものは温かく保存できる魔法瓶、その名の通り『魔法』と呼んでも差し支えないかもしれない。
「それで、君は私に何の用なのだね? これを売りに来たのかね?」
と、アラベスク伯爵は言った。
俺はアラベスク伯爵のライトブラウンの目を見つめる。
宝石のように煌びやかに光る眼が、俺を捉えている。
「リーネのことです」
リーネ。
その名前に、アラベスク伯爵は目を大きくした。
「アウグスト家の次女か……。彼女がどうかしたのか?」
「あなたは彼女をどう思っているんですか?」
アラベスク伯爵の目が細まる。
「どう思う……だと。愉快なことを聞く奴だ。どうも思ってはおらん」
「だけど、昔は許婚だったって聞きましたけど」
「昔の話だ。親同士が酒の席で取り決めた口約束に過ぎない」
俺はスマートフォンを手に取った。
そして、ある操作をする……。
それを、興味深そうに見ていたアラベスク伯爵だったが、特にやめろとは言わなかった。
ただ、少し間を置いた後、話を続ける。
「昔はね、アウグスト家に興味があった。トリステール地方を取り仕切る名家だ。私は王族の一人だが、王位継承からは外れている。伯爵の地位だって王になれない憐れみから与えらえた称号に過ぎない。だからね、トリステールを手に入れることに興味があった。あそこで自分だけの城を作り、王として君臨する。そんな夢があったのは確かだ……。だが、今のアウグスト家は衰退している。そんな没落貴族の仲間入りをしようとしている家に私が行くわけないだろう。こう見えても私は王族だ。それなりの家柄を守る場所に行く必要がある。
「リーネはあなたが好きかもしれないんですよ」
「あの小娘がか……。そんなことはどうでも良い。私は彼女にはこれっぽっちも興味はない。むしろ好かれるのは迷惑だな。何より、リーネには婚約者がいるはずだ。そいつと結婚したら良いだろう。もう、私が口を挟む必要はない」
「リーネを何とも思っていないんですね」
「くどいな。興味はない」
「リーネが仮に、あなたとなら結婚したいと言ったらどうします?」
「あっはっはっ……。何を戯言を……。そんな馬鹿な求婚を受けるわけないだろう。アウグスト家はいずれ完全に衰退する。誰と婚約したのかは分からないが、今のアウグスト家と結婚するなんて言うもの好きがいたことに感謝するのだな」
リーネはなぜ、こんな男に惹かれているのだろう。
確かに顔は良いかもしれないが、私利私欲でしか物事を考えられない王族の末裔よりも、人間味が溢れるフランクリンの方が何倍も人間らしいと思えた。
「分かりました。聞きたかったのはそれだけなんです。俺はこれで帰ります。突然来て申し訳ありませんでした」
「待ちたまえ……。そのマジックアイテム。言い値で買い取ろう。それが目的じゃないのかね?」
「いえ。リーネの為にあなたの本心を聞きたかっただけです。リーネはあなたと結婚しない方が良い」
「当然だ。私があんな没落貴族と結婚するはずないだろう」
俺は最後に一例をして、部屋を出ようとした。
最後にアラベスク伯爵が「気が変わったらそのアイテムを売りに来い」と、羊皮紙に書いた契約書のようなものを渡してきた。言葉が分からないので、俺は受け取るだけ受け取ったが、ここにはもう来たくない。後は、リーネの目を覚まさせるだけだ……。
伯爵家を出ると、門の前でクロードが一人佇んでいた。
辺りはすっかり闇に包まれている。長い夜が始まったのだ。疲れから、若干の眠気はあったけど、俺はクロードの前に行った。
「話は終わりましたか?」
クロードは尋ねる。まるで、こうなることを予期していたかのような目。
「終わりました。あなたの言うとおりだ。あのアラベスク伯爵って人は、人間的に終わってる……。自分のことしか考えていないんだ。あんな人間と結婚したら不幸になりますよ」
「そうでしょう。ですから、私はリーネ様はフランクリン伯爵様と結婚されるのが良しとしています。しかし、リーネ様を説き伏せるのは難しいでしょう。恋は人を盲目にさせますからね」
「手は打ってあります。俺に任せてください」
「そうですか。これは心強い。クロードはあなたを信頼しますぞ」
そう言い、俺とクロードは馬に乗り、アウグスト家へ戻った。
長い旅路。
約半日ほどかけて、俺はアウグスト家に戻ってくる。
疲労はピークを迎えていた。
乗り慣れない馬に、長い間乗っていたため、関節は悲鳴を上げていたし、体もフラフラだった。
屋敷内に戻ると、ちょうどリーネが玄関で立っていた。
「カイエ……。ちょっと良い?」
怒りが滲んでいる。
俺は疲れた体に鞭を打ち、リーネのそばに行く。
「何かあったのか?」
リーネは持っていた手紙を俺に見せた。
文字が読めない。何と書いてあるのだろう?
「ごめん。俺、この国の文字が読めないんだ」
「さっき、届いたの。アラベスク伯爵家の伝書鳩が届けてくれたわ。あんた、アラベスク伯爵に会いに行ったそうね。手紙によると、あたしのことを色々言ったみたいだけど……」
「手紙になんて書いてあるんだ?」
「あんたが持ってきたマジックアイテムを売ってほしいと書かれているの。売れば、このアウグスト家を救っても良いという条件付きでね。あたしが、昔アラベスク伯爵様と結婚する言ったことを、まだ覚えてくれていたみたい」
「あいつはやめておけ。フランクリンの方が良い」
「何ですって」
「これを聞くんだ」
そこで、俺はスマホを取り出し、音量を最大にして、リーネに聞かせた。
俺はアラベスト伯爵との会話をすべてスマホに録音していたのである。
あの会話を聞けば、リーネだって目が覚めるだろう。
時間にして約一〇分前後。リーネは黙ってスマホに耳を傾けていた。
「な、なんなの。そのマジックアイテム。どうしてアラベスク伯爵様の声が……」
「録音する機能があるんだよ。分かったろ、あいつは衰退しつあるアウグスト家には興味はないんだ。あんな奴と結婚したって幸せにはなれない。目を覚ますんだ」
「よ、余計なこと言わないで。あたしが誰を好きになろうと、あたしの勝手よ」
「フランクリンは今どこに?」
「え? フランクリン伯爵様が来ているの?」
「俺の部屋にいるはずだ。まだ会っていないのか?」
俺がアウグスト家を出て一日が経とうとしている。
その間、フランクリンはずっと部屋から出ずに、悶々としていたのだろうか?
その時、イリザがある人物を引き連れて、玄関に向かって歩いてきた。
ある人物とは、フランクリンだ。緊張感に満ちた表情を浮かべている。
「リ、リーネしゃん……」
と、フランクリンは言った。
「リーネちゃん。フランクリン伯爵様にお話があるそうよ」
と、イリザが答える。
「あ、あたしは話なんて……」
「僕チンのこと、嫌いかい?」
「嫌いって言うか、そういうわけじゃ」
「僕チンはチミともっと話がしたい」
「あたしと結婚したって不幸になるだけですよ。アウグスト家は衰退している。一緒に落ちぶれてしまうわ」
「そんなことはないよ。僕チンがアウグスト家を守る」
「で、でも……」
「リーネしゃん。チミはきっとアラベスク伯爵が好きなんでしゅね。それは分かってるでしゅ。向こうは王族。顔も良いしね。僕は痩せているし、背は低いし、だけど、一応伯爵家の一族として、チミたちを守っていきたい」
「少し、考えても良いですか?」
「もちろんでしゅ。今日は僕チンはこれで帰るでしゅ。だけど忘れないで、僕チンは必ずチミを幸せにするでしゅ」
そう言うと、フランクリンは消えていった。
リーネはというと、困惑した表情を浮かべている。
自分の恋は実らない。だけど、別の人間から求婚されている。
こんな状況は、なかなかありえない……。
俺は玄関の前でリーネと二人、佇んでいた。
居心地の悪い空気だ。こんな時は、何か話をするべきなんだろうけれど、積極的に言葉が出てこない。そうこうしていると、リーネが俺に向かって言った。
「カイエ。そのマジックアイテムって今も使えるの?」
「使うってどういう意味?」
「つまり、あたしの声を保存できるの?」
「録音か。できるけど……どうして?」
「あたしのメッセージをフランクリン伯爵様に届けてほしいの。できる?」
「あぁ、問題ないよ」
「じゃあお願い」
俺はリーネの言葉をスマホに録音した。
あとは、このメッセージをフランクリンに聞かせれば良いだけだ。
俺……。一体何をやっているんだろう。
こんな世界に来ていなければ、今頃学校にって、勉強していたはずだけど……。いや、既に一日経っているから、自宅に戻っていたかもしれない。父さんや母さんも突然俺が消えたから心配しているはずだよな。だけど、戻る手段が分からない。何しろ、どうしてこの世界にやってきたのかさえ、分からないのだから。
「フランクリン伯爵様のお屋敷ですか?」
と、クロードは言った。
彼は今、アウグスト家の執事室で一人、爪を磨いていた。
だが、俺がここに現れるのを、半ば予期していたかのようである。
すっくと立ちあがると、爪とぎのセットを棚に戻し、コーヒーを淹れてくれた。
「まぁ座ってください。轆轤川様」
きちんと轆轤川と発音される。
「でも、俺、メッセージを届けないとならないんです」
「安心してください。ちょうど、これからトリステールの都市の一つであるムガンダへ向かいます。実は、ムガンダにフランクリン伯爵様のお屋敷はあるのです。一緒に行きましょう」
「ありがとうございます」
「とはいっても、もうすぐ朝になります。動くのは明日の夜になってからが良いでしょう。轆轤川様もお疲れでしょう。休まれた方がよろしいかと」
確かに、俺の体は疲れていた。一日中動き回っていたから、そろそろ横になりたい気持ちがある。
「そ、そうですね。確かに疲れました。明日行きましょう」
「そうされると良いです。お部屋まで案内しましょう」
俺とクロードは長い廊下を二人で歩いた。
しばらく無言状態が続いていたが、徐にクロードが口を開いた。
「あなたには感謝しないといけませんな」
「俺の方こそ、感謝してますよ。イリザに助けてもらわなければ、どうなっていたか分かりませんから……」
「リーネ様は吹っ切れたようです。これも轆轤川様のおかげでしょう。あなたが行動したから、こうして良い結果がもたらされたのです」
「まだ、上手くいくか分かりませんよ」
「きっと上手くいくでしょう……。私には分かります」
「だと良いですけど」
部屋の前にたどり着く。
俺はクロードに挨拶をして、ゆっくりと部屋の中に入った。
別れ際、クロードの「お休みなさいませ」という声が、耳に心地よく届いた。
後のことはよく覚えていない。
ベッドの上に横になった途端、俺は泥のように眠ってしまったのだ……。
自慢じゃないけれど、俺は規則正しい生活を送っていた高校生だ。
夜更かしをすることもなく、早く寝て、早く起きる生活を送っていた。
だから、明け方に眠るなんて経験はほどんどない。それでも疲れていたのか、目が覚めた時は、太陽が沈みかけ、赤やけた陽射しが室内に入り込んでいた。
「コンコン……」
不意にトビラをノックする音が聞こえる。
誰だろうか? 俺は声を発した。寝起きだったから、上手く声にならなかった。
「ふ、ふぁい?」
「クロードでございます……」
「あ、あぁ。どうぞ、開いてます」
「では失礼いたします」
クロードは室内に入ってきた。
昨日と同じ、ビシッとした執事服を身に纏っている。
「これから、ええと、ムガンダでしたっけ? 行くんですよね?」
「そうでございます。一時間ほどで到着いたします」
「分かりました。じゃあ行きましょう」
「はい。それと、着替えを持ってまいりました。この屋敷には男児がいないので、私の物になりますが、体形が近いので着られると思います。入浴はされますか? 準備はしております」
「風呂、あるんですか……。じゃあ入ろうかな。良いですか?」
「承知しました。ご案内いたします」
俺は浴室に案内された。
石造りの部屋でサウナと湯船があった。シャワーはないが、さっぱりできそうだ。
早速、体を洗い、風呂に入る。
疲れが一気に抜けていく。体力は完全回復だ……。
そうこうしていると、突如、浴室のトビラが開いた。
俺は唖然とする。
視線の先に、生まれたままの姿のリーネが立っている。
その美しい体躯は、本当に天使のように見えた。
鼻血が出そうになるのを抑え、俺は湯船に深く身をかがめた。
「な、なんで入ってくるんだよ!」
すると、リーネが俺の存在に気付く。
たちまち顔を真っ赤にさせ、
「あ、あんたこそ、なんでいるのよ!」
「クロードに言われたんだよ。入れって」
「と、とにかく出て行ってよ」
「お前が出て行かないと出れないだろ」
リーネは素早く出ていこうとしたのか、その際床に足を滑らせ激しく転んでしまった。
「ドタン!」
大きな音が上がる。
床で伸びるリーネ。
困惑する俺……。
どうしたら良いんだろう。
とりあえず服を着るか。いや、リーネにタオルをかけるか?
どっちもしよう……。
俺は脱衣所でクロードが用意してくれた執事服に着替え、その後、大きめのタオルをリーネにかけた。そして、額をつんつんと突く。
「う、う~ん……」
唸るリーネ。
早く起きてくれ。こんなところを人に見られた大変だ。
しかし、そんな俺の状況をあざ笑うかのように、イリザが脱衣所に入ってきてしまった。
「リーネちゃん、どうかしたの? え、えぇぇぇ」
イリザの顔が曇っていく。
裸で倒れるリーネのそばに、半裸の男がいるのだから、状況は悪い……。
「ち、違うんだ! これは、その、じ、事故なんです」
「轆轤川さん、リーネちゃんに何をしたんですか?」
「俺は何も、ただ、リーネが滑って転んだんです」
「分かりました。とにかくこのままではいけません。運ぶのを手伝ってもらえますか?」
「は、はぁ……」
イリザはリーネにタオルを巻きつけると、俺にリーネを背負うように指示を出した。
リーネは軽い。ウエストなんて俺の太ももくらいしかないんじゃないのか?
リーネを部屋に運ぶと、イリザは着替えさせるからと言って、俺をいったん部屋の外に出した。
何分だろう? 待っていると、イリザが顔を出した。
「轆轤川さん。リーネちゃんが目を覚ましました。なんでも話があるそうです」
「話……?」
「そうです。変なことしないでくださいね」
てへっとにやけるイリザ。
鋭くとがった糸切り歯が、妙に不気味に見える。
俺は部屋のトビラをノックして、中に入る。
「入るぞ」
「カイエ。これからフランクリン伯爵様のお屋敷に行くんでしょ」
「そ、そうだけど……」
「ちゃんとメッセージを届けてね」
「それはまぁ。だけど、自分の口から言った方が良いんじゃないか?」
「面と向かってだと、そ、その、恥ずかしくて」
「意外だな。もっとズバズバものをいう奴かと思ったけど、繊細なんだな」
「あのねぇ。あたしとどんな女だと思ってるのよ。それに見た?」
「見たって何が?」
「そ、そのつまり、あたしの、は、裸! バカ! 何、言わせんのよ!」
何か自分で言って、激しく興奮するリーネが可愛く見えてしまった。
「見てないよ。俺も焦っていたから、よく覚えていない」
「な、なら良いけど。男の人に見せたことないから……」
「フランクリンよりも先に見てしまって悪かったな」
「やっぱり見たのね?」
ギリッと睨みつけるリーネ。俺はペコペコと謝りながら、
「見ていない……。ホントに。とにかく、乗り掛かった舟だ。お前のメッセージは届けるよ。だけど、ちゃんと自分の口でも言うんだぞ。それがフランクリンに対しての礼儀だ」
「わ、分かってるわよ。そんなこと、あんたに言われなくたって」
「なら良いけどさ」
「ねぇ、一つ聞いても良い?」
「何だ?」
「どうして、あたしに協力してくれるの? あんたとあたし、まだ会ったばかりなのに……」
それは自分が一番気にしている。
なんで俺はアウグスト家に協力しているんだろう。
他に行く場所がないからか? それとも、助けてもらった恩を返すためか?
どっちもだな。それにもっと重要なのは、俺がフランクリンやリーネを気に入ってしまったということだろう。二人を助けたい。いや、アウグスト家を救いたいんだ。自分にできることをしたいと思ってしまうのだ。
「俺はお人よしだからなら。それに宇宙の暇人なんだよ。人を助けるのに理由なんていらない」
「あんたってたまに言っている単語が分からない時があるんだけど、まぁ言いたいことは分かったわ。協力してくれてありがとう。感謝してる」
唐突に、頭を下げられる。
何か期待に応えなくてはならないという責務が生まれる。
大丈夫だ。俺にならできる。スマホのメッセージを届けるだけなんだから……。
「じゃあ、俺は行ってくる」
「うん。カイエ。あんた意外とその服、似合っているわよ」
「そうかよ」
「あんたさえよければ、ここにいても良いんだからね。スーヴァリーガルには今渡航できないんだから」
「ありがとう。考えとくよ」
俺はそう言い残し、リーネの部屋を出た。
部屋の前にはイリザが立っている。
「話は終わりましたか?」
「はい。大丈夫です。誤解は解けました」
と、一応言っておく。
イリザは笑顔になり、俺のつけたネクタイを直してくれた。
「じゃあ、行ってきます」
「フランクリン伯爵様によろしくとお伝えください」