優しい絵
ことん、と小さな音がしたので顔を上げると、怜がキャンバスの前で放心したように立ち尽くしていた。怜のそばに転がる白い絵の具の付いた絵筆の先を追うと、暗澹たる色彩の絵の右下端に、"Rei"という白いサインが、小さく入れられているのが目に入った。それを確認した私は、編みかけの毛糸を椅子に置き、マグカップふたつに紅茶を淹れ、それを持って怜の隣に並ぶ。片方を渡すと、それからはただふたり、目の前の描き終わった閉じた世界を見つめた。
それは、湖の絵だった。家のそばにある湖を描こうとしたのだろうが、あの穏やかな息吹を感じさせる光景とは似ても似つかぬ、生命感に欠けた、冷淡で暗鬱なものだった。森に囲まれた湖の真上からは冷ややかな銀の月光が注ぎ、枯れ木の僅かに残る命をも吸い取るかのように、無慈悲な光でその形骸的な姿を浮かび上がらせる。木陰に惑う瀕死の鹿は、体の半分が銀の光に晒され、そこだけが白骨化していた。光を寄せ付けず、唯一自律的な趣を残す湖も、その孤高の沈黙は排他的である。静的なそれは、救いの一切を排除したような、冷酷な絵だった。
「優しい、絵が描きたいんだ」
紅茶が少し冷めた頃、怜が静かに言葉を落とした。
「優しい絵が描きたいと思って、いつも白いキャンバスに向かうんだ。けれど筆をとると僕は一気に闇に突き落とされる。真っ黒で何も見えない中で、次々に僕の内奥にある暗い思いが声となって僕に襲いかかるんだ。耳を塞いでもその暗黒は僕の筆の先から影となって流れ出し、声は描写となって視界に現れる。逆らうように筆を動かし光を描けば、絵は『違う』と言って、それをことごとく拒絶する」
月明かりが窓から差し込み、その淡い金の光で絵を包み込もうとするが、絵はそれを拒むかのようにますます闇に沈み込んだ。
「それでも僕は、優しい絵が描きたいんだ」
怜が悲哀に繰り返す。
「僕はいつだって、君とふたり、その世界で優しい時間が流れるような、そんな絵を描きたいと願っているんだ」
その言葉に耳を傾けながらも、私は目の前の絵へ、隈なく視線を走らせる。それから私はキャンバスの一点に目を留め、ほっと小さく息をついた。ようやく、見つけたのだ。誤って刷かれたようにも見えるその細かい一筆こそ、私が探していたものだった。そしてそれは、確かに怜の意志で入れられた、祈りの一筆だった。私はその、湖の縁に他と趣を異にして光る銀の一筋を指差し、怜に向かって微笑んだ。怜は少し驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑み、小さく頷いた。
「この湖だけは、冷たい光を受けても、その深い静けさを失わせたくなかったんだ。湖面は暗く沈黙しているように見えても、その淵には悠久の静寂を抱いている。僕の願いに湖は応えてくれて、深淵から微かに光が漏れ出し、僕にその一筆を描かせたんだ」
私は、自らの意志で泰然と暗黒に沈む湖を、もう一度見つめた。怜の描く絵は、どれも見る者を突き放し、沈鬱な孤独にあらゆるものを秘匿するかのようだが、けれどそのどこかには必ず、降って湧いたような幽かな柔光が織り出される。一見、周りとの調和のゆとりの見られぬようなその一筆の微光は、しかし絵の深淵まで掘り下げると連続したものであり、沈み込み浮き上がることで、その一筋の優しさは、確かに周囲の冷酷さの延長線上にあることが分かるのだ。そうするとその微熱を孕む一端は、終結でなくさらにその先の熱を思わせ、この冷淡な世界が俄かに祈りの情念の絵に思われてくる。怜は、絵から赦しを得て、その一筆を描けた時にこそ、その世界を完結させる。
「こんな些細な一筆を見つけてくれるのは、君だけだよ。みんな僕の絵を忌避するっていうのに…」
困った顔でそう言いながらも、口元は小さく綻んでいた。それから、微かに震える片手で私の指先を掴み、消え入るような声で再び口を開いた。
「それでも、たったひとり君だけは気づいてくれると知っていても、僕は誰が見ても優しい絵を描きたいと願ってしまう。それは、間違っているのだろうか。それは、願ってはいけないことなのだろうか。僕は……」
私たちは指先が触れ合ったまま、見つめあい、静かに時が流れた。月が雲居に隠れたのか、窓から光が忍び去ると、濃藍に沈む空間に、怜の瞳が微かに光った。私はおもむろに怜の持っているマグカップを奪い、自分の分と一緒にそばのテーブルの上に置くと、怜の手を握り直し、その手を導いて扉を開いて外に一歩踏み出した。その夜は、絵の中と同じ、満月だった。月明かりの下、互いに手を取り合い、家の裏の細い林道を抜けるとそこには、たおやかな月影の光を淡く湛えた、静謐な湖が広がった。ほとりに浮かぶ小さな舟に乗り、岸が少し遠ざかった辺りでオールを漕ぐ怜の手が止まると、私たちは隣り合わせに膝を抱えて座り、ゆるやかな揺れに身を任せる。玲瓏な月が、葉の一葉も残らない木々の寒そうに身を寄せ合う姿に、慈しむような金の光を注ぐ。木の間から現れた一頭の雌鹿は、月光を浴びて、体を夜空へ向かってしなやかに伸ばした。視線の先の湖面には月の投影がゆらゆらと浮かび、なよやかな流線で円を描いていた。小舟が揺れて広がる波紋に、曖昧な境界は添うように形を変える。
「あの絵の湖の上に、僕と君の乗った舟を浮かべることができたら、どんなにいいだろうか」
月を見上げながら呟く怜に目を向けた。白皙の容貌が、月影に幻の如く浮かび上がる。哀愁の瞳は、遠く月に焦がれているようにも、届かぬ祈りに絶望しているようにも見える。おのれでは描くことの能わぬ世界を希う怜の横顔は、哀切に満ちていた。
「そうしたら、あの絵の冷たい月は慈悲の月になって、世界は優しくなるに違いないのに……」
透明な一粒の雫が、怜の頬を、優光を受けながらゆっくりと流れ落ちる。いくつもの苦しみ懊悩する夜を過ごした怜の流すその一雫は、どこまでも純真で、しめやかに美しいものだった。その祈りの一滴を見届けた私は、おぼろげに戯れる月光と湖水にゆらめきながら、ゆっくりと夜空を見上げた。月の輪郭はとめどなく滲み出し、淡い光が漆黒に漏れ染む中に、星が次々と流れるのが目に映った。それを懸命に目で追い、私は流星に祈りを捧げた。怜の世界が優しいものになるといい。私が傍らにいるだけではそれは叶えられなかったから、だから……。絶え間なく闇に滲んでは溶け消える星々の中、願いを込めて見守ったひとつが、消える間際に、ひとしおあざやかに瞬いたような気がした。
………
森を背後にした小高い丘の上に立つ小さな家を、手紙を持った郵便屋が訪れた。窓から覗いても人の気配がないことに首を傾げた彼は、扉の鍵が開いていることに気がついた。そっと扉を開いて中へ踏み込むと、そこは長らく人の住んでいないかのように、埃が積もっていた。編みかけの毛糸も、テーブルの上のマグカップも、床に転がった絵筆も、一様に永い時を経たように色褪せていた。彼はふと、絵筆の先のキャンバスに目を向けた。暗鬱な色合いが映る。けれど不思議と吸い寄せられるように歩を進め、そこだけ時間が止まったかのような塵ひとつ被らないその絵の前で足を止めた。右下端に"Rei"と白いサインの入ったそれは、湖の絵だった。
周りの枯れ木は次の春に向けて安らかに眠り、木々の間で跳ねる鹿は、透けるように幻想的だ。真上に浮かぶ円かな月は、淡い銀の光でその世界を柔らかく包み込み、静かな光が深淵から滲む湖面には、若い男女を乗せた小さな船が浮かんでいた。それは、どこまでも優しい絵だった。
《了》