ουτοπι´α
「きっと、どこかにあるんだよ」
と、幼かった幼馴染の亜衣が言った。真っ白な装丁に、金字で外国語が書かれた本を手に、亜衣は僕に向かって言った。僕が、彼女に関してはっきりと覚えている一番最古の記憶だ。
多分、それは、図書館の本棚が迷路になっているような一角で、僕達は、小学校が終わる度にそこで過ごしていた。そう二人きりで。
図書館の隣にある、小さな町役場が、僕と亜衣の両親――尤も、僕の場合は母親で、亜衣の場合は父親だったけど――の勤め場所で、僕達は五時を過ぎたぐらいに両親の車で家に帰っていたから。
だから、自然と、小学校に入ると同時に僕は亜衣と一番仲が良くなっていた。
「どこに?」
小学校五年になった僕は、そう訊き返した。
地球儀にも世界地図にも、ユートピアなんて書かれていないと知っていたから。いや、それは、亜衣も同じだったはずなんだ。
でも、亜衣はそれを信じていた。
「どこにもない場所に。知っている? ユートピアって、元は、ギリシア語の無いって単語と、場所って単語の組み合わせなんだって」
「どこにもないばしょを、どうやって探すの?」
「どこにもないから、探せるの」
どこか、僕には及びのつかないことを考えているような笑顔で、亜衣はそう言った。
亜衣は、同い年だったけど、当時の僕にとっては、ある種、自分を導く絶対的な存在のように感じても居た。図書館で読む本は、亜衣が読んだ後に僕に勧めたものであったし。当時は亜衣の方が背も高かった。確かに誕生日は、亜衣の方が半年ほど早かったけど……。
ううん。
なんて言うのかな。上手くいえないけど、同い年なんだけど、少し年上のお姉さんのような、そんな関係だったと思う。
女の子の方が早く成長する?
どうなんだろう? 僕達の場合は、まあ、それを否定できないかな、とは思うけど。
翻って、現在、中学三年の亜衣はと言えば……。
「知っている? ユートピアって、元は、ギリシア語の無いって単語と、場所って単語の組み合わせなんだって」
もう、何百回も聞いた台詞を、あの時とは違う、中学校の図書館で亜衣は呟いた。
記憶の中のあの本も――タイトルはアルファベットだったけど中身は日本語に翻訳された海外の童話だと、今の僕は知っている――、五年前は新品だったのに、亜衣がずっと持ち歩いているから、今はもう見る影も無い。
夏休みは終わった。もう、受験の為に尻に火がついたような状況だ。
うん、僕よりも、僕の恋人が。
「じゃあ、どこにもない場所を探すよりも、現実的な二人の未来を探すのを優先しないとね」
ツイ、と、シャーペンの上の方の押す部分で、軽く亜衣の前髪を持ち上げる。
亜衣は寄り目になって、それを見詰めていた。
ちくしょう、可愛い。
小学校の時は、ずっと髪を伸ばしていた亜衣だったけど、中学に入ると同時に髪を切っていた。ソフトボール部みたいなベリーショートじゃないけど、耳が出るくらいの長さの髪だ。
女子の髪型に関する語彙が少ない僕には、上手く表現できない。
でも、最初は違和感が強かった髪型だったけど、すぐに慣れた、だって――。
「愛が足りない」
「僕にとって、亜衣は一人で充分だよ?」
目を合わせて、十秒見詰め合う。
人気が少ないとはいえ、図書館の自習ルームだから、額をぶつける以上の事は流石に出来ない。
「意味がちがーう!」
額が軽くぶつかった後、亜衣は、少しやつあたり気味に叫んだ。
髪を切った理由を、僕は知っている。
他ならぬ亜衣が明かしてくれたから。
願掛けだったらしい。
僕から告白するようにとの。
そう、小学校の卒業式で、僕は亜衣に告白していた。
とは言っても、中学校は同じだったので、どちらかといえば、周囲の公認っていうか、温かく見守られるような、そんな関係が続いているんだけどね。
尤も、亜衣は良く昔の事をネタに僕をからかうような発言をしていた――幼稚園の頃の、滑り台で尻を怪我したネタは、流石に純情で繊細な中学生男子のハートでは簡単に見過ごせなかった――ので、時々は衝突もしたけど……。それでも、小さな喧嘩のひとつやふたつで距離が離れるような場所に、僕達はいなかった。
一緒に居た時間は、きっと、お互いの両親よりも長い。
しかし……。
なんと言うか……、まさか、僕が亜衣に勉強を教える日が来るなんて、小学校の頃には想像もできなかったな。まあ、亜衣は中学校に入った途端、部活の方に精を出したので、学業がかなり疎かになっていたし。三年になり、模試の結果から同じ高校への進学が危ぶまれていて、結局、部活を引退しても、夏期講習を経てもその志望校との距離は変わっていなかったんだから、仕方が無い。
「行く高校、もうちょっと妥協しない?」
猫撫で声で言われても、僕の返事は変わらない。
「しない」
「意地悪」
「意地悪じゃないよ。計画的犯行」
「どんな?」
「大学は、関東のを目指したいんだ」
そこまでのレベルを考えると、やっぱり、最低でも県で二番ぐらいの進学校へと進んでおきたかった。更なる妥協は、少し難しい。
亜衣は、ぱちくりと目を瞬かせて、少しだけ表情の色を変えて訊いてきた。
「なにか、やりたいことでもあるの?」
「うん」
「なに?」
即答すると、同じぐらいの速さで亜衣に訊き返される。
「その……」
「その?」
不思議そうに、僕の目を覗きこむ亜衣。
意識したわけじゃないけど……、いや、だからこそ、頬があっつくなった。
「え? アンタ、なに言う気?」
つられて赤くなった亜衣が、ちょっと拗ねたように聞き返してくる。
「その、……大学では、同棲したい」
声は、ギリギリ裏返らなかった、言い終えて、亜衣の顔色を窺う。
亜衣は――。
「あ、う……。来年の話をすると、鬼が笑うって言うのに、いい度胸だよね。アンタは」
パタパタと両手で顔を仰いでいる。
重すぎるかな、とも思ったけど大丈夫だったらしい。
安心の溜息を気付かれないくらい小さく吐いた後、僕は少し意地の悪い笑みで返した。
「ユートピアは、どこにもない場所なんだろ? だったら、僕達が住所をつけても悪くないよ」
亜衣の鞄から古い本を取り出し、パラと左手で適当なページを開き、右手で、ツイ、と、亜衣の眉間を人差し指でつっつく。
開かれたのは、丁度、二人の少年少女が楽園を探して旅に出る場面だった。
寄り目になって僕の指を見た亜衣。
冷めない恋はない、とか、初恋は実らない、とか、良く聞く言葉だけど、そんなものに負ける気はしなかった。
きっと、どこでも良いってことをその言葉を作った人は言いたかったんだと思う。ユートピアは、どこにもないかもしれないけど、どこででもある場所なんだと、亜衣の言葉を聞き続けてきた僕は思う。
だから、僕は二人が存在する今この場所をユートピアにすると決めていた。
照れ隠しに怒っているような顔の亜衣を見詰め返し、やんわりと微笑む。
「だから勉強、ね」
「この苛めっ子!」