小園
伊織がうろたえたのを見て、辰之助は攻撃するように云った。
「許婚がいたことをすっかり忘れていたようだな」
辰之助は、伊織をじっと睨んでいる。
違うと云いたかった。しかし、小園の話はしたくなかった。
伊織は顔をそむけた。
「その話をするのなら、俺は帰る」
歩き出そうとすると、手首を掴まれた。
「待て」
掴まれた手は熱く、痛いほどだった。
「谷村孫四郎を知っているか」
「小園の兄だ」
「その兄がどうして俺に会いに来る」
どうしても顔を見ることができなかった。
「知らん」
「伊織、まさかあの男、俺たちのことを勘繰っているんじゃあるまいな」
辰之助の焦った声を聞いて、背筋が冷たくなった。
唇から血が滲むほどに噛みしめ、伊織は耐えた。
「悪いが、俺は小園の話をするつもりは全くない」
「夕べは俺の屋敷だったな」
急に揶揄するような口調に変わり、伊織は思わず顔を上げて眉をひそめた。
「何の話だ」
「今夜はお前の屋敷にしよう」
夕べのことを思い起こして体がかっと熱くなる。
手を振り払い、踵を返して逃げるように道場を飛び出した。
孫四郎は、辰之助に何を話したのだろう。このまま逃げ回っていていいのだろうか。
ふと、伊織は思った。
まずは、孫四郎と話をするべきなのか。
小園との縁談はとうに切れている。自分は自由の身だ。他に縁談の話があるわけではもない。
しかし、孫四郎は、伊織の動向をずっと窺っている。
伊織が裏切りをすると思いこんでいるのだろうか。
もう、小園はいないのに。
伊織は口を噛んだ。
小園がかわいそうだった。
だが、小園の気持ちを孫四郎に伝えるわけにはいかない。
八方塞がりだった。
――広一郎さま。
そのとき、ふと、小園のかよわい声を思い出した。
――兄上さまは、今どこにおいででしょうか。わたくし、生まれ変わったら兄上さまのお嫁さまになりたいんです。
小園の話題はいつも孫四郎のことだった。
彼女はおそらく誰かと、好いている相手の話題をしたかったのだ。伊織は婚約者ではあったが唯一、秘密を打ち明けることのできる相手だった。
――いやじゃありませんか? 小園はいつも兄上さまのことばかり話すから…。
遠慮がちで優しい小園は、常に伊織の気持ちを窺いながら、気を遣っていた。
――広一郎さまの想い人もきっとあなたのことを好いておいでだと思いますよ。
小園は、辰之助が江戸へ立つ前から、伊織が彼を思っていることを知っていた。それを知っていたから、婚約者として選ばれた。
小園が、孫四郎に頼んだのだ。旗本の三男、広一郎と結婚したい、と。
伊織は後悔していない。
自分は、辰之助を愛していたし、女に心を奪われることはなかった。
冷飯の三男でよければもらってくれと半ば自棄にはなっていたが、小園は静かで思いやりのある娘だった。
今の自分たちを見て、もし、小園がいたらどのように思うだろう。
伊織は、走るように屋敷へ戻った。




