匂い
伊織の視線に気付いて、平井が納得したように頷いた。
「金木犀か、もう、そんな季節なのだな」
「なつかしい匂いだ」
「そうなのか」
平井は不思議そうに云ったが、この場に辰之助がいないのが残念であった。
「一枝、頂こう」
平井が腕を伸ばして、しなる枝をつかんで折る。ぱきんと音がすると花房が揺れて地面に散らばった。
「お前もどうだ」
返事もせぬうちに一枝取ってしまう。
「受け取れ」
渡された金木犀は小さくて可憐であった。
「俺は暇だから道場に寄ろうと思う」
貸本屋から本を借りることができなかったためか、伊織を軽く睨んで金木犀を振りまわしながら歩いて行ってしまった。
伊織は寄り道をするわけには行かず、思わぬところで刻を過ごしてしまったと早足に帰り道を急いだ。
武家町に入り、ようやく屋敷が見えるところまで来ると肩を叩かれた。
「伊織」
袋竹刀を持った辰之助であった。
伊織はどきりと胸がはねたが、気取られぬように素知らぬ顔をした。
「道場からの帰りか?」
「そうだ。なにを持っているんだ?」
辰之助はそう云うと、伊織の手を見た。
「金木犀だ。さっき平井と会ってな」
差し出すと、匂いを嗅ごうと辰之助が顔を寄せて目を閉じた。
少しでも体が近づくだけで、心の臓が痛い。
「なつかしい匂いだ」
辰之助は、伊織の気持ちなど気付きもせず、自分と同じことを云った。
思わず苦笑すると、辰之助が目を開けて軽く睨んだ。
「なにを笑っている」
「おぬしの顔が面白いなと思ったのだ」
「失敬な」
「怒ったのか?」
「これくらいで怒るか。昔、お前と一緒にこの花を探したことを思い出していたのに」
「そうであったな、姉上に花器に挿す花を探して参れとたびたび云われたな」
辰之助も同じことを思っていたのだ。
伊織はうれしくて目を細めた。
伊織の姉はすでに嫁いでいるが、はっきりと物をいう凛とした女性であった。
二人がまだ十歳の頃、季節の花を花器に挿すため、方々を探し回った記憶があった。
そばにはいつも辰之助がいて、どちらがいち早く花を見つけられるか競争した。
匂いに敏感なのは伊織であったが、場所を特定するのは辰之助の方が素早かった。
「伊織」
花の匂いを嗅ぐようにして、辰之助が体をかがめて耳に囁いた。
甘い匂いとともに熱い息がかかる。ともに切ない思いが込み上げ、夜半の記憶が甦った。
下半身が疼いてくる。
「花の匂いに酔ったのか? それとも俺が欲しくなったか」
明け透けな言葉に羞恥で顔が赤く染まった。
たしなめる余裕もなく、下を向いてぼそぼそと答えた。
「往来で話すことではない」
「そうだな」
肩をすくめると、辰之助は少し足を速めて歩き出した。
伊織も黙ってそのうしろを追いかけた。




