ため息
今夜は、お前の屋敷にしよう。
そう云ったにも関わらず、その夜、辰之助は現れなかった。
寂しいような切ない気持ちに駆られたが、孫四郎のことを問い詰められたら、逃げられない気がした。
夜具に横になると、どっと疲れが出てきた。
とうとう小暮に云ってしまった。
しかし、自分一人では手に負えない気もしていた。
孫四郎は、何もかもどうでもいいといったような、白い顔をしていた。
彼にとって小園は、命よりも大切だったのだろう。
その時、ふと、伊織は孫四郎の本当の気持ちを知らないことに気付いた。
小園の秘密。
それは、孫四郎を愛していた事。
彼女は兄を心から愛していた。誰にも打ち明けた事のない秘密だが……もしかしたら、孫四郎は真実を知りたいのかもしれない。
そこまで考えて、伊織は目を閉じて眠りについた。
翌朝、起きると若党の小暮は出かけており、中間がそばに来て、手伝いをしてくれた。
朝餉を済ませて登城するための身支度をしていると、小暮が戻って来た。
出かける頃には外で待っていて、一緒に城まで行くという。
彼がどこへ出かけたか、伊織には分かっていた。昨日の今日のだから、彼はすぐに行動に移したのだろう。
案の定、町方を抜けて城へ上がる山道になると、彼は周りに人がいないのを確認して話しだした。
「今朝方、田宮道場の方へ参って、谷村どのと話しました」
「そうか…」
朝早くから孫四郎は稽古をしているらしい。
伊織は、息をついた。
胸はドキドキしていたが、平静を装って促す。
「それで?」
「大塚どのと縁を切るなら彼には手を出さない。もう、二度と目の前には現れないと申されていました」
分かっていたことだが、それを聞くと、伊織は、怒りのあまり我を失いそうになった。
伊織が黙り込んだのを見て、小暮がため息をついた。
「若さま、分かっていたことでしょう」
「そうだな…」
それしか云えなかった。
自分の口から、もう二度と辰之助とは会わないなど、云いたくなかった。
「若さまが言いづらいのであれば、それがしが大塚どのにご報告いたしますが」
「よせ、俺が云う」
伊織は短く云って、小暮を睨んだ。
小暮は、肩で息をついただけで云い返さなかった。
登城して仕事をしている間も、辰之助の事が頭から離れなかった。何と云ったらいいのだろう。
そもそも、自分たちの関係はいったい何なのだろう。
自分は、辰之助を愛しているが、彼は何を考えているのか。
自分の体だけが目的なのか、それとも、少しでも自分に好意を持ってくれているのだろうか。
ため息が漏れる。すると、上司に睨まれて、伊織は慌てて書面に顔を落とした。仕事に集中しなくては。
伊織は、難しい顔をして仕事をしているふりをした。




