チェルの休日
チェルは休日の方が起きる時間が早い。
というのもベナスタは定休日というものが存在せず、ジルコンに用事がなければ店を閉めるということはないからだった。おかげで完全に休みの日は月に二日三日ぐらいしかない。
しかし若者には遊びも大事だと父もわかっているのか、朝自分が担当する分の仕事を終えてしまえば、昼は自由にしてもいいと許可をもらっている。
だからチェルは早起きして、シピキ鳥の骨から出汁を作ったり、煮物用の根菜の下ごしらえをしていく。今から煮てしまうと味が濃くなりすぎるので、それ以上はウィーに任せる。
次に芋を茹でて、合間に香辛料を調合しておく。茹で終わったら皮を剥いて潰し、豆と香辛料を混ぜて小麦生地で包む。これは注文されてから揚げるから冷蔵庫にしまって終わりだ。
その他の野菜を片付けていると、裏口の鍵が回る音がしてウィーがやってきた。
「おはよー。早いね、今日はテリア君と会うんだ?」
「おはよ。そうだよ、なんかこれから忙しいみたいで、今日しか予定空かなかったんだって」
「ふーん、テリア君も大変だよねー。いつまでもはっきりしない二人の面倒をみるなんて」
にしし、と笑うおさげ髪の少女にチェルはむくれた。
「失礼な。多分もうあと一年ぐらいしたら決着ついてますー!」
「甘い甘い、そんなに時間かけてたら誰かに持ってかれちゃうよっ」
ばん、と背中を叩かれ、チェルは真顔になった。左手の人差し指の六ミリ先で、包丁が浅くまな板に突き刺さっていた。
「……持ってかれても絶対取り返す自信あるからいいのよ」
ねえウィーちゃん? と笑顔で振り返れば、彼女はひいっと情けない声を上げる。
「ごめん! 何かよくわからないけど、ごめんっ」
「もう少しで指切り落としそうになったのよ! 怒るわよ!」
「もう怒ってるじゃん! ほんとごめんってぇ!」
繰り返される平謝りに、チェルは腕を組んだ。
「せめて包丁持ってる時には別のやり方にしてよ」
「ーーえ、それは叩かれたいと……わあ、冗談だって! 揉まないで!」
ぎゃいぎゃいと騒ぎつつ、二人で仕込みを片付ける。
「ねー、そろそろ時間じゃない?」
小麦粉を練っていたウィーがいった。チェルが時計を確認すると、そろそろ準備しなければいけない頃だった。
「あ、本当だ。じゃあ着替えてくるね」
「あいよー。後は任せてー」
任せる、とチェルは頷き、二階に上がって自分の部屋に向かう。
チェルの部屋は大きな本棚がある以外は、至って普通の女の子の部屋だ。
建物自体が白い石で作られているため、白を基調とした家具でまとめてある。ベッドには誕生日に贈られたデフォルメ調のミミク兎のぬいぐるみが鎮座しており、出かけようとするチェルをつぶらな瞳で見ていた。
チェルは装飾品をかけたボードから迷わずにネックレスを取ると、あらかじめ決めておいた服をクローゼットから取り出して、さっと着替えた。
選んだのは白のワンピース。無駄な装飾がなくシンプルで大人っぽいものだ。腰のところを白いリボンで結び、その上にデニム生地のジャケットを羽織る。
よし、と姿鏡を見て軽く確認する。足元もちゃんと黒のサンダルで飾ってある。最後に赤のバレッタを外して、二連のネックレスをつける。
三年前に、テリアからもらったものだった。
あとは軽く化粧を直して、完成だ。
「よし!」
チェルは己の完成具合に満足した。今日はリンネと同じ顔をした男と二人きりで会うのだ。入念に身を飾るのも当然であった。
チェルたちが待ち合わせしたのは、上層部南東地区にあるいつもの喫茶店だ。
その喫茶店は壁に蔦を生やし、黄色や赤の可憐な花を入り口や窓のところに咲かせている。煉瓦調の壁といい、上層部に相応しい洒落た外観をしていた。
ころんころんとベナスタのベルよりもやや高めの鐘を鳴らして、チェルは落ち着いた店内に入った。
時間が外れているからか中には客がおらず、退屈そうにしていた店番がチェルを見て嬉しそうに立ち上がった。
「やっほーチェル」
「久しぶりレイシア」
一ヶ月振り、と二人は抱きしめあう。
レイシアはすらりとした体型でつんと高い鼻を持つ長身美人だ。学生時代の友人である。
「今日もテリア君と?」
「そうだよー。店長さんは?」
「いつも通り奥で寝てるよ。そんなことより早く彼を解放してよねー。チェルはいつもの?」
「いつもので」
「りょーかい」
レイシアはころころ笑いながらカウンターに戻る。チェルは窓際の花壇が見える席に座り、彼女を待った。
少しして冷えた珈琲を持ってきた彼女はそのままチェルの前に座る。もちろん自分の分のジュースを持ってだ。
「で、少しは進んだ?」
「進んだらここにこないってば」
「両想いなんでしょ? いい加減どっちか腹くくればいいのに」
「できたらいいんだけどねー」
はぁ、とチェルはため息を吐く。
「それにしてもあんたも変だよねー。あんな堅物にぶちんなんてあたしならごめんだわ。ま、おかげで恋敵になるのがいないからいいんだけど」
テリアの本命の座を狙っている少女が肩をすくめる。むっとしたチェルは唇を尖らして反論した。
「かっこいいし誠実だしいいとこずくめじゃん。それに静かで煩くないし」
「そりゃあんたは酒場育ちだからね。普通なら面白くて話しやすい男の方がいいと思うけど」
将来いい旦那さんになりそうだけどねー、と彼女はいう。特定の相手を作らない男に惚れた女もなかなか苦労しているようだった。
「レイシアはまだ友達でいるつもり?」
「だって彼、まだまだ身を固めるつもりなさそうだし」
口元に手を当てて淑やかに笑っているが、彼女の目は虎視眈々と影から獲物を狙っている狩人のものだ。獲物でないチェルでさえ、背筋に冷たいものを感じた。
「それにケモノビトだから子どもはできないしさ。誰と寝てようが責任は生まれないし、最終的に勝つのはあたし」
レイシアは不敵に笑った。
ケモノビトの特性を見越して泳がせているのだ。彼が年を取り、落ち着くその時まで。
彼女がそう気長に待っていられるのは、ひとえにチェルの恋愛相談に乗っているテリアを見ているからだった。
そうでなければ、このしっかりしている少女が遊び人に惚れることなんてありえないのだ。
「まあそんなこといってるけどさー。子どもは欲しいよねー。欲しくない?」
「欲しいけど、無理でしょ」
ジュースを飲みながら問うてくる彼女に、チェルは首を振った。胸にあるのはケモノビトを想う者共通の諦念だ。
彼らは遺伝子が変異してしまっているため、相手が人間であれケモノビトであれ、どんな手を尽くしたって子が成せない。
「ミカがどうにかしてくれるかもよ」
レイシアは研究所に勤めるために進学した友達の名を出す。彼女にはここ最近会ってないが元気にしているだろうか。
「あ、ミカといえば。私、巡回医師と知り合いになったよ」
「嘘⁉︎ ミカが聞いたら絶対羨ましがるよ!」
「でも彼ルクレール派だから……」
「ああ、あの娘アレウム派の家だったっけ」
はぁ、と二人は同時にため息を吐いた。夢を追いかける友人にたかが派閥が邪魔をするなんて許せなかった。
「というか彼? 男なの?」
そうだよと頷くと、レイシアは身を乗り出して、「どう? かっこいい?」と囁いてくる。
「えー、普通? 話は面白いけど、顔はなんというか、特徴がない感じ?」
「特徴がないってことは欠点もないってことよ! いいじゃない、今度コンパしよ!」
テリアという本命がいつつも遊ぶことを忘れない少女に、チェルは呆れた。
「そんな時間ないし、そもそもリンネ以外興味ないし」
昨日のことは心の端に追いやり、チェルはいった。
「くぅー! この一途さんめ! いいわ! あんたに免じてリンネ君も呼んであげる!」
「だから時間がないってば。私も彼も」
話を聞かずはしゃぐレイシアに、チェルは途方に暮れた。
誰かこの娘を止めて。花に向かって救援要請を送ろうとしたら、ちょうど誰かが店に入ろうとしているのが見えた。
ころん、と鳴ったベルに、レイシアはぱっと立ち上がった。
「いらっしゃいませー、ってテリア君か」
店に入ってきたのは皮のジャケットを来たテリアであった。全体的にやや野生的な趣がある服装は、その精悍な顔によく似合っている。彼はレイシアに手を振った。
「よっ、レイシアちゃん。いつもの頼むよ」
「了解」
浮ついた気持ちを微塵にも出さず、彼女はカウンターに戻る。そういうところは流石だなとチェルは思った。
「いやー、ごめんねチェルちゃん。仕事あるのに合わせてもらっちゃって」
頬を掻きながら彼はいう。
「そんなこと、こっちこそごめんね。明日から大変なんでしょ?」
「好きでお節介やいてるんだし構わないさ」
「ありがと」
「チェルちゃんみたいな美人のお礼は嬉しいよ」
心の底から礼をいうと、彼は軽い言葉を寄越してきた。
相談に乗ってくれるのは嬉しいけど、そういうところはやめてほしいかった。カウンターの影で友人が拗ねているのだ。遠くで女を口説くのと目の前でやられるのは別だった。
チェルはレイシアの気持ちを理解して、さりげなく話をずらす。
「リンネはどうしてるの?」
「いつも通りだよ。飯食って鍛錬して、空いた時間には本とか新聞とか読んだり。兄貴って何が楽しくて生きてるのかたまにわからなくなる」
テリアの珈琲が運ばれてきて、チェルもまた珈琲に口をつけた。少し氷の溶けたそれは薄くなっていた。
「で、チェルちゃん。いい加減腹くくらない?」
「テリアもそういうのね」
ほんの十分ほど前にいわれたことを別の口から聞き、チェルは緩く頭を振った。
「も、ってことは、レイシアちゃんも?」
「も、よ。本当に私から折れなくちゃ駄目?」
「駄目だと思うね。別にいいじゃん、何か減るわけでもないんだし」
「私の乙女心が減るのよ」
しかしそうはいっても関係を進めたいもの。
今日一日で三人もの人に折れることを勧められたのだ。もう潮時なのかもしれなかった。
「……わかったわ」
しぶしぶチェルは頷いた。
からり、と溶けた氷が鳴った。