アルヴィスの市場
双子が南部の巡回の仕事に就いたことで、酒場ベナスタには一つ小さな問題が起こっていた。
生肉を仕入れなければならなくなったのだ。
うーんと、特殊ガラス越しに太陽を浴びたチェルは伸びをする。それに合わせて背に取り付けた一輪付きの荷台が音を立てた。本日も晴天なり。麦酒がよく売れそうだった。
市場に向かう道のりには、チェルと同じように荷台を背にくくりつけている者が多い。
空なのは買い物に行く者で、中に死んだケモノを入れているのは狩り帰りのケモノビトであった。
享楽都市アルヴィスの周り一面は砂漠という不毛地帯であるが、その地下に大型食品工場がある。市場にはそこで作られた食材が格安で出回っているため、市民の心臓部てあった。
しかし野菜はともかく本物の肉を作るのにはかなりの面積が必要なので、工場で生産されているのは合成肉しかない。
人間、新鮮で自然な食材を食べたいものだ。
アルヴィス生まれならともかく、移住者、特に北からやってきた人間はその傾向が強く、おかげで市民によるケモノ狩りが盛んであった。
チェルはからからと音を立てて歩く。我ながら子ども染みているとは思うけど、この音が好きなのだ。からから、からから。御伽噺のように運命の歯車が回っているみたいだ。
ご機嫌なチェルの視界に、灰色の頭が見えた。そんな目立つ髪色の人は一人しか知らない。
ただその男は白衣を着ていないため、人違いの可能性がある。少し回り込んで顔を見ると、案の定シャルであった。
「おはよう。仕事?」
「ん? ……ああ、チェルか。おはよう。今日は休みなんだ」
そう微笑む彼の服装は、黒のシャツに黒のだぼっとしたズボンで、髪以外は真っ黒であった。
「ふーん、じゃあこれからどこ行くの? 本屋さん?」
「それもいいけど、今日は市場を見にいく予定なんだ。アルヴィスの市場はなかなかと聞くからね」
「そうなの? 私もちょうど仕入れに行くところだったし、案内しようか?」
「いいのかい?」
いいよいいよ、とチェルは頷く。一人で行くよりは二人で行った方が楽しいだろう。人を案内するのも好きだから、彼女はにっこりと笑って首を振った。
からからと、二人の足音に合わせて荷台の車輪が音を立てる。
しばらく雑談しながら歩いていると、彼がふと問いかけてきた。
「チェル、君は街の外に出たことある?」
「ないよ。私は人間だから、出たら死んじゃうよ」
急に何をいいだすのやら。
遥か昔に過剰環境になったこの星を前に人間は無力で、空の星にも手が届いたという技術を結集してドーム都市を作り上げた。
人間は特殊な装備なしで外を歩けず、広大な大地を闊歩するのはケモノかケモノを身に宿したヒトだけである。
「そう。なら、自然の花は見たことないのか」
「自然の花なんて大きくて気持ち悪い色で、人間を食べるんでしょ? そんなの見たくないわ」
北出身の客から聞いた話を思い出す。
「そんな危険なものじゃなくて。普通の、この街でも見かける小さいやつだよ」
シャルはいう。
海に接したこの砂漠は、かつて草原を有していたのだと。
大地がまだまともだったときから、神秘の花園と呼ばれる花畑がまだあるのだと。
それは一年に一度、一斉に数日だけの命を咲き誇り、視界を侵すように鮮やかに色づいて人を酔わすのだと。
今も眼前にしているように高揚に語るのだから、チェルもつられて自分が花畑にいるところを想像した。
「そんなにいうならいつか見てみたいわ」
「機会があれば連れていってあげる。本当に綺麗なんだ」
忘れないでね、と彼がいうから、忘れないわ、とチェルは誓った。
ケモノビトでないチェルはどうせ外に行けないのだけれど。
不粋なことは互いに口にせず、目的地に着くまで青年の外の話を少女は素直に楽しんだ。
朝の時間帯であるゆえに、市場はとても繁雑していた。
チェルたちは買い物専用の表通りを歩いている。市場の入口には肉屋が並び、その向こうの売却を担う裏の細道で、狩りの帰りのケモノビトたちが値上げ交渉をしているのが見えた。
「これはすごいな。他の都市とは規模が違う」
「だてに享楽都市とは呼ばれてないわよ。市民もそれなりに裕福だし、食欲にかけるお金の量も違うの」
建設が計画された当初、世界の富豪たちが自分たちの安寧の地を作ろうと、競って投資したという逸話を持つ街だ。
莫大な初期投資のおかげで、数百年たった今なお、アルヴィスは有数の食品工場を抱いている。
他の都市の市民はほとんど合成食ですませてしまうという世の中だ。よくそんなもので生きていられるものだと、彼らを馬鹿にするアルヴィスの人間は間違いなく贅沢であった。
「アルヴィスに赴任した巡回医師が欲深くなって帰ってくるのはよく聞く話だけれど、確かにこれは納得できるね」
「シャルもそうならないように気をつけてね」
「食に関しては手遅れかな」
頬を掻きながらそういうと、シャルは出店でジュースを買った。北が原産のキュロの果汁で作ったものだ。木の杯を渡され、チェルは礼をいう。
口に含むと甘酸っぱい爽やかな味が舌の上で弾けた。
「懐かしい味だ。こっちに来てから全然見なかったからね。これも工場で生産しているの?」
「そうよ。詳しくは知らないけど、工場内はどんな環境にもできるから。種さえあれば何でも育てられるらしいよ」
「砂漠にあれど砂漠にあらず、か。不思議な街だな、ここは」
シャルの出身地は北の大森林地帯にある研究都市らしいが、更に北に行くとアルヴィスがあるアビス砂漠より数百倍広いだろう、チハラ砂漠があるという。チハラ砂漠は砂以外何もない死の砂漠になっているらしく、調査すらろくにできずかつての記録しかないのやらなんやら。
街すらも出たことないチェルには壮大すぎて、最後には話についていけなくなってしまっていた。
「ちょっと私にはスケールが違いすぎて……」
「ああ、ごめん。久し振りにちゃんと話を聞いてくれる人ができて、つい調子乗っちゃった」
「シャルはそういうのが好きなの?」
「そうだね。いつか研究してみたいとは思ってるよ」
照れたように微笑む姿に、チェルは男性らしいなぁ、と思いながら励ましを送った。
「ありがとう。夢は見るだけ見るつもりだから」
その笑みが儚くて、チェルは望まずに現実を悟った。
チェルは比較的幸せな人間だと自認している。
父がいて、友がいて、馴染みの客とも仲良しだ。
母は旅人ゆえに滅多に会えないが、無事に帰ってきた時は喜びもひとしおだ。嬉しくて、それまで会えなかった分の寂しさを埋めるように、同じベッドで寝たりもする。
しかし現実が無常であることはよく知っていた。
姉のように慕っていたケモノビトの女性が、ある日から訪れなくなり、客たちの噂で死んだことを知った。
弟のように思っていた常連客の子どもが死病にかかり、まだ少ししか生きてない命を散らせたこともあった。
だから現実に打ちひしがれるように笑う青年に向かって、どきり、と鼓動が跳ねたのも、少女がどう思うかはともかく、しかたがないことだった。
◆
二日酔いの弟に果物でも食わせてやろうと、リンネは市場にきていた。昨日ふらりと姿を消していた弟が帰ってきたのは夜も半ば過ぎた頃で、こんな時間まで誰と飲んでたんだとリンネは呆れた。寂しがりの弟は一人で酒を飲むなんてことはできないのだ。
そんな弟思いの彼がチェルを見つけたのは、全くの偶然であった。
荷台が背にあるから仕入れに来たのだろう。しかし彼女は一人ではなかった。
彼女の視線を辿った先には、灰色の髪の青年がいた。昨日紹介された巡回医師だった。
何故共に、と思うが、彼女が楽しそうに笑っているのを見て、考えるどころではなくなる。
どうして、そいつに笑いかける。
自分でも理不尽だと思った。彼女は別にリンネのものではない。誰とどうしようが彼女の自由である。
ああ、恋とはかくも愚かしきものなのか。
別に経験がないわけではないのだが、こうも苛つくのだから余程のめり込んでいるのだろう。
だが、客と話している彼女には何も思わなかった。
それは彼女の仕事だと割り切れているからだろうか。
そうではないと思う。なら何故、自分はこんなにも心が荒れる思いをしているのか。
それはああやって彼女が男と二人きりでいるからだろう。
もし彼女の隣にいるのが弟であったら、まだこんなに嫉妬しなかったのに。
リンネは若手一番と呼ばれている。
しかしそれは弟が隣にいるからで、リンネのみであれば二番手であるのを自覚していた。
個人の能力であったら若手一番なのはテリアだ。
力も、社交性も、リンネはテリアに劣っている。どうにか同等なのは容姿だけという情けなさ。素直な弟は人に好かれやすく、幾人もの女が彼を慕っている。
そんな彼こそが彼女には相応しいと、リンネは思っていた。
だから、そんな男に笑いかけるな。
無意識に俯いていた顔を上げると、チェルたちの姿は消えていた。
リンネは安堵した。もしまだ視界に入る位置にいたら、自分はこっそりと後を追っただろう。それが更に自分の心を追いつめると知りながらも。
リンネは適当に橙色の果実を買って帰った。それは奇しくも、彼らが飲んでいたジュースと同じキュロの実であった。