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砂漠の街のチェロンダ  作者: 佐木間
第一章
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路地裏の闇

 月明かりがこころもとない晩だった。

 海から流れてきた雲が人の世界に影を作り、健気な月を隠してしまうような夜だった。


 曖昧な光が照らすのは透明なガラスに覆われた円形の都市。

 毎日専門の技師によって磨かれるガラスは月光を濁さず通し、本来の光量のまま、白石造りの建物たちに落ちていく。

 これは昼間人目には気づかぬほどに曇り、強すぎる日光を弱める特殊なものだ。今にしてこの都市の全住人の財産をあわせても足りないだろう。それは当然だ。何せ都市の生命線なのだから。


 砂上の楼閣。この都市国家(コロニー)にこれ以上相応しい言葉はない。


 上空から見たらきっと幻想的な光景であったろう。

 円の核がぽっかりと闇に落ち、周囲には煌びやかな光が舞っている。更にその周りには疎らな明かり。最高級の宝石で作られたネックレスとその輝きにも見える。


 比喩が過ぎたものではない。そうであるからこそ儚い、その都市の名はアルヴィス。またの名を享楽都市。

 ここは堕落の楽園として高名な街であった。



 そんな都市の一角。

 細く影濃い路地裏に、一人の白衣姿が息を潜めていた。

 人混みに紛れてしまえばあっという間に見失ってしまいそうな、これといって特徴のない顔立ちの青年だ。不機嫌に眉が寄せられた額には、適当に伸ばした色素の薄い髪がかかっている。

 彼が見るのは建物の角の先。うずくまった何かが、湿った音を立てて頭を上下させている。


 闇の中に蹲る何かを露わにしない自然に、それを観察していた青年はかろうじて舌打ちを我慢していた。


 ……せっかく見つけたのに、諦めるしかないのか。


 ぐちゃり、ぐちゃりと肉を喰む音に、歯を噛みしめることしかできない。

 朧月夜は確実に青年の任務を邪魔する。全く光がないのなら打ち切ることもできるが、時折ちらと差す希望に期待して離れることができない。


 ……いっそ、狩るか?


 その表情に不穏の色が混ざった時だった。


 恐ろしい勢いで鋼色の何かが突っ込んでくる。


 ……ばれたか!


 反射的頭を左に倒す。突風が灰色の蓬髪を散らす。


「ちっ」


 舌打ち一つ。青年は身体を反転し一気に駆け出す。


 ……音に気づいた。これはない。僕は立ててないし、背後からも聞こえてない。においに気づいた。これもない。ここは風下だ。先にちゃんと確かめたし風向きは変わってない。


「……だとすると」


 また飛んできたものを飛び避ける。

 アスファルトに埋まるそれは鋼色の触手だった。太い鉄鞭ともいえるそれは、するりと引き抜かれて鎌首をもたげる。


 ……ダウリムシか!


 敵の正体に気づいた瞬間、背中に重み、次に灼熱が走った。


「っああ‼︎」


 背のものを振り払い、転げると同時に先程までいた場所に二本の触手が突き刺さる。


 ……最初からばれてた。


「っく、はは。ーーしくったなぁ」


 まさか初っ端から気づかれてたとは。


 笑いを隠せない。青年が浮かべているのは自嘲の笑み。思わぬことに判断が鈍った者が貼り付ける、焦りの滲んだ笑みだった。


 ……ちょっとのんびりし過ぎたかな。勘が働かない。


 背中がじんじん痛む。結構深くやられてる。


「やばいなぁ」


 伸びてくる触手を蹴り払う。長い白衣が翻る。ダウリムシの攻撃器官にしてはあまり硬くない。幼体なのだろうか。


 ……戦うか、否か。


 戦えば負けないだろう。傷は負ってるが短期決戦ならできる。けれど。


 ……力は一割だけしか出せないし、今回は逃げるか。


 危険な橋は渡らない。

 ゆらり、と一歩を踏み込んでくるそれに、青年は後退りながら持っていた鞄を漁る。

 青年がやろうとしていることに勘付いたのだろうか。取り出させんとそれは突っ込んでくる。

 だが遅い。鋭い爪が鈍く光るも、青年が下手から投げた試験管が顔面に炸裂。飛びかかってきた()がもんどりうって悲鳴を上げる。


 じゅ、と頬が泡立つのにも関わらず、青年はその隙に逃げ出した。彼が投げたのはある生物たちが嫌う溶液。彼らがまともに浴びれば五感が麻痺する代物だ。


 ……やば、ちょっと浴びた。


 強く舌打ちする。


 どろりと溶けた頬肉が顎に伝う。不愉快を通り越して失神したい感触だ。

 手の甲で拭って振り払うと、そこにはすでに何の痕もない。


 伝い落ちるのを拭い払ったそのわずか数瞬に、肌肉が盛り上がったのだ。


 青年はただの人間ではなかった。だが姿形は襲撃者の男のような異形ではない。

 外見は至って普通の、かろうじて灰色の髪が珍しいぐらいの人間。

 背中から二本の触手を生やし、指の先から変に角ばった爪を伸ばす男とは違う。人間の身に収まり人間の理の中で生きる、ただの若い男だ。

 しかし両者とも呼ばれる名は同じ。世界を支配する異形ーーケモノを移植したヒト、ケモノビトと、彼らは呼ばれていた。



 青年は走る。暗く仄かな明かりを頼りに、人間よりも光を集められる虹彩で細い道を駆け抜ける。

 傷を受けてもどこかまだ余裕があったその表情は、しばらくの疾走の末に焦りのみを浮かべるようになっていた。


「はぁ、はぁ、」


 路地裏は人の世界でありながら人の世界から切り離された場所だ。死と闇。悪と影。裏道で暗鬱な要素が螺旋状に絡まり合い、増幅し、飽和するのが世の常である。

 享楽都市と呼ばれるこの街は、しかし徹底した管理によりそのにおいは薄い。歓楽街がある中央や地下の貧民街ならまだしも、地上の外縁部のそこはともすれば無と呼べるぐらい、漂白された場所、である筈だった。


「はぁ、はぁ、はぁ、ーーくそっ」


 ……失敗した。


 探し始めて一週間。ようやくあれの姿を見つけて知らぬ間に興奮していたようだ。怪我を負った時のことなど考えてなかった。


 ……まさか、ここら辺にルクレール派の医療院がないなんて。


 息も絶え絶えに、彼は駆ける。背中には尋常ではない熱が灯っており、自分が死に近づいていることが嫌でもわかる。

 地を蹴るたびに転がり落ちる激痛。気が飛びそうになるのを騙し騙し、彼は身体を前に進める。

 普通なら、それは致命傷だった。

 右肩から左腰まで。深く長く凶器を抉りこんでくれたおかげで、溢れ出る血は少しも止まる様子がなかった。

 それでも、青年は全速力で駆けることができた。

 気力がある。しかしそれだけでなく、彼の肉体は無茶ができるものであった。

 常人より造血幹細胞を作るのが早い身体は、失われるのと同じスピードで血を作り、心臓の活動を、細胞の活性化を止めない。

 だが疾走によって瘡蓋ができては壊れ、血液は依然漏れ出たまま、激痛と共に地面に滴り落ちては彼の体力を奪う。また血の元となるものも有限だ。限りは近い。


 傷を受けてから、どれだけ過ぎただろうか。


 頭がくらくらする。適当に伸ばした髪が目に入ってうっとおしい。

 彼がただの人間より頑丈な身体であるとはいえ、治療しなければいずれ死ぬだろう傷を受けているのだ。倒れるのは時間の問題であった。

 胃から不快感がせり上がってくる。それは即ち死の恐怖、忌避感。酸っぱいものが口内に広がり、彼は思わず唇を噛む。


「くそ」


 手にした鞄が重い。投げ捨てたい。だが捨てるわけにはいかない。

 まるで望んだ重荷のように、生まれもった重責のように。いつもは軽く感じるその鞄がやけに重く感じられた。

 重要書類なんて置いてくればよかった。失敗した。こうなることは予測できたのに。

 いくら後悔しても足りず、青年は舌打ちした。


 死ぬのは怖い。一寸先に開いた暗闇に落ちる感覚は、味わった(・・・・)ことがある(・・・・・)からこそ、強い嫌悪を生む。


 死ぬわけにはいかない。青年が立ち止まることは許されない。


 暗く狭い道を、頼りない月明かりにすがりついて走る。ときおり夜闇を照らす街灯があるが、蛾すらもいないのだから空間の空虚さを増すだけだ。

 あれの気配は消えていた。どうやら追ってきてはないようだ。だがここは青年にとって敵地である。

 青年が追っていたものは“敵”ではない。あれはどちらかというと害獣、害虫の類だ。

 もし明確な“敵”であるものに襲われたら、こんなものではすまないかった。もし今彼らに襲われ捕まれば。おぞましい可能性が浮かんで、彼は背筋を震わせた。


 ここで捕らえられることは天文学的確率の話だが、ありとあらゆる可能性を考えればないとはいえない。

 それが現実になってしまったら、青年の身に降りかかるのはこの世の地獄だ。

 彼は自分の価値を自覚している。だから手足を捥がれ、鎖で縛られ、肉を切り刻み、拷問の末に実験動物にされるのが安易に想像できた。


 頬に冷たい汗が滑り落ちる。

 辿り着かねばならない。

 この街で一番安全である場所へ。

 彼女のいる、場所へ。

 青年は喘ぐ。あともう少し、もう少しだ。

 鞄の重さにふらりときた。血を失った身体は鉛のように重く、いつしか青年の足は崩れ落ちそうになるほど、使い物にならなくなっていた。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 とうとう青年は膝をつく。もう視界は霞んで見えなかった。


 駄目だ。


 その一言を心の中でつぶやく前に、青年の意識は闇に落ちた。

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