砂漠の蝶
それが起こったのがいつだかは定かでない。
だがかつて月や星に手が届いた頃の話であるのは歴とした事実である。
世界の端から端。地球という惑星の全土を征服した二足歩行の生物は、その有り余る知性を使ってその身にあまるものを作り出した。
存在しなかった人工の物質、太陽と同等の熱を生む炉、果ては他種族の組み替えまで……。
それが起こったのは、もしかすると神の怒りに触れたからかもしれない。神聖なる領域に踏み込んだ、毛の薄い生物の目に余る越権行為の数々によって、いるかもしれない神が天罰を下した可能性もあるにはある。
ともあれ、それは起こってしまった。世界に耳を澄ませていた、敏感な人々にすら知られずに。
世界が変わった。
まず最初の五十年で、環境が変化した。
暑いところは灼熱に。寒いところは極寒に。
木々が生い茂る国は森に呑まれ、砂漠の地は打ち寄せる砂の海に沈み。
ヨーロッパや南アメリカなどの都市部は萌木がアスファルトを突き破って自然に回帰し、アジアやアフリカの多くの地が荒涼とした荒地と化した。
ロシア、カナダなどの北極付近の国は未踏の地に戻り、荒れた海によって南極は閉ざされ、サハラの大砂漠は人が踏み入れることができない死の領域となった。
そんな過剰環境の中で生き延びた、たくましい生物たちは次の百年で急速に適応した。
それはもちろん今までの進化とは異なる。数十代数百代と経て淘汰されるべきものが、たった百年の内に変わってしまったのだ。
多くは狂い、かつて小賢しい猿が作った分類を越えるものになった。
世界は変わった。
狂った生き物に支配された、暗黒の時代へ。
かつての残り香に縋る、終わりなき闇の時代へ。
強い風が鮮やかな紫の布をさらっていった。
「はぁ、はぁ、……っ」
砂埃に顔を洗われ、少女は思わず目をつぶる。不躾な自然の洗礼に長いまつ毛が震えた。ぞっとするほど美しい、それまで彼女が歩んできた旅路を思わせぬ、しっとりとした闇色の髪が、ひょうひょうとはためく。
砂粒から顔を守るために掲げられたその腕は、細く短かった。守られた顔立ちもまだ丸くあどけないもの。彼女はまだ大人の胸にも届かないであろう幼子であった。
しかしその人形のように整った造形はどこか虚ろな色を持っている。それは薄暗い世界を知っている特有のもので、幼い美貌に危うい色気を含ませていた。
だが対する生物はそのようなことを気にかけない。柔らかい肉を求めて、完全に無防備になった少女へと打撃を叩き込んだ。
一度、二度。三度目で少女の未熟な体躯は吹き飛ばされる。
「くっ」
少女はなんとか空中で姿勢を整え、砂地を踏みしめる。彼女は顔をあげ、揺れる黒曜石のような瞳でそれを見た。
それは灰色がかった褐色の生物だった。頭部からは触角が伸びていて、端の方に小さな複眼がある。小さいといっても、それは少女の頭ほどの大きさはありそうだ。
腹部を支えるのは節ばった無数の足。角ばった関節を持つ虫の足だ。半ばまで身体を砂の中に隠しているため、全てを見ることはできないが、間隔から七対ぐらいはあるだろう。
北の言葉でソーバグと呼ばれる甲虫だ。正しくは昆虫類に入らないが、そんなことは少女にとって、またこの世界にとってどうでもいい。
鋼のような甲殻に包まれた虫は、かなり傷ついていた。足が折れ、甲殻が割れ、紫色の血をいたるところから流している。健気なことに、獲物を追うために一本になった触角を動かしていた。鈍くなった五感からロストした獲物を探しているのだ。
少女は息を潜めた。今動くと捉えられてしまう。夜の凍えるような砂漠にいるのに、じっとりと汗をかいている。
身体が重い。心が重い。かつては成体ですら余裕で倒せただろう虫に、幼生体の、この男三人分くらいの大きさしかない虫に、今は勝てる気がしない。
善戦はした。できる限り戦った。それが、これだ。
ふ、と息が漏れた。おかしかった。視界が揺れる。頭が揺れる。少女は膝をついた。もう疲れた。
ゆらゆら、ゆらゆら、と揺れていた触角が止まる。
見つかった。
再び感知した虫は背の甲殻の隙間から暗褐色の触手を勢いよく伸ばす。疲労した少女は避けられない。もう無理だ。少女は目を伏せた。
今までいっぱい殺してきた。だから、今度は自分が殺される番なだけ。
その生物と出会う前から、ずっと前から諦念に囚われていた。殺し、奪う。幼いゆえに何の抵抗もなかった行為は、少女の無意識の領域を嬲り、知らぬ間に心を蝕んでいた。
しかし、また、生き延びてしまった。
獣の勇ましい鳴き声と共に、ギチギチと虫の悲鳴が上がる。見上げると虫は銀色の獣に襲われ、身体のほとんどに紫の色を広げていた。
今までの道程で繰り返されてきたことがおこる。
少女が戦い、負け、獣に助けられる。
たったそれだけ。それだけのことだった。
大きな、大きな獣が、鋭い爪で虫を切り裂く。紫の血が噴き出す。獣は虫の体液に濡れ、しかし銀色の長い毛の光は失われない。
少女と同じ色の、力強い光を灯す漆黒の瞳が虫を見つめ、子どもを丸呑みできそうな大きな口から、ばう、と吠え声が出た。
「チェロンダ」
少女の後ろから、男の声が飛んできた。冷たい声だった。彼女と同じで、いや、それよりも心が疲れきっている者の声だった。
少女ーーチェロンダは、肩を震わせた。男が隣に立った気配がする。彼は鞄から何かを取り出した。チェロンダはそれが何か知っている。チェロンダの力を奪ったもの。そしてチェロンダの心を楽にしてくれるものだった。
腕を取られ、かすかな痛みと共にそれを注入された。
徐々に目の前が白くなり、少女は何も考えられなくなっていく。
真っ白な世界に堕ちていく。まるで、あの部屋のような、真っ白な世界に。
「もう、これが最後だから」
最後に聞こえた声は、嗚咽が混じっているような気がした。
最後に見たものは、残る力を振り絞ったそれに跳ね飛ばされた、大切な獣の姿だった。
◆
意識を失った少女を、男は特殊スーツを纏った腕で抱きとめる。
「ゆっくり休んでくれ……」
男の前に相棒の獣が叩きつけられ、砂しぶきが頬に当たる。
獣はしなやかな四肢で何度か砂を掻き、立ち上がる。
肺に骨でも刺さったのだろう。血を吐きつつも、男よりも大きな身体に力を巡らせる。砂に沈んでいく異形を追いかける気なのだ。
男は首を振って顔の高さにある獣の鼻を撫でてやる。
凛とした瞳が男に向けられる。そこには高い知性が浮かんでいる。
「いい。もうすぐで目的地だ」
狼の上に少女を乗せ、防護ヘルメットの中で行く先を睨む。
男が立っていたのは砂丘の頂点であった。
風の力によって高く高く積み上げられたそこからは、透明なドームに覆われた都市が見える。
高い高い外壁は異形から人を守り、歪みのないドームは人を焼き殺さんとする太陽から守る。
過剰環境になった世界で、自然に追われた人間が作ったものの一つだった。
昔世界に繁栄したその生物の名をヒトと呼ぶ。
そして今最も無残に縮こまり、散り散りとなって無力を晒している生物の名をヒトと呼ぶ。世界を支配する狂った生き物をケモノと呼んだ。
しかしヒトはしぶとかった。他の何を犠牲にしても守り抜いた忌まわしき知恵の実ーー科学を使って、彼らは生き延びた。
大樹をくり抜き都市を作り、不毛の地に大型食品工場を中核としたドーム型都市を建設し。
過剰環境に揉まれる中で寛容になった、弄られることを前提に進化した、己らの遺伝子にケモノと組み込むことすらして。
ヒトは、人間は生き延びた。
異形の力を身に宿して。
男は歩み出す。
狼と、気絶した少女を連れて。
「行こうか、享楽都市アルヴィスへ」