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深呼吸一つ、気持ちを切り替え沙耶が向かったのは、輪投げの屋台。
隣りの射的屋台にも心惹かれたが、あの銃の威力では景品を落とす銃口から為にも標的までの距離は近い方が良さそうだ。しかし大人の腰の高さほどある射的のカウンターから沙耶の身長では、身を乗り出すことなどほぼ出来まい。
青いプールに色とりどりの丸い玉が浮かぶヨーヨー釣りや、スーパーボール掬いも挑戦し、いずれも惨憺たる結果に終わっている沙耶だった。
ヨーヨー釣りでは針を引っかける暇も無く水につかった紙は脆くちぎれ、スーパーボールすくいもポイを片手にどれを取ろうかと物色する最中に手元に配るべき神経がお留守になり、薄い紙のポイの膜はあえかに溶けて破れた。
「紙はダメ」
それが沙耶の出した結論だ。
その点、輪投げならば水に濡れて千切れたり破れたりはしない。
ただ狙い定めて投擲するのみである。
射的の屋台では近隣の学生と思しき集団がカウンターから身を乗り出し、腕を伸ばして弾を撃ち出す、パン……パン……と言う軽やかな射出音と、コルク弾の描く軌跡の行く先に一喜一憂する少年らの楽し気な声が響いていた。その賑わいを後目に、沙耶はチリチリカーリーで生え際が黒い脱色金髪の屋台の店員に、五百円玉を差し出した。
「あらら、可愛い浴衣の外人さんのお嬢ちゃん、まいだーりー。オツーリ200円ネー。はい、投げ輪が三本。あっちに並んだ景品に向かって投げてーネー? 下までストンと入らないとダメで、ちゃんと入ったら景品ゲット。一本も入らなかったら、参加賞の飴ちゃんをYOUにプレゼントー。……オーケー?」
大げさな身振り手振りで輪投げのルールを説明する女に、沙耶は笑いながら
「日本語話せるから、大丈夫」
そう答え、三本の小さな輪を受け取った。
沙耶は輪投げが得意だった。フランスで両親と住んでいた家にも輪投げの遊具があったのだ。
だが手渡された赤・青・緑・三色の輪は、記憶にあるものよりも酷く小さいように彼女には感じられた。それは沙耶の所有していた輪投げの輪が実はフラフープの輪だったからなのだが、輪の大きさなど些末な事と沙耶はすぐに気を取りなおした。
なにしろ日本のコトワザには『大は小を兼ねる』と言う言葉があるのだ。あの大きな輪投げの輪は、この小さな輪を兼ねていたに違いない。
輪の大小など関係なく、とにかくこれを景品に通してしまえば良いだけのこと。
実際には輪の大小はとても関係あるのだが、沙耶は前向きに考え、とりあえず自分から近い場所にあり凹凸が少なく大き過ぎない景品を狙うと言う堅実な策に出ることにした。
「はーい、お嬢さんオメデトー! はいドゾー」
結果、三本の輪を消費して沙耶はプラスチック製のキャラクターグッズを景品として手渡された。
それは、お腹が空いた子供に自分の顔を食べるように勧めるあの丸顔ヒーローの小さな貯金箱だった。
小銭を入れるスリットが小さ過ぎて硬貨が入るかどうか心許ない上、顔のパーツは歪み、赤い筈の鼻やマントが紫色だったりとインチキ臭いことこの上なしではあるけれど、彼女にとっては立派な戦果だ。
ヨーヨーは取れず、三度挑戦したスーパーボールすくいも、手に出来たのは隣りにいた幼稚園児が同情して分けてくれた小玉ボールが一粒のみだったのだ。それに比べれば自らの手で勝ち取ったこの景品は誇れる物であるだろう。
「えへへ。これ、沙耶のお部屋に飾ろう。美鈴お姉ちゃん、もうお土産買えたかなぁ……?」
むき出しの景品を手に沙耶はふにゃんと笑い、徐々に増え続けている人波を透かし見るてから待ち合わせの鳥居へと向けて足取り軽く踵を返す。
射的屋台からは学生たちの快哉の声。
どうやら目当ての景品……それも沙耶が手にしたようなむき出しの小物では無く、箱に入ったおもちゃを彼らの一人、長身の少年が見事に射落としたようだ。
「……よし、取った! お前、これ欲しいって言ってたよね」
少年は店主に景品を手渡され、笑いながら連れの二人に顔を向けた。
「違げーよ晴樹。僕の好きなのはクーデレロリの紫の方。紫、もしくは癒し系の緑のオネー様がジャスティスで主役のピンクは論外。お子様受けのキャラグッズに興味はないと、なんど言えば理解してくれるのか」
眼鏡の少年は長身の少年が差し出した箱を押し返し、顔の前で人差し指を立てた手を左右に振る。
「いや……理解って言われても、俺そんなアニメ見てないって話のたび言ってるから」
反論する長身の少年───晴樹に同調するように、連れの一人が笑顔の中にも呆れを混ぜて口を開いた。
「っつか晴樹、妹が小さいころ俺もそのアニメシリーズ何度か見たけどさ、最初二人だったヒロインがシリーズ毎にドンドン増えてって、今シリーズとうとう五人に増殖とか……意味わかんないってか、既に髪の色でしか違い分かんないっつか、そもそもロボ出ないアニメなんて見るだけ無駄的な?」
「……んだと? 頭脳派クーデレロリ。癒し系姉キャラ。熱血スポーツ少女。ヤンデレ妹、そして天真爛漫ドジっ子ヒロイン。ニーズの高い各種タイプ揃えた見事な布陣の今シリーズを馬鹿にするなんて、全世界の大きいお兄さんファンを敵に回すようなもんだぞ」
「いやいやいや、敵に回すとかしてないっつーかキレんなし。ロボもメカも出ないアニメとか、タコ無しタコ焼き的な」
「魔女っ子なめんな。お前の部屋のガンプラ片っ端から破壊すっぞ」
「んなことしてお前の大事な食玩が無事で済むと思うとか、おめでたいんだっつーの」
自分を置き去りに友人たちがじゃれ合うのに苦笑いを浮かべ、晴樹は二人の間にグイッとこの原因となった射的の景品を突き出した。
「はいストップ、そこまで。大概にしないと時間的にそろそろ見回りの教師がうろつき出すって。うっかり捕まるの馬鹿馬鹿しいし、タコの入ったタコ焼きでも食べてはやいとこ帰ろ───!? ぅわっ!」
恐らくは、ちょっとした不運の重なった結果なのだろう。
例えば沙耶の向かった鳥居が、ちょうど輪投げ屋台から見て射的の屋台の側にあったこと。
例えば少年の受け取った景品の箱が少し長めの長方形であったことと、彼が勢いあまってそれを突き出し過ぎてしまったこと。例えば沙耶が、景品を手にした手元と足元ばかりに気を取られていたこと。
そして決定的な事に、沙耶の頭の位置と突き出された箱の位置が同じ高さであったこと───
運が良かったのは、沙耶の額に当たったのがおもちゃ箱の側面の、中身が見えるように張られた透明フィルムの部分だった事か。
角や厚紙部分とりも衝撃は柔らかくぺっこりとフィルムが凹む事によって吸収された。
「む!? ぷ・わっ……?」
顔に怪我を負うのを免れはしたが、鍛えられていない沙耶の首の筋肉は額に受けた衝撃に抗えずかくりと後に倒れ、踏み出した片足だけはそのまま前へ出されたままとなり───少女の身体は勢いよく後ろに向けて倒れていった。
「危ぶな……っ!」
二人の友人越し、自分の突き出した箱に女の子が当たり倒れて行くのを目にした少年の身体は咄嗟に年齢相応の反射神経を発揮し、動いていた。
後頭部を下に倒れる少女───沙耶の頭側にいた眼鏡の少年を対面の少年側へと押しやり、晴樹は必死に腕を伸ばす。
中二の春から勢いよく伸び始めた彼の身長は、この中三の夏で170㎝の後半へとなっていた。身長に見合って腕の長さもまた、それなりにある。
首の後ろから背中にかけてを大きな手で支えられ、斜め上方を向いた彼女の視界に見えたのは、ほんのり暮色を混ぜた夏空と、明るい中にも昼間の亡霊のような存在感を示す紅白提灯。そして、クルクルと回転しながら放物線を描く子供向けキャラクターを模った貯金箱が一つ。
祭囃子に人の喧騒。
そんな中では絶対に聞こえる筈が無いにも関わらず、パキャ……っと言うちゃちな落下音を沙耶の耳は拾った。
空と提灯の視界が、屋台の垂れ幕看板と祭り客らの頭部、首、肩、胴体の群れへと移動して、先刻までの通常の光景へと戻り
「───っと。ふはー。……大丈夫? 怪我はない?」
と言う声が耳へ届くのと同時、沙耶の見知らぬ少年が正面上方から彼女を覗き込んだ。
突然目の前に現れた何かが額に当たり、バランスを崩し後ざまに倒れそうになったことは分かっていた。
だが一体何がどうなったのか正確に把握出来ないままに、沙耶は今は何も握られていない右手を自分の額へ持って行きながら、晴樹へ灰色硝子の瞳を向けた。
少女の目に映ったのは襟に紺色のライン。胸のポケットには同色のラインと校章と思しき模様が入った白い半袖シャツ。それに、グレーのチェック柄のブレザーボトムと言う、夏服姿の見慣れぬ少年。
……あ、れ……? この人、どこかで見たこと、ある……?
現状の把握が出来ないままに、沙耶の直近の記憶が強い刺激を受けていた。
見慣れぬ少年に湧きあがる既視感が、彼女の茫然の時を引き延ばす。
「ああ……どうしよう。……日本語、分かる? can you speak Japanese? ……英語圏の子じゃないのかな? ごめんねキミ。おでこ、痛い?」
掛けられた言葉へ返答が出来ないでいる沙耶に、少年は彼女の容姿から日本語での意思の疎通が出来ていないものと判断したらしい。
薄く日焼けした眉間にシワを寄せながら、晴樹は困り顔で改めて真っ直ぐに沙耶の灰色の瞳を覗きこんだ。
「困ったな。どこの国の言葉なら通じるだろう……?」
身を屈めたせいで目の前に迫る少年の夏の制服をじっくりと見、自分の心が酷く刺激される原因は記憶の中の映像───円山家の依頼の遂行直後のフラッシュバック───未来の円山瑛太が身に着けていた制服と、目の前の人物の着衣が酷似しているためだと彼女はようやくにして思い至った。
ああ……でも、違う。
似てるけどこれ、色違い、なんだ……。
ぱちぱちと瞬きをして茫然の残滓を振り払い、沙耶は晴樹にしっかりと焦点のあった目を向けた。
「Français……と、あ。それから日本語も、ちゃんと分かる。えと、おでこはぜんぜん痛くないデス」
長身、薄く日焼けした長い手足にサラサラの黒髪。今時風ではないけれど、整ったその顔立ち。
未来視の映像に覚えた既視感の余韻か。しきりに自分を心配する少年とは今日が初めての出会いとは分かっているのに、何故か沙耶は以前からの知己と会っているような、そんな不思議な感覚を覚えていた。
「良かった……本当にごめん。お兄ちゃんの不注意で驚かせちゃったよね。本当の本当にどこも痛くはない?」
歪んでしまった浴衣の帯の形を整え、落ちそうになっている金魚の簪を手直しするなど、さりげなくも甲斐甲斐しく自分の世話を焼く少年はどう考えてもやはり沙耶とは初対面。
初対面の他人相手、本来なら多少なりとも身構えや緊張を抱かずにいられるほど図太い人間ではない筈の沙耶が、不思議とこの『お兄ちゃん』には自分を取り繕う必要を感じずにいた。
そんな己の心の動きに内心で首を傾げながら、沙耶は家族……今は亡き両親を前にした時のように、晴樹の前に自然に感情を表していた。
額に当てていた手を下ろし、掌へと目を向ける。
さっきまでは確かにこの手に掴んでいた筈の、本日の戦果が無くなっている。
「……わたしはどこも痛くないし、大丈夫……なんだケド……」
ぐっと下がる少女の眉尻。
空の手からふらふらと周囲へ視線を彷徨わせた沙耶はやがてソレを見つけ、唇を結んで悲しそうに言葉を途切れさせた。
彼女の視線を追った晴樹が数メートル先の路上に見つけたのは、縦半分、真ん中からぱっかりと割れて壊れたプラスチックの貯金箱。
「……あ……」
それは沙耶と晴樹の見守る目の前、悪気無い祭り客らの足の下に、ぱき……ぱき……と、幾度となく踏みつぶされ、修復の余地無く壊されていった。
2014・10・23 文章修正