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世話役としてこの円山家との仕事に同行した伯父、宇良部圭司の運転する乗用車の後部座席の背もたれに寄りかかり、少女……沙耶は、眼の裏に張り付いて取れない光景を現実の車内との二重重ねに幻視していた。
瑞々しい生気を失った草木の上、ポトポトと落ちて来るのはついさっきまで耳を聾する鳴き声を響かせていた、蝉の死骸。
空き地をひらひらと飛び交っていた蝶もまた、萎垂れた草花の傍らに生前の色彩をとどめたままの躯をさらす。
帰りの山道、沙耶達の目にとまったのは木の幹を叩く音を軽快に響かせていたコゲラの亡骸。
山中を少し探せばイタチやタヌキなどの小動物、キジや山鳩、メジロと言った鳥類や、蛇にトカゲ等爬虫類に昆虫、鹿やイノシシ……夥しい数の死体を見つける事が出来るだろう。木々や草花だけではなく、円山玄蔵が差し出したこの山の生きとし生ける物全てが人一人の命の代価として差し出され、彼の願いは成就したのだ。
山の命は死に絶えた。
「……ママン……パパ……」
白いワンピースの胸元を片手で握りしめ、沙耶はカーエアコンに適温を保たれた車内に小さく呟いた。
小さな拳の中には細い鎖に通された指輪が二つ。それは、半年前に一人娘の沙耶を残し、事故で命を失った両親の結婚指輪だ。
伯父の圭司は宇良部本家へ報告を入れるべく車外で携帯電話に耳を当てている。彼の耳に車内の呟きが届くことはないだろうと知りながら、沙耶の声は小さくかすれた。
両親と言う支えを失って間もない沙耶の精神的負担を慮り、圭司は随分と長い間、幾度となく本家経由で打診されるこの依頼を先延ばしに伸ばしてくれていたのだ。
円山家からの依頼を受けると強引に決めたのは沙耶自身なのに、こんな弱音を吐くのを聞けば優しい伯父はきっと心を痛める。だから絶対に弱音を吐くのを聞かせたくないと彼女は思った。
この世に生まれ十年も経っていない子供でも、存外に自分の周囲について見えているものだ。殊にそれが両親と言う無条件で自分を愛し支える後ろ盾を失った子供であれば、自分を家族として引き取ってくれた人間に対して良い子であろうとするのも当然だろう。
ましてやこの伯父は、留学生として来日していた沙耶の父と沙耶の母との駆け落ち同然の結婚を一族の中で唯一応援してくれた人物だ。
彼がいなければ沙耶は生まれてくることはなかった……とは、小さい頃から何度も繰り返し彼女が聞かされて来た言葉だ。
「こわいよ……」
今一度だけ、小さく、小さく呟いて、少女はぎゅっと強く目をつぶる。
幼くはあっても『異能の巫女』としての自覚と覚悟は持っていた。いや、持たざるを得なかった。
沙耶が初めて『異能の巫女』の力の顕現をみたのは4歳の時。当時の自覚も覚悟もないままでの力の行使は、図らずしも彼女に願いをかなえられた沙耶の友人と、沙耶自身の心を深く傷つける結果となった。
だが彼女の母の愛花や伯父圭司、宇良部本家の人々の助力と指導もあり、今の沙耶は『異能の巫女』としての自分の能力の特性を十分理解している。
能力の行使は沙耶によって行われたが、それを選んだのは円山家の当主。本当にそれで良いのかとの幾度もの問いに、肯んじたのは他の誰でもなく依頼主である円山玄蔵その人だ。
鳥に空を飛ぶ方法をを訊ねたところで、返される返答はきっと「鳥だから」の一言だろうと沙耶は思う。
これが鳥ではなく相手を魚に替えても同じこと。空を飛べるのは鳥として生まれたからであり、水の中を泳げるのはそこに住む魚として生まれたから。
だから沙耶が唯人ならぬ力を揮えるのは何故なのかと問われたとして、彼女が宇良部の血筋の『巫女』として生まれたからとしか言いようが無い。
彼女が出来るのは願いを持つ者と、世界に対してそれを叶える事が可能であるか、そして提示されて代償で足りるかを「問う」こと。世界と願い持つ者の間の取り引きの仲介者と言うのが彼女ら宇良部の巫女の取る立ち位置と言える。
鳥が死に蝉が落ち、そちこちに羽ばたかぬ蝶が散る光景は沙耶にとって身体が震える程に恐ろしいものではあったが、いずれにせよ人と言う生き物は他の生き物の死の上に立ち生きるもの。そう割り切らねば彼女は自身だけでなく『巫女』を生み出す宇良部一族全てを否定しなければならくなってしまう。
だからそれは耐えられるのだ。
『異能の巫女』の力とは、宇良部の『占者の巫女』の上位互換とも言える能力だ。
占者の巫女が相応の代償と引き換えに世界に対して未来や過去を垣間見る交渉をするとすれば、異能の巫女は代償と引き換えに未来や過去を書き換えまたは組み替える能動的な交渉を行う。つまり、異能の巫女である沙耶には占者の巫女同様に未来の時を見る能力があると言う事。
山一つ分の命と言う大きなエネルギーの移動の速度と量が原因となり、内燃機関に発生するバックファイアのような現象が発生した。
自分の意志とは別に、余剰分となった力が代価となり沙耶に少年の未来を見せつけたのだ。
果たして沙耶の見たその未来には、円山玄蔵の孫、円山瑛太の長じた姿があった。
恐らくは十代の半ばか後半……高校生ほどの年齢となった少年には、今日までの病の翳りの一片も無く、スラリと伸びやかな体躯は健康と健常とを誇り謳う。
───それはいい。
そうなるように彼の祖父、玄蔵は孫の為に自分の命よりも大事にしていた場所を願いの対価として支払ったのだから。
……沙耶を恐れさせたのは、別の要因。
問題なのは少年の長じた姿などでは無く、沙耶の目に映った場面の内容だった。
少年の足元に一人の女性が横たわっていた。
蹲るように床に倒れ伏した彼女の顔は見えないが、女を見下ろす少年の手には一振りのナイフが血に塗れて握られている。
宇良部の巫女の見る未来は、やがて確実に訪れる未来。
今から先、恐らく十年以内にあの少年は血まみれのナイフを手に倒れ伏した女の傍らに立つ。
確かに彼の延命を望み代償を支払ったのは円山玄蔵だが、『異能の巫女』たる沙耶さえいなければ、誰かが少年の足元で倒れ伏す未来は存在しない。
支払われる代償についての割り切りは出来ていても、自分の能力があって切り開かれた少年の未来に命を失う者があるかも知れない光景を突き付けられ、動揺せずに済むほどに少女の心は強靭ではなかった。
『……悪魔! ……魔女!』
沙耶の耳の奥に幼い頃の友の取り乱した叫び声が蘇る。
「でぃあー……ぶる。……そる、しえーる」
自覚無く、異能の巫女の能力を行使した記憶。
それを振り払うように沙耶は手のひらの中に両親が残した指輪を二つ握りしめ、眉間に力を入れて呟く。
「ちがう。わたしは、魔女……なんかじゃ、ない……」
だから、あの子に人殺しなんてさせたりしない。
それは、『異能の巫女』である少女の小さな決意の呟きだった。
2014.10.02
章タイトル変更及びそれに伴う各話数名の変更
内容に変更はありません