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神代晴樹が彼女によく似た横顔を見つけたのは、地方都市の駅地下の雑踏の中のことだった。
「あれ……?」
新幹線を始めとして数種の路線が入り混じる大きな駅から繁華な地下街へと散り、入る人の流れは煩雑で、その顔が見えたのはほんの一瞬。
「どうかしたか」
晴樹をこの街へ伴い連れて来た彼の祖父、神代晴臣が一瞬歩みを止めた孫に気付いていぶかし気な視線を寄越した。
「ん……なんでもない」
あの女の子……『沙耶』と言う名の少女と彼が出会ったのは、二度。
一度目は晴樹の通う新星大付属から家への途中、少し足を伸ばした場所にある神社の縁日で。二度目は学校帰りに頻繁に利用している図書施設でのことだ。
だがそれら二つのある街は今彼がいる場所からは遠く距離がある。
彼女に似た少女の横顔を雑踏の切れ間にチラリと見たように思った晴樹だが、たまたま同じ年頃で似たような長い髪の女の子だったに違いない。そう結論付けた少年は祖父が会長を務める企業の支社へ向かう為、迎えを待たせている駅前のホテルへ向けての歩みを進めた。
よもや彼ら二人が通り過ぎた地下駐車場のエレベーターから沙耶が自分を見つけていたなどは思いもせず、駅地下を歩く若者にも負けぬ健脚ぶりを見せる祖父と晴樹は歩調を合わせて足を動かしながら、たった二度、ほんの短い時間顔を合わせた少女の事を思い出すとも無しに思い出す。
「っつか、お前さー……子供には親切なのなー」
待ち合わせの保護者のもとへと去る浴衣の後ろ姿、透明なアクリル金魚の簪が揺れるハーフアップのお団子頭が人込みの中へ紛れ消えるのを見送る晴樹に、肩を竦めたのは学校からその場へとツルんで来た友人の一人。
悪化した成長痛が原因で一足先、半ば引退状態になったテニス部に後輩への激励と差し入れの為に顔を出した晴樹と、生徒会の用事、未返還図書の返還等、個々の理由から学校へと登校した三人が顔を合わせたのは偶然で、入学時からの腐れ縁の友人三人の足が近くの神社で催される縁日の賑やかな出店に向いたのは、ごく自然な流れからのことだった。
「なんか人聞き悪いな」
まるで自分が普段は不親切な人間であるかのような言いぐさに、晴樹は不愉快そうな顔を作ろうとして果たせず、苦笑いと呼ぶにも気の抜けた笑みに口を歪めた。
「こっちからぶつかって転びそうになったんだ。怖い思いした子供相手に仏頂面なんて、大人げないだろ」
「───で、結果幼女趣味疑惑にオマエの周りの女らの悲鳴が湧くってか」
口の悪い友人の追い討ちめいた言葉を聞くまでも無く、彼らの言いたいことなど百も承知。
「勝手に思えばいいよ」
緩い笑みの形の唇に灰汁のような苦味が上り、それは立派な『苦笑い』へと進化する。どこか投げやりな晴樹の言動は、この春出場したテニス大会に優勝したのをきっかけに、やたらと騒がしくなった彼の周囲に起因する。騒ぐのはもっぱら晴樹の周りの女子と言えば、どう言う騒がしさかは察せられるだろう。
学業においても成績争いでいつも上位、しかもスポーツでまで優秀な成績を修めた彼の人気が高まるのは至極当然だっただろう。だが、実のところ晴樹は昨年の同テニス大会においても優勝の栄冠を得ており、成績については新星大付属中へ入学した当初から今と変わらずトップを争う一人だった。
去年と今年、何が違うかとその差異を考えればそれはただ、一年で15㎝以上のハイペースで伸びた身長だけ。
あと何年か経ち冷静な目で振り返ったなら、中学生の女子がどれほど単純な理由で威勢に騒ぐかその年齢特有の愛すべき軽薄さを微笑ましく見る事も出来たかも知れない。しかし騒ぎの渦中にあって小さくはない精神的被害を受けた本人に、そんな心の余裕を求めるなど無理なことだろう。
同級後輩問わず自分の周りが少女らで華やかになり出した時も、晴樹はそれまでと変わることなく周囲に接していた。
生まれ育ちに恵まれた彼の物腰は相手を問わず柔らかで、その気質は親切。幾人かの少女らがそれを自分だけに向けられる優しさだと勘違いしたのは、恐らく思春期独自の自意識の強さから来るもの。
盛り上がる少女の友人達は無邪気に彼女達に共鳴し、『恋する少女』は友人達との共振によって否応なく増幅されたテンションのまま告白イベントへと追い立てられた。
だが若いからこその浅はかさの勢いは自分が夢見る幸せな結末を疑わず、一方通行の気持ちをぶつけられたところで彼が返せるのは、誠実だからこそ残酷な回答だけ。
一対一で気持ちを告げて来る相手は、少なくともその場で晴樹本人に怒りを表すことは殆ど無い。傷ついた女の子の表情は痛々しく、晴樹にとってはそれだけでも大いに精神的ダメージを与えるものではあるが、告白イベントに応援の友達を率いた幕引き場合の罵倒率の高さは、彼の所謂SAN値をガリガリと削った。
彼女達曰く、
「思わせぶりな態度を取っておきながら酷い」
らしい晴樹だけれど、別にその子を特別扱いしたつもりは彼には無く、ただそれまでと同じく他と変わりない態度で接していただけだった。
客観的に見て晴樹は自分の容姿を十人並と断じている。
彼より華やかな顔立ちの人間はいくらでもいて、今日ここに一緒に来た友人の一人などは、ツルペタなロリキャラ好みのアニオタを堂々と表明しているにも関わらず、眼鏡の似合う俺様系美少年として入学時からずっと女子に人気が高い一人だ。
彼に比べたら晴樹の造作は整ってはいても確かに地味で、人より身長の低かった一年生の頃など丁寧で親切な彼の言動を
「チビの癖にスカしてる」
と笑う女子生徒までいたと言うのに、まるで掌を返すような状況の変化は彼にとっては理不尽以外の何物でもない。
実際には中高生だけでなく男性のモテ要素は造作の華やかさだけではないのだが、自分を取り巻く状況の変化に追いつけずにいるローティーンとミドルティーンの狭間の少年にそんな理解を求めるのは無理と言うもの。
複数回、心の平安を揺るがす告白イベントと罵倒の波を潜り抜ければ、主義主張に多少反しても自衛を心がけるようにもなる。
そもそもの誤解『思わせぶりな態度』と取られる言動を回避するべく、女子に素気無い態度を取れば、今度は
「スカした態度」
「調子に乗ってる」
……と、女子だけでなく男子にまで悪しざまに言われる始末。
それで周囲の騒ぎが終わればまだしもだが、そのクールさが素敵だとかでまた騒がれ始め、更には晴樹が国内有数の企業グループ創始者一族の一人であることがどこからともなく漏れて『欲』と言う要素まで絡み、手に負えない状態になっていた。
短い期間で伸びすぎた身長と、真面目過ぎるほど真面目に取り組んだ部活動のせいで膝に故障……いわゆる成長痛ともスポーツ痛とも呼ばれる症状を発症させたのをきっかけに、部活に顔を出さなくなっても状況は変わらず。神代晴樹と言う個人の内面など完全に置き去りに、日々騒がしく周りで鞘当てを繰り返し勝手に諍う少女達に晴樹は心底うんざりとしていた。
「やさぐれてんなぁ」
不貞腐れる晴樹を腐れ縁の友人たちも気の毒だとは思っている。だからこそ気分転換のつもりもあって学校帰りの寄り道に彼を引っ張り出したのだ。
「もう幼女趣味疑惑で平穏になれるって言うなら、そう思ってもらって構わないよ……」
「もてる男は言う事が違う」
ゲンナリ感溢れる彼の呟きに返される、仲の良い友人だからこその容赦ない混ぜっ返し。
「オメーが言うなし。っつか、こいつ見てりゃロリ疑惑程度じゃどーもならんの丸分かりだっつの」
との瞬殺のツッコミは、ロリキャラ好きのアニオタ中学生でも顔が良ければモテる事を実証する友人の胸元に向けて放たれる裏拳の形を取った。
「ってぇなオイ。今マジで裏拳振り切りやがらなかったか!? まあ……なんだ、ロリ先駆者として一言アドバイスするなら……あれだ。『イエスロリータ! ノータッチ!』 これを心に深く刻み込むがいい」
「いや、そんな言葉贈られても……」
投げやりなでやさぐれた冗談に対し妙なアドバイスをされ、晴樹は失笑を唇に肩を竦めた。
「さっきの子、あれはスゲー美少女だったぞ。だが残念、俺のロリ嫁は二次元限定だ。三次なら癒し系お姉さまを連れて来るがよい」
「誰もオメーの性癖語れっつってねーし」
「ん? 美少女……だった?」
「うわー出た。興味無い相手は顔も覚えていない攻撃。しかも興味無い癖に妙に親切っつーのはアレだね、将来的に刺されるフラグみたいな?」
「お母様をぜひ俺さまに紹介していただきたいレベルで美少女だったぞ」
自分のうっかりで転ばせそうになった事と灰色の硝子めいた瞳を持つこと、それに浴衣を着ていてハーフアップのお団子部分に金魚の簪を挿していた事。その程度しか晴樹は件の少女の外見についての記憶はなかった。
ただ何となし、見覚えのない少女に対して『懐かしい』と言う見当外れな印象を所見で抱いた事に軽い戸惑いを覚えはしたが……。
その後、晴樹は「甚大な精神的被害を与えた事故の責任」と言う謎の理由により、どういう訳か二人そろって口もとを赤く腫らした友人達にタコ焼きを奢らされたりもしたのだが、その内にくさくさした気持ちを何となくだが癒され、帰途へ着く頃にはこのところ気を抜くと刻まれている眉間の皴も自然と消滅していたのだった。
二度目にあの友人曰くの美少女に出逢ったのはその翌日、学校最寄りの図書施設でのこと。
祭りの屋台を楽しみ帰宅した晴樹が自室でPCの電源を入れると、図書室から予約した書籍の貸出順が回って来た旨を知らせるメールが届いていた。
それは友人から途中までの巻を借り、面白ろくはあっても購入するほどではないライトノベルの一冊で、前巻やたらと思わせ振りな引きの場面で終わっていたものだった。
新星大付属中の三年生には高等部のクラス分け試験はあっても受験は無い。
しかも晴樹は現在所属の部活も半ば引退状態で比較的時間があり、走り回るには痛い膝も、歩く分には問題ない。
翌日午前、図書室のある公共施設にフットワークも軽く踏み入れば、そこにはピアノの鍵盤柄の手提げ鞄を晴樹に向けて振り回す女の子と、不審人物を見る目つきで晴樹を眺める少年の姿があった。
「沙耶、こいつ、誰?」
彼女の名前が『沙耶』であるとは、彼女の従兄だと言う少年の失言から知ることになった。
「あー……! 簡単に名前名乗っちゃダメだって言うから、わたし黙ってたのにばらしちゃうんなんてヒドイ。個人じょうほうはホゴされるべきなんだから! ほら、昨日お祭りでコレくれたハルキくんだよ。こんにちはハルキくん、昨日は玩具をありがとうございました」
鍵盤柄の手提げ鞄から彼が昨日少女に渡した魔法少女の変身グッズを引っ張り出し、晴樹の前に少女はぴょこんと頭を下げてにっこりと笑った。
確かに昨日彼の友人達が言っていた通り、白いチュニックワンピースにくるくると渦巻く長い巻き毛の少女は人形のように可愛らしい造作をしている。
「どういたしまして」
壊れた貯金箱のお詫びに渡した玩具はどうやら持ち歩くほど気に入ってもらえたらしい事を、なんとなし嬉しく思いながら晴樹も少女につられるよう笑みを浮かべた。
「……コイツの従兄の譲です。……昨日は沙耶がお世話になったみたいで、ありがとうございました。でも……小さい女の子を玩具で釣るとか、もしかしてそういう趣味の人ですか?」
非友好的雰囲気の漂う少年の発言は、たぶん一歳ながらも年上である自分がこの従妹を護らねばならないとの責任感から発された言葉だったのだろう……たぶん、恐らくは。
「ロリ……って、それ、ただのぶつかったお詫びのつもりだったんだけど……参ったなぁ」
昨日から冗談ながらも何度も自身を指して言われている『幼女趣味疑惑』に内心凹みながら、晴樹は困惑の笑みを浮かべた。
「もうー失礼だよ。ハルキくんあれだよ? 新星大付属中の生センパイだよ?」
「……!」
「生って……。あ、もしかして中受予定、とかかな?」
「……まあ……まだ、二年後のコトですけど」
「そうだよ譲くん。ハルキくんは先輩なんだよ。生の現役センパイだよ! 受験のケイコーとタイサクを教えてもらうといいよ!」
「え?」
「え?」
小さな両の手に魔法少女の変身スティックを握りしめた少女が、灰色硝子の瞳をキラキラと輝かせて晴樹を見上げていた。
実際本気で受験を目指しているらしい彼女の従兄も唐突なこの展開に若干引きつつ、どこか期待を混じりの顔つきでチラリと背の高い先輩へ目を向けていた。
こうして、ライトノベルを借りに来た以外別段用事も無い晴樹は断りの言葉を口にするこれと言った理由もなく、日曜の午前を子供達の相手に費やすことになったのだった。
オスグット症と言われる膝の故障の治療に通う整形外科と、その補助的な療養行為のためのスポーツ整体。時々行って顔だけを出すテニス部の練習と、図書館。この夏休みの晴樹は自宅とこれらの場所とのローテーションで過ぎていた。
去年は勉強以外の殆どの時間をテニスの練習に費やしたせいで、友人らに「松○しげるかよ」と言われていたくらい日焼けしていたのに、今年の彼の焼け具合はほんのり浅いレア焼け程度。
どこか気の抜けた孫の様子を見ていたらしい祖父、神代晴臣が
「時間があるのなら調度いい。お前もそろそろ一度、宇良部の『巫女』のもとに顔を出すがいい……」
と晴樹に言い出したのは、地方都市の駅地下の雑踏に少女の姿を彼が垣間見た数日前の事だった。