プロローグ
彼は、周囲の人よりは魔力量が多く、また、物覚えも良い方だった。
ゆえに、彼の親は彼を魔術師にすることを考え、
そして、彼もいつしか魔術師になることを希望するようになった。
彼は5歳になると魔術師になるために、専門の学校に入った。
そして、挫折した。たしかに、彼は周囲の人間より魔力量が多かった。
しかし、それは飽くまで彼の生まれ育った周囲の人間との比較だ。
魔術師を目指す人間たちの中では平均より上程度の魔力量でしかなかったのだ。
平均より上でもすごいといえるかもしれない。
だが、彼にはより致命的な欠陥があった。彼は音痴であった。
この世界の魔術師とは、一般に詠唱魔術を使用する者のことを指す。
そして、詠唱魔術の詠唱は、複雑な発音と音程から成り立つ。
彼の音痴は、耳の悪さと音感の無さが原因だった。正確に聞き取れず、
正確に音程がとれない。例年、音痴な人間は少なからず入学する。
耳が悪いものには、震動を利用して教え、音感の悪い者には
専用のバケツ状の道具を頭にかぶせ矯正した。
しかし、両方となるとかなり難しい。彼の魔力量が圧倒的に多ければ
教師たちもがんばったかもしれない。
しかし、彼は教師達が多大な労力をかけるほどの魔力量の持ち主ではなかった。
ゆえに、彼は魔術師になることを諦め、魔術師の学校を辞めた。
彼は、周囲の人間より体力もそこそこあった。
パレードで派手な軍服を着て馬に乗っている騎兵を見て、憧れたこともあった。
それゆえ、次は軍人を目指した。
8歳の時に士官学校の入学準備を行う幼年学校に入学した。
彼はそこでも挫折した。一人っ子で甘やかされて育てられた彼には、
幼年学校の厳しい規則が耐えられなかったのだ。
下手に魔術学校に入学していたのも仇になった。
魔術学校はもっと規則が緩かったと比較してしまうのだ。
また、体力に自信があるといっても、それは少し裕福な家庭で食事に恵まれていたために
育った場所の近所の中では体力があったというだけだった。
彼は幼年学校での日々の体力練成も嫌いで、またたくまに同期の中で体力の劣った者となった。
そして、彼は希望通り騎兵科に配属になったのだが、馬の世話も嫌いだった。
それゆえ、彼は1年そこそこで自ら学校を辞めることとなる。
彼は何もする気がなくなった。将来を心配した両親は、彼を商人か
官僚とすべく算術学校にいれようとする。しかし、すでになにごとにもやる気がない
彼は入学試験を突破するこができなかった。3歳児としては、物覚えが良かったが
10歳になった時には周囲と同程度であり、勉強しないで合格するほど頭は良くなかったのである。
15歳の時に、両親が不慮の事故で死亡する。そして、親の残した財産で18歳まで働かずに暮らした。
3年間贅沢はしなかったが、まったく働かなかった彼の財産はそろそろ底をつく状態だ。
なにか仕事をするかと考えるが、今更、一から仕事を覚えるのも億劫だった。
さてどうするかと考えていたとき、彼は修練の神殿の存在を思い出す。
修練の神殿とは、遥か昔、神々が相争っていた時代の産物である。
修練の神殿は、神の為に戦う兵を養成する為に神によって建設されたとされる。
神殿を建てた神の名は失伝しているが、神殿には人間であれば誰でも入れるので、
人間が崇める神の誰かが建てたのだろうといわれている。
神殿内は特殊な空間となっており、中には闘技場がある。
神殿には何人でも入れるが、同時に同じ闘技場に入れるのは、1人から6人までである。
闘技場には神が用意した対戦相手がおり戦うこととなる。
対戦相手は神の力によって作成された魔獣などを模した仮の生命体だ。
勝てば褒賞として神器などが貰える。負けてもある段階までなら死んでも復活し、
戦いが終われば傷なども完治した状態に戻る。
但し、残念ながら勝っても負けても壊れた装備類や消費したアイテム等は元に戻らない。
神殿内の闘技場はレベルで区別表示される。神殿に入った人数や各自の能力をもとに
闘技場のレベルや対戦相手の種類、数が決まる。この当たりは誤差もあるので、
明らかに入場者では倒せない対戦者が組まれることもある。
神殿に入り相手を確認し、相性の悪い相手や苦手な相手と判断した場合は、
簡単に外に出ることもできる。
何度、入っても対戦者が同じ相手の場合は、
入場者メンバーを入れ替えて相手を変えるという手段もある。
そして、中で戦うことによっていろいろなスキルを身につけることができる。
神殿内では魔術も身につく。この魔術は詠唱魔術とは体系が異なることから、
魔法と呼ばれ使用者は魔法使いと呼ばれたりする時もある。
闘技場レベル1からレベル9で貰える褒賞は神酒である。神殿のすぐ外で銅貨10枚で買い取ってくれる。
屋台の食べ物が銅貨2,3枚。食堂でがっちり食べると銅貨5,6枚かかるのが最近の相場だ。
闘技場レベル10から20は胴の記念プレートを貰え、それは銀貨1枚と交換してもらえる。
銅貨100枚で銀貨1枚、銀貨10枚で金貨1枚である。
神殿から遠い所なら、神酒を銀貨1枚で買い取ってくれる。
神酒の数がある程度まとまったら自分で売りに行く者もいる。
神酒は、まず中身が美味い。そして、ちょっとした健康効果があり、
容器がそこそこ頑丈で再利用ができ便利なことから人気があるのだ。
闘技場レベル21からは死亡時の自動復活はなくなり、
勝利しても戦闘終了後の傷の自動完治はなくなる。
報酬はかなりいいらしいが、挑む者は少ないので何がもらえるか不明である。
銀の記念プレートという話もある。この世界は体が破損しても魂が破損しなければ
復活できる。闘技場内の対戦相手は魂が破損するほどの精神攻撃はしてこない。
肉体が大きく破損すると魂と肉体が離れ離れになり、肉体から離れた魂は
徐々に壊れていく。死者の蘇生とは肉体と魂を再び結合させることを言う。
彼がなぜこの修練の神殿を思い出したかというと、修練の神殿に挑むのは
まぁまぁ健康だが職がなく、生活に困っている者などが挑む場所だからである。
生活に困った者が良い値で売れる神酒目当てに入るのだ。
また、見事、闘士レベル10を超えれば、軍が下士官として雇ってくれたり、
商人が護衛として雇ってくれたりもする。
治療系のスキルを神殿内で獲得すれば、治療師で食べていくことも可能だ。
闘士レベル10に行かなくても、慣れれば日に3から4回挑むことができ、そこそこの稼ぎになる。
闘士レベル10を超えるものは挑戦者の4人に1人といわれている。
闘士レベル10まで行く人間なら闘士レベル20までも行くといわれるが、たいていのものは一旦
闘士レベル10で止めてしまう。
止めてしまう理由は本人しかわかないといわれる。
闘士レベルというのは個人単位のレベルのことである。
レベル10の闘技場で複数で戦闘する者は、基本的に闘士レベルは10より低い。
闘士レベルの確認は神殿の中で行うか、特殊なプレートを神殿内に持ち込み、
情報を神殿内でプレートに書き写す。
特殊なプレートは金貨10枚と高額なので、闘士レベルがかなり高位の者が
引退時に記念に利用するくらいである。
また、神殿内には誰でも入れ、戦わずに容易に出ることができるので、
闘士レベルを確認したい採用者と一緒に入れば済む話でもある。
就職活動用に一緒に入って証明書を書いてくれる者もいる。
彼は修練の神殿の説明を、過去に3回ほど受けていた。
1回目は魔術師学校で、神殿で得た魔法の多くは詠唱が不要であり、
あっても複雑な詠唱のものはほとんどない。
魔力がそこそこあるなら魔法使いを目指すのもいいのではないかと担任に説明を受けた。
2回目は幼年学校で教官から、体力練成が嫌なら修練の神殿に行くと良い、
あそこでなら、単純で苦しいな反復作業はなく、また、あそこで得た力は
怠惰な生活を送っても失われることはないと。
3回目は両親に、そこそこ頭がよく、そこそこ体力のある者がいくといいらしいぞと。
しかし、彼は3回とも断った。いまいち乗り気がしなかったのだ。人生に失敗した者が、
修練の神殿に挑むという風潮があったからだ。彼は自分が人生に失敗したとは思っていなかった。
いや、思いたくなかったのだ。だが、ことここにいたって、
人生の失敗者であると認めざるを得なかった。
彼は、家をはじめ売れるものは全て売却し、修練の神殿に挑むことにした。