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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

最後のひとり

作者: 工藤るう子







 昏い。


 とっても、暗いんだ。


 視界が利かない。


 少年は這いつくばり、いざるように進んだ。


 手を伸ばして周囲を探るが,触れてくるものは,なにもない。


 ただ、足下、地面の感触だけが、総てだった。


 わかっている。


 周囲の状況など。


 けど、確かめずにいられない。


 くり返さずにいられない。


 なぜ。


 どうして。


 いつもいつも、少年が求めるのはいつか見た,青い空。


 いつも当然のようにあった、頭上の青。


 青い空を見た最後の記憶。


 あれは、夏だったろうか。


 暑い夏。


 寄せては返す万の波が、本来の海の姿を取り戻してゆく。


 浜辺で,少年は,血にまみれていた。


 血塗れた記憶だった。


 苦しくて,辛くて,哀しくて。


 気が狂ってしまいそうなほどの苦痛。


 それは、彼を抱きしめる、母の腕。


 母親の、慈愛に満ちた、まなざし。


 遠く近く、たくさんの人々の骸が散らばる、血なまぐさい夏の記憶。


 黒い髪、黒い瞳、象牙色の滑らかな肌を持った、彼の一族。


 ほんの少しだけ他と違う力を持っていたために、祈る神を違えたために、かつて住んでいた土地を追われ、かろうじて逃げ延びた生き残りは、しかし、探し出され、再び虐殺された。


 少年の命も、もう、長くはないだろう。幼い彼のどこか不思議なまでの諦観が、母親を刺激したのだろうか。


『助けてあげる。あなただけでも生き延びて』


 母親のことばに、うなづいたのだろうか。


 それとも、拒絶したのか。


『なんとしても、あなたを助けてあげる』


 ぜいぜいと、息が弱くなる母親の、哀しいほどの妄執が、少年の耳を貫いた。


 生き延びて幸せになってと言いたかったのか。


 生き延びて、一族の敵を討ってと言いたかったのか。


 うるさいまでの波の音も、強烈なほどの太陽の熱も、母親のことばに凍りついたかのようだった。


 こもった音とともに、母親のくちびるから大量の血があふれだす。


 細い指先が、まだらに血を吸った褐色の砂に朱の図形を描いてゆく。


 母親が、最後の力を振り絞り、両手を空に掲げ、なにかを詠唱した。


 力尽きて砂に倒れ伏す。


 縋りついた少年の手を握り締め、


『愛しているわ。わたしのアシュレイ』


 ささやいた。


 独りにしないでと、既に痛みも麻痺した少年は、母親に抱きついた。


 母親の命は長くない。


 彼女が息絶えた後は、少年はこの砂浜に死ぬまで独りでいなければならない。


 それほど長くは残されないだろうその時間を、それでも恐れた。


 寂しい、と。


 怖い、と。


 よりいっそう、きつく。


『大丈夫よ』


 やさしい言葉とは裏腹に、彼女の瞳は邪悪なまでの赤を宿して彼を見上げてきた。


 青。


 空はどこまでも青いのに。


 どうして、自分のまわりはこんなにも。


 そう少年が思ったときだった。


 いつの間に。


 目の隅に、母親のくちびるが引き攣れるように笑んだのを見たと、そう思った。


 音もなく佇むその人影に、彼女は手を差し伸べた。


『我らが主よ』


と—————


 冷たいまなざしが、下される。


 一族と同じ黒い瞳と黒い髪の男が、これだけは違う白い肌の腕を伸ばした。


 母親の顎を持ち上げて、訊ねる。


『なにを望む』


 その声の冷ややかさに、少年の全身を死に瀕するものとは別の寒気が駆け抜けた。


『この子の生をっ』


 覗き込む彼女の両眼の奥になにを見たのか、口角を歪めて、男は笑った。


『それだけか。なにを我によこす』


『わたしの総てを』


『いいだろう、ならばこれも、我がものだ』


 男の手が、言いのけざま少年を抱き上げた。


 母親の瞳が、それを見届けて、閉ざされてゆく。




 それが、彼が正気の母を見た最後の時だった。




 あの時、彼女の黒い瞳に、どんな感情が込められていたのか、彼は思い出すことができずにいる。




 あれからの十年を、少年は“主”と呼ばれた男に育てられた。


 冷たい声とまなざしが、いつも向けられていた。無関心では決してないその冷ややかさは、常に彼を怯えさせた。それでも、それだけが、当時の彼に与えられるなにものからの感情で、彼はそれを求めずにはいられなかったのだ。


 それが変わったのは、彼が十七になったあの時だった。


 冷ややかなまなざしが、ぎらりとした熱を宿し、彼を凝視した。


 いつかのように伸ばされた手は、彼を抱きしめてくる。


 落とされたくちづけは、しかし、彼を戸惑わせるばかりだった。


 本能的な拒絶は、“主”の機嫌を損じたのだろう。


 くちづけ以上の無理強いはされなかったものの、あれ以来、闇の中だ。


 彼は、ただ、生かされている。


 これを“生”と呼べるのならば。


 食べることも、飲むことも、排泄することさえ、必要なかった。


 ただ、からくり仕掛けの人形のように、闇の中に打ち捨てられている。


 “主”が、たまさかに訪れるときだけ、生きているのだと実感することができる。


 その時にだけ、自分が生きているのだと思い知る。


 あの男の気まぐれな声によって、思い知らされるのだ。




 白い手が、闇のなかに翻る。


 男の全身が現れ、


「アシュレイ」


と、低い声で彼を呼ぶ。


 凝視してくる黒い瞳に、好悪よりも先に、畏怖が立つ。


 これは神なのだと。


 母が最期まで信じていた神なのだと。


 だから、彼には逆らうことはできない。


 神の求めに従うしかない。


 全身が震えても、冷たい汗が流れても。


 理性ではそうわかっていても、今もまだ、生理的な嫌悪が、こみあげてくる。


 伸びてくる手を、はねのける。


「ご、ごめんなさい」


 我に返った彼の頬に、冷たい掌が触れてくる。


「お前は我がものだ」


 わかっている。


 そう。


 母の総てと引き換えに彼は生き延びた。


 “母の総て”


 その中に彼も含まれていたのだと、母は理解していたのだろうか。


 母の望みは、彼の“生”。


 だからこそ、彼は、殺されることはない。


 しかし、彼の総ては、“主”のものなのだ。


 黒いまなざしが、彼を見下ろす。


 その奥に、彼の未だ知らない欲の滾りを潜めたままで。


 ゆるやかにくちづけが落とされ、はなれてゆく。


「お前が望まなければ意味がない」


 そう耳元でささやかれて、彼は止めていた息を吐く。


「お前がわたしを望んだ時、お前の生は真実のものとなるだろう」


 今はまだかりそめの生にすぎないが。


「どうすれば、お前の心は我を求めるのだ」


 瞳を望み込まれて、彼は、戸惑う。


 わからない。


 “主”の白い顔を見上げながら、彼は、途方に暮れるのだ。


「お前の望みはなんだ」


 長い……と感じた沈黙のまなざしの後に、“主”が口を開いた。


 溜め息混じりのような、戸惑っているかのような、不思議な声音に、“主”の見知らぬ顔を見出したような気がした。


「青」


と。


 そうして、彼は、


「青空。青空の下で暮らしたい」


と、つぶやいていた。








 叶えられた願い。


 それは期限のあるものだったが。


 彼は再び見ることができた青空に、目を細めた。


 まばゆい。


 どこまでも青い空は、まるであの悪夢などなかったことのように澄んでいた。


 それもそのはず。


 あの悪夢の日から、三十年近くの歳月が流れていたのだ。


 だから、あえて少年の生まれた国に彼は出してくれたのだろう。


 この国で、少年は唯一の異端なのだから。


 もっとも、今の少年を見て、そうと見破るものはいないだろう。


 黒かった少年の髪は白く、同じく黒かった少年の目は赤くなっていたからだ。







 

 彼は市場で野菜の品定めをしていた。


 買って帰らないと夕飯が作れない。


 午後も早い時間だが、市場はにぎわっている。


 野菜でスープでも作るかと、幾種類かの香草を矯めつ眇めつしていた彼は、呼びかけてくる声があることに気づいていなかった。


 それに、相手が焦れたのだろう。


 肩にかけられた手を振り払うようにして振り返った彼は、相手を睨みつけ、そうして、その場に強張りついた。


 青い。


 男の目が、とてもきれいな青だったからだ。


 彼が長く憧れつづけた、青い色。


 今まごうことない青空の下にいるのだとしても、青は、やはり彼が永い間憧憬しつづけた色にちがいない。


「これを落とされましたよ」


 二十代だろう金髪に碧眼の身なりの良い青年が、なにかを差し出してきた。


 見れば、それは彼の財布だった。


 茶の革に、銀細工の縁取がある透明な青い石がひとつだけ落ち着いた装飾となっているそれを見て、


「ありがとう」


と、受け取った。


 買い物に出て財布をなくしたでは洒落にならないからだ。


「よければ、お茶などご一緒して頂けませんか」


「はい?」


 間抜けな顔をしていただろう。


「ナンパなら女の子をどうぞ」


 石のつぶてをいきなり喰らったような顔をして、男は彼をまじまじと見る。


 その視線のぶしつけさに、彼の眉間に皺が寄る。


「じゃ、そういうことで」


 少年は、自分自身の姿があまり好きではない。


 本来の色彩を無くしてしまった外見を、自分のものだと認められないからだ。


 あの日の出来事が少年から色を奪ったのか。


 それとも、その後の永い歳月か。


 かつては黒かったはずの少年の髪は、白になった。


 瞳は、血の色をそのまま宿している。


 肌の色さえも、生成りの色をなくした。


 これは、自分じゃない。


 この“生”が真実のものじゃないのと同じく。


 ひとの多い王都で、この男にはもう会うこともないだろう。


 野菜を諦め踵を返した彼の手を、


「待ってください」


 しかし、男は掴んだ。




 アリストーは、彼を好きだと言う。


 その後にきまって、


「君は? アシュレイ」


 そうやわらかく微笑むのだ。


 それが彼をどれほど苦しめるのか、アリストーは知らない。


 少年を縛るものがなになのかを、アリストーに知られるわけにはゆかない。


 彼をしばるその鎖が、冷たく、同時にあたたかい闇だということを、知られてしまえば最後なのだ。


 なぜならば、アリストーの神とは相容れない異端の存在が彼の唯一の“主”だからだ。


 ばれれば、彼は殺される。


 未だ治りきらない古傷が、その恐怖を思い出させる。


 その悲しみもまた。


 青い瞳は彼を惹きつけてやまないが、彼自身を今縛るものと過去の記憶が、彼を怯えさせるのだ。


 これは、“主”に対する裏切りだと。








 かつて、国は赤褐色に染まった。


 朱の奇禍を起こしたのはひとりの魔女だった。


 狂乱の魔女と恐れられた黒髪黒瞳の女は、捕らえられ火刑に処されるまで、実に百人になんなんとする兵士を殺したと伝えられる。


 炎に炙られ死に絶えるその瞬間まで、魔女は、国を神を呪った。


 その骸は砕かれ、海に撒かれたのだと言う。


 二度とよみがえることのないように———と。








「これがその魔女の似せ絵だと?」


「仰せのままに」


 華美な衣装の男がアレストーに礼をとる。


 対するアレストーは一見簡素な装いだが、上質な生地と仕立ての良さを見てとることができた。


「陛下は誑かされていらっしゃられるのです」


「馬鹿な」


「黒い髪を白に、黒い瞳を赤にしてごらんください」


 男のたるんだ頬が揺れる。


 細い瞳が嶮を孕んで吊り上がる。


「そっくりではありませんか」


 言われて似姿を検分する。


「似てはいる。似てはいるが、それだけだ」


 秀麗な眉間に刻まれた縦じわに、男の薄い口角が邪悪な笑みを刻んだ。


『陛下はわたくしなど見向きもされません』


 愛しい娘の嘆きに、侯爵はしのびの国王が恋をしたと言う相手を確かめた。


『少年ではないか』


 子を生せぬものなど、王家に用はない。


 王妃であれ寵姫であれ、望まれるのは、第一に王の血を引く子を産むことだ。


『お前が負けるはずがない』


 豊かな国の王妃となるのは、我が子だと。


 侯爵は一計を案じた。


 幼い頃に見た魔女の火刑、その魔女の面影を少年に感じたのは、偶然だった。


 他人のそら似だと思いこそすれ、主張をつづければ、現実になる。


 侯爵はそれをよく知っていた。


 賢王と呼ばれ、どれほど市井に立ち混じろうとも、所詮は箱入りにすぎない。


 ほんのひとたらし、ふたたらし、ささやくだけでいい。


 毒は、最初はかすかな疑惑に過ぎないだろうが、芽吹くのだ。


 小さな芽が。


 そうなれば、自分の思い通りだ。


 少年には悪いが、王を誑かしたのが悪いのだ。


 これは、罰だ。


 どこの馬の骨とも知れないものが王を誑かした罰。


 我が娘の邪魔をした罰。


 それは、死をもって償ってもらおう。


 三十年前の魔女と同じ火刑が相応にちがいない。


 侯爵は、こぼれ出しそうになる笑いをごまかすため、杯を取り上げ、一息に飲み干した。








 アシュレイの心に芽生えたほんのささやかな感情は、“彼”を満足させた。


 怯え縮こまりきっていた少年の、わずかな変化。


 それをもたらしたのが自分ではないことが忌々しかったものの、ひとの心がままならないものだということを、“彼”は知っていた。


 本人にすらままならないものを。


 ともあれ、アシュレイの望んだ青い空のもとに彼を出したのは、正解だったのだ。


 “彼”の最後の信徒の心が癒えることが、“彼”の望みだった。


 信じられるからこそ、“彼”は存在することができる。


 アシュレイの死は、“彼”の消滅の時でもあるのだ。


 もっとも—————と、“彼”はひとりごちる。


 アシュレイが存在するならば、それだけでいいのだ。


 彼にとって、アシュレイは特別な存在だった。


 どう接すればいいのかなど、“彼”にわかるはずもなかったが、最後のこどもとなったアシュレイを、愛さずにはいられなかった。


 ともかく、深く傷ついたアシュレイを生かしつづけた。


 怯え泣きじゃくるアシュレイが育ってゆくさまを見守り、それがかりそめでしかないことを悔やみながら。


 証拠に、彼の傷口は“彼”の力をもってすら、癒えることはなかったのだ。


 力が衰えて、久しい。


 アシュレイの母親が処刑され、遂にアシュレイのみとなってしまったのだ。


 “彼”を信じるものも、“彼”が守るべきものも、互いに唯一の存在となった。


 “彼”の力はささやかなものとなり、育つに従いアシュレイの傷口は大きく開いた。


 闇に閉ざすことで、アシュレイの成長をとどめ、これ以上傷口が広がらないように処置をくり返す。


 アシュレイに与えた外での期限は、傷口が今以上に広がることのないぎりぎりの限界だった。


 彼の総てを手に入れたかったが、それが叶わないならば、共に消滅することもまた“彼”にとっては至福に他ならない。


 最後のひとりは、“彼”の宿命であるのだから。


 静かに、闇の中で、“彼”は、瞳を閉じた。


 その時がくることを待ちながら。








 そうして、その時はやってきた。


「どうしてっ」


 アシュレイはアリストーを見た。


 黒い鎧の兵士に囲まれて、アリストーは強い目をして彼を見ていた。


 なにひとつ望まなかった。


 なにひとつ許さなかった。


 くちづけひとつ。


 アシュレイは自分の立場を、彼なりに理解していた。


 自分は、“主”に生かされている存在なのだと。


 期限付きでここにいるだけの人間なのだと。


 だから、アリストーとはただ街中で待ち合わせ、喋るだけだった。


 気をもたせるようなことは一切しなかった。


 アシュレイはアリストーの目を見るだけで幸せだった。


 喋るだけで充分だったのだ。


 アリストーの身分が何であろうと、些細なことでしかなかったというのに。


 突然兵がやってきて、罪人のように引き立てられた。


 そうして、でっぷりとした男が、アシュレイを王を誑かした魔女だと告発した。


 わけがわからなかった。


 アリストーは何も言わない。


 それが、アシュレイを不安に落とし込む。


 あたたかい空の青を映していた瞳が、氷のように冷ややかだった。


『狂乱の魔女の血筋だろう』


と、詰め寄られて、


 『違う』と、『信じて』と、口にすることもできなかった。


 事実、アシュレイは魔女と呼ばれた女の息子だった。


 狂乱の魔女の息子だったからだ。


 異端の魔女と烙印を押すために服をはぎ取られ、包帯までも奪われたアシュレイの肌を見て、アリストーたちが息を呑む。


 アシュレイはただうつむきくちびるを噛み締めた。


 彼らの目にさらされたのは、治りきらない、生々しい傷口が開いたままのからだだった。


 今にも傷口から血が流れ出しそうな生々しさで、口を開いている。


 死んでいて当然の傷の深さに、男たちは後退さる。


 なぜ、普通に話すことはおろか、動くことまでもできるのだ。


「魔女がっ」


 動いたのは、アリストーだった。


 灼熱に熱せられた焼きごてを抜き取るや、アシュレイの肌に押し当てた。


 苦痛の叫びと肉の焼けこげる音が、その場に響いた。


「お前の処刑は、明日の正午だ」


 吐き捨てるアリストーの声は、気を失ったアシュレイの耳には届かなかった。








「毒だけでは足りなかったか」


と、侯爵が企てたのは、偽のアシュレイの逢瀬だった。


 王に見せれば完璧だ。


 事実、王は、それを見て、裏切りを信じた。


「所詮は箱入り。簡単だったな」


 侯爵が誰もいない部屋で杯をもたげた。


「それにしても。本物の魔女だったとはな。噓から出た真実とは、このことか」


 半死人の分際で王を誑かすとは、不届きな。


 しかし、これで、娘の邪魔になるものは消える。


 侯爵は、ひとり笑いつづけた。








 愛しているのに、裏切った。


 アシュレイがなにかに悩んでいることは、知っていた。知っていて、待っていたのだ。


 自分を選んでくれると、悩みを打ち明けてくれると。


 その時こそ、アシュレイの総てを自分のものにすることができると。


 それなのに。


 ひとりの男として、王として、こんなことが許されるはずがない。


 アシュレイ。


 信じてと、違うと、ひとことでよかった。


 口にしてくれさえすれば、信じた。


 なのに、口をつぐんだアシュレイに、目の前が眩んだ。


 そうして剥き出しにされた、アシュレイの秘密。


 あの深い傷で、何故生きている。


 何故。


 侯爵の戯言通り、アシュレイは魔女だというのか。


 惑乱の末に、アリストーは、焼きごてを引き抜いていた。


 いずれ堪能するはずだった、できるはずだった、アシュレイの肌に、押し付けた。


 そうして、明日。


「誰にも殺させはしない。アシュレイを殺すのは、私だ」


 アシュレイが憧れた澄んだ青いひとみを暗く澱ませて、アリストーは吐き捨てた。








 風が吹く。


 重い雲が、空を覆い隠す。


 火刑の杭に縛り付けられ、アシュレイは、ただ、空を見上げた。


 憧れつづけた青い空は、ない。


 きれいだと思った青いまなざしは、暗く澱んでアシュレイを見ている。


 所詮自分には、闇がふさわしいのか。


 分不相応なものに憧れて、あげく、このざまなのか。


 “主”よ。


 黒いまなざしが、脳裏をよぎった。


 オレの唯一にして絶対の、“主”よ。


 アリストーが、たいまつに火を移す。


 そうか。


 彼が、オレを殺すのか。


 愛しているとオレの手を握り締めたあの手が、足下の薪に火を放つのか。


 母と同じく、自分は炎に炙られて死ぬのだ。


 オレは、あなたを求めることが許されるのだろうか。


 アリストーに揺らいだ心で、今更、あなたを求めてもかまわないのだろうか。


 どっち付かずの心が、死の恐怖を前に、ただあなたに救いを求めているだけだとしても。


 醜いオレを、許してくれるのだろうか。


 アリストーが薪に火をつけた刹那、


「×××」


 教えられた“主”の御名を、アシュレイは小さくささやいた。








 その時は唐突に訪れた。


 ささやかな声だった。


 しかし、聞き間違えるはずのない、アシュレイの声。


 アシュレイが、自分の名を呼ぶ声だった。


 後悔であろうと、醜悪であろうと、かまわない。


 “彼”は、ゆっくりと瞼を開いた。


 黒曜石のような双眼が、闇の中に鋭い光りを宿した。


 アシュレイが呼ぶのだ。


 他ならぬ自分の名を。


 なれば、応えよう。


 アシュレイこそが、唯一なのだから。


 “彼”は立ち上がる。


 次の瞬間には、“彼”の姿は掻き消えていた。








 わざとに湿らされた薪がじりじりと小さな炎を宿してアシュレイの足の裏を炙る。


 足裏の焦げる臭いに、吐き気がこみ上げる。


 立ちこめる煙に、涙があふれる。


 “主”を求める声は炙られる痛みにただ悲鳴へと変わる。


 痛い。


 苦しい。


 助けてと、ただそれだけのことばすら、紡ぐことはできなかった。


 風にあおられ大きくなる炎が、アシュレイの苦痛を嘲笑うかのように、着衣の裾にその赤い舌を伸ばす。


 あらかじめ油をしみ込ませられている布は、容易く、己を蹂躙する舌を受け入れる。


 アシュレイのくちびるから、絶叫が、ほとばしった。








 アリストーはただそうしなければならないからと、松明の炎を薪へと押し当てた。


 心は麻痺したように、愛した少年を見てもなにも感じない。


 怒りも、歓びも、なにもなかった。


 溜飲が下がることもない。


 ひとではない魔女が泣き叫んでいると、そうとしか思わなかった。


 魔女ならば、罰せられなければならない。


 ひとを欺くからだ。


 ひとを傷つけ、裏切るからだ。


 だから、相応の罰として、殺すのだ。


 見せしめとして。


「死んでしまえ」


 つぶやきながら、泣き叫びもがく少年を見つづけた。


 炎が少年の着衣に移り、瞬く間に全身を包み込んだ。




 まさにその刹那だった。




 少年を包み込んだはずの炎が、消えた。




 そうして、少年のすぐ傍らに端然と立ち尽くす丈高い姿を、アリストーをはじめとするその場に居合わせたものたちは見出すこととなる。


 低い声が、遠くまでよく響いた。


 声はただ、


「アシュレイ」


と、少年の名を呼んだ。


 それだけで、少年の炎に縮れた白髪が、元の姿を取り戻す。


 炎に煽られ火傷の初期の症状を見せていた全身が、青白い肌を取り戻す。


 そうして。


 魔女の証と思われた、深い傷跡が癒えてゆく。


 それを、誰ひとりとして、その場から動くことができないままで見ているよりなかったのだ。




「王よ」


 ひとり素早く我を取り戻したアリストーが剣の柄に手を当てた。


 まるでそれを制するかのように、長いローブに身を包んだ男がアリストーを呼んだ。


「真偽を見抜くことのできぬ愚かな王よ。アシュレイは返してもらう」


 真に罰するべきは、その男。


 いつの間にかアシュレイを抱いた男は、開いた片手で侯爵を指し示す。


 青ざめた侯爵がなにかを口にするいとますらなく、男がアシュレイごと掻き消えた瞬間、消えたはずの炎が命を吹き返した。


 と、絶叫が、一同の耳を聾した。


 いつの間にか杭には侯爵が縛められていたのだ。


 炎は近づこうとするものを誰ひとりとして許さず、その日一日燃えつづけた。


 そうして、侯爵は不思議にも、炎が消えるまで、死ぬことさえも許されなかったのである。








 闇の中、アシュレイは“彼”を見上げた。


「お前は我のものだ」


 “彼”は、アシュレイを見下ろし、くちづけを落とす。


「オレは………いいのですか」


 こんなに醜いオレでも、許してくださるのですか。


 闇の中、不思議に明瞭に見ることのできる“主”の表情は、見たことがないほどに穏やかだった。


「オレは、あなたのものです」


 満足げに笑む“主”の首に両腕を回し、アシュレイは目を閉じた。









18:14 06/08/2012


08:29 06/08/2012


19:18 05/08/2012


09:53 05/08/2012


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