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正門の内側にある通用口まで着いたが馬車はまだ停まらなかった。アルスはいい加減お尻の痛さに辟易として身体を動かしたい欲求を抑え続けている。閉じ込められて自分で移動できないことに途轍もない不自由を感じる。目的の場所が目の前にあるのが余計にもどかしさを募らせる。嫌な記憶も蘇ることも苛立ちの原因だ。耐え性がないとも思うがどうしようもない。
「すぐ目の前に城があるのにまだ馬車を降りないのか?」
「あれは正宮。公の場として使われる建物なの。私たちは奥宮まで行かなきゃいけないのよ。あともう少しだから」
正宮の脇に設けられた鉄門を通って馬車は広場に出た。目の前に再び城が現れてアルスは文句を言いたくなった。
――もう少しって、本当に少しじゃないか・・・
だが、歩けば7,8分程かかるだろう。心の中で悪態を吐いているうちに正宮から奥宮まで美しく設えられた庭園を通って馬車は奥宮前で停車した。アルスは馬車を飛び降りる前にルジェの顔を見た。ルジェもアルスの瞳を見て頷く。
ほんの数日のうちに彼女達の間には同志と言えるような絆が芽生えつつあった。
軋む身体を落ち着かせてアルスは優雅に馬車の外に躍り出た。“顔も隠した傴瘻の男”が現れた事で外の騎士達には動揺が走ったようだが、続いて現れたルジェの優美な姿にその動揺は多少鎮まる。褐色に塗り替えた手を差し出してアルスはルジェの手を取った。通常は騎士の行為であるそれを王女が何も言わずに受け止めているということで、その場を何事もなく押し切ろうとしたが、ルジェの前に白髪の男が現れ、その手をアルスから奪い取って口付けた。
「無事にお戻りくださり重畳にございます、ルジスタ王女殿下」
「・・・お久しぶりね、ロシュフォール卿」
ロシュフォール・ヴェルス。ルジェの父王ヴィラルド・ガレスディエリエルの右腕、この国の宰相である。
矍鑠とした老人は柔和な笑みを湛えていたが、その動きや視線の配り方からかなりの重臣であろうことが察せられた。この手の柔和な笑みの裏には大体何かが隠されていて、特にアルスにとっては厄介きわまりない相手にしかならない。ルジェは歯噛みしていた。この男のことを予測していなかったということだろうか。口を開くルジェの目には先手必勝という焦りが滲み出ていて、まだまだ甘いとアルスは苦笑した。この手の老獪な男に勝つには先手を打った方が良いという判断はおそらく間違ってはいないが、絶対に勝てないだろう。もっともアルス自身だって渡り合えるとは思わない。苦々しい思い出が記憶を苛む。
「もしかしてロシュフォール卿は彼のことについてもうすでに聞き及んでいらっしゃるのかしら」
「陛下の思し召しによりここに参りました。まさかこのような御仁とは思いもしませんでしたがな。ですがまずはお寛ぎください。中へ参りましょう」
二人は応接室に通された。ロシュフォールは二人を座らせると柔和な笑みを収めた。
「ルジスタ様、お疲れでいらっしゃるとは存じますが、その者の素性をお聞きできますかな」
「彼の名はアルス。名字はないそうです。セイレンの友人で、彼の最期を看取ってくださったの」
「罪人の友人と言うことはその者も罪人ということですかな」
「セイレンは罪人なんかではないわ! 嫉妬にかられた濡れ衣であることは明白よ」
ロシュフォールは罪人という言葉に眉を顰めたルジェを見て、深く皺の刻まれた顔に嵌めこまれた冷徹な瞳を光らせた。
「罪人として戦場に送られた。これが事実です。だがまあ仮にオルデ=デュシスが罪人ではなかったとして、仮にこの者が罪人ではないとして、どうしてこの者を信じることができますか? 粗野な野人が貴女に無体を強いないとも限らない」
ロシュフォールは完全にアルスに対する蔑みを隠さなかった。
見慣れた視線にむしろ落ち着いてしまうなとアルスはこっそり自嘲した。ルジェのような反応の方がおかしいのだ。目が悪いのかもしれないと真剣に心配になった。
「彼はそのような真似はいたしませんわ。手紙にも書きましたけれど、彼は平民とはいえ大陸内どころか隣の大陸にまで渡って多くの知識を持っていますの。そんな貴重な人材を手元に置こうと思うことは当然ではなくて? しかもわたくしの護衛まで勤めることができるわ」
「王族の護衛は高級騎士の勤めでございます。知識ならば教師から得ればよろしい」
「先生方が博識である事は自明の理ですけれど、ご自分で見聞きされた事ではないでしょう。わたくしは真っ当な話し相手が欲しいのです」
「お話し相手でしたら貴族の姫君方がいらっしゃるでしょう」
「ロシュフォール卿。貴方分かって言っていらっしゃるでしょう? わたくしはお姫様らしい話がしたいわけじゃなくてよ」
どちらも一歩も引かない。だが、焦ってムキにならされているルジェの方がかなり分が悪かった。
アルスは考えた。去っていくのと引き換えに戻ってくる今までの日常と、居座って得られるかもしれない安寧の可能性を天秤にかける。今ここで去ればルジェは何事もなく城に入り、アルスはいつものように小さな出会いの思い出を胸に日常を送るだけだ。だが、ルジェと交わした契約はアルスにとって、これまでの人生を精算できる抗いがたいほど魅力的なものだった。
そして何故かルジェが言い放った言葉が胸にちらついた。
―――いいえ、私は貴女と契約するわ。アルシェルエ―――
艶然と笑みを浮かべていたが、どこか縋るような瞳がアルスを引き留めた。
上手くいかなくてここで殺されそうになったらどう逃げようと思いをめぐらしながらも、手札を出すことに決めた。
相対する二人の間に、老齢のロシュフォールよりもしわがれた声が響く。
「ロシュフォール卿、私の身元に確かな保証があれば良いのでしょう?」
ロシュフォールもその声にさすがに驚いたようだったが、そこは老練というべきかぴくりと眉を動かしただけで鼻で笑うように言った。
「どこぞの馬の骨を引っ張り出したところで無駄なことはお分かりだろうな」
「ブレンドレル辺境伯と言えばお分かりいただけるでしょう」
さすがにこの発言にはロシュフォールだけでなくルジェも驚きを隠せなかった。
「ア、アルス? 一体何を言っているの・・?」
いきなり隣国の貴族の名が出て動転したのか、小声でルジェがアルスを問いただした。
ブレンドレル辺境伯とはガレスディエリエルの隣国ランゼール王国の大貴族だ。ルジェの母ドレイユはランゼール現国王の従姉にあたる。ドレイユが嫁いできて以来永く国交は落ち着いているが、ランゼールは大陸の中でもガレスディエリエルと一、二を争う大国で、熾烈な戦をした歴史も残っている因縁浅からぬ国だ。南は峻岳、北は海に囲まれて陸の孤島と呼ばれるランゼールにおいて、唯一平地でガレスディエリエルと国境を接しているのがブレンドレル領。内陸と繋がる要地であるブレンドレル領を治めているのが前ランゼール王国宰相でもあったブレンドレル辺境伯エーヴェルト・ラジェロなのだ。
その男と繋がりがあるというのは尋常なことではなかった。
「一介の若造がブレンドレル辺境伯といったいどんな繋がりがあるというのだ?」
ロシュフォールは動揺を通り越して訝しんだ。これが嘘やハッタリであれば大きな偽証罪を問われるが、ハッタリと断定するにはあまりに大逸れすぎていた。顔も素性も知れない男はますます不可解な存在となり、ロシュフォールは眼光の鋭さを強めたが、当のアルスはどこ吹く風といったように言葉を止めなかった。
「どういう関係があったのかというご質問には、辺境伯の許しがなければ申し上げられない。書簡には、声は枯れ、顔が爛れ、泥色の髪と金の瞳を持つ瘻傴のアルスを知らないかとでも書けばそれで分かるでしょう」
「・・・お前は金目だったかな?」
「引き攣れてしっかりとは開かない目だから仕方ありませんが、良く見ていただけば金と分かるはず。そして、書簡に一言書いておいていただきたい。シャルヴィ=アジスは死んだと」
ロシュフォールは怪訝な顔をした。
「私の父です」
「父親は貴族か?」
「父の昔のことはよく知りません。恐らくそうだったのかもしれませんが聞いてはいません」
ロシュフォールとアルスはお互い見合ったまま睨み合いが続いた。アルスは化粧のため半目だったが。折れたのはロシュフォールだった。
「分かりました。ランゼールに使者を出します。行って帰るまでに2週間はかかりますからな、その間は、部屋を用意させましょう」
ロシュフォールは部屋を出ていき、二人だけが残された。小さな勝利の後にも関わらず、ルジェは予想外の展開に茫然とし、アルスは疲れ果てたというようにぐったりとしていた。
「喜ぶのはいいけど、もしかしたら2週間後にはお別れかもしれない」
呻くようにアルスはごめんと囁いたのでルジェは説明を促した。
「今なら誰にも聞かれないから大丈夫よ」
「・・・・・実際に貸しがあるのはエーヴェルトのクソジジイじゃなくてランゼールの王なんだ」
今まで以上に信じられない話だが、ルジェは驚かなかった。民にとって雲の上の存在という意味では辺境伯も王も大して変わらないような気がする。
「でも王に頼むとなると公けになる率も高くなるし、手紙なんか出したらあそこの夫婦関係が揺らぐから。まあ、クソジジイにも貸しがないわけじゃないが、向こうは借りたとも思ってないと思う。でも私が王の弱味を握ってることは知ってるし、忠誠心の塊みたいな男だからクソジジイの名前を・・・くそっ」
アルスは言い訳をするかの如くぶつぶつと言葉を吐き出した。今の外見が外見だけに、縮こまってぼそぼそ物を言ってイジケている姿にはちょっと抵抗を感じるが、見ているうちに哀れになってきたのでルジェはそっと声をかけた。
「何があったか聞いてもいい?」
しばらく間があったが、アルスは鼻を啜りながら「話したくない」と答えた。余程のことがあったのだろうがランゼール王まで巻き込んだアルスの負の過去について深く考えることに漠然とした不快感を覚えたのでルジェはそれ以上の詮索をやめた。
「宰相なんて人種はみんな同じようなもんだ。みんな敵だ・・・。あのジジイとは縁を切ったはずだったのに肝心なところで出張ってくるんだ。あいつの笑い顔が目に浮かぶ」
怒りか恐怖かぷるぷると身を震わせるアルスを見ているうちにルジェは手を伸ばして震える手を握っていた。驚いたアルスは最初のうちは戸惑った様子を見せていたが、二人の体温が馴染んだ頃にはしっかりと手を握り締め合っていた。
その体温は、それぞれ美しい皮の下に秘めた冷たい闇をお互いに溶かしていくことになる二人の関係を予兆するかのように温かだった。