第6話「夜風の迷いと温かなスープ」
行商人が王都の不穏な噂を残して去った日の夜。辺境の屋敷は、いつも以上に深い静寂に包まれていた。
ルシアナは寝間着の上から薄手のショールを羽織り、自分の部屋の窓辺に立っていた。窓ガラス越しに広がる真っ暗な畑は、昼間の活気を隠してひっそりと息を潜めている。夜風が通り抜けるたびに、葉が擦れ合う微かな音が聞こえてきた。
『お父様やお母様は、今頃どうしているのかしら』
ルシアナは窓枠にそっと手をつき、小さくため息をついた。
王太子から婚約破棄を言い渡された時、彼女は未練など少しもなかった。前世の記憶が蘇ったことで、堅苦しい貴族の生活よりも、土に触れる自由な暮らしを何よりも求めていたからだ。この荒れ果てた辺境の地で、自分の知識を頼りにゼロから畑を作り上げる毎日は、間違いなく彼女にとっての宝物だった。
しかし、自分が自由を満喫している裏で、実家の侯爵家が理不尽な冷遇を受けていると知れば、心は穏やかではいられない。領民たちもまた、重い税や流通の停止によって飢えの危機に瀕しているのだろう。
「私は、逃げてきただけなのかもしれない」
誰に聞かせるわけでもなく、ルシアナはぽつりとつぶやく。
自分が愛する土と野菜に囲まれて満たされていれば、それでいいと思っていた。けれど、自分が育てた野菜が王都の飢えを救えるかもしれないと知ってしまった今、このまま知らん顔で辺境に引きこもっているのは正しいことなのだろうか。
コン、コン。
不意に、部屋のドアを叩く控えめな音が響いた。
「ルシアナ、起きているか。少し、いいだろうか」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、アルトの低く落ち着いた声だった。
「ええ、起きています。開いていますよ」
ルシアナが振り返ると、ゆっくりとドアが開き、私服姿のアルトが部屋に入ってきた。彼の手には、湯気を立てる木製のボウルが乗ったお盆が握られている。
「夕食の時、君はほとんど手をつけていなかっただろう。顔色も悪かったし、無理にでも何か腹に入れたほうがいいと思って、スープを温め直してきたんだ」
アルトは少し照れくさそうに視線をそらしながら、部屋の小さなテーブルにお盆を置いた。
ボウルの中には、昼間に二人で収穫したばかりの玉ねぎや人参、それに大きなジャガイモがたっぷりと入ったスープが注がれていた。野菜の甘い香りが湯気とともにふわりと立ち上り、ルシアナの冷えていた心を少しだけほどいていく。
「ありがとうございます、アルトさん。わざわざ、ごめんなさい」
「謝る必要はない。君には、俺が倒れていた時に助けてもらった恩がある。それに……俺だって、君の作る野菜に救われたんだ」
アルトは真っすぐな群青色の瞳で、ルシアナを見つめた。
彼が初めてこの屋敷に来た時、食べ物を口にすることすら恐怖で震えていた姿をルシアナはよく覚えている。それが今では、自分から厨房に立ち、誰かのために食事を用意できるまでになったのだ。
ルシアナはテーブルの前の椅子に腰掛け、木のスプーンでスープをすくって口に運んだ。
じっくりと煮込まれた玉ねぎの甘みが、とろけるように舌の上に広がる。ジャガイモのホクホクとした食感と、人参の優しい味わいが、冷えた胃の奥にじんわりと染み渡っていった。少しだけ塩味が強いのは、彼が慣れない手つきで味付けをしてくれた証拠だ。
「……美味しいです。すごく、温まります」
ルシアナの目から、不意にぽろりと涙がこぼれ落ちた。自分でも驚くほど自然に溢れ出た涙だった。
アルトは驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を和らげ、ルシアナの向かいの椅子に静かに腰を下ろした。
「行商人から聞いた話のせいだな。王都の食糧事情と、君の実家のこと」
アルトの静かな問いかけに、ルシアナはスプーンを置き、小さく頷いた。
「ええ。私がここで楽しく農業をしている間に、お父様たちは王太子の嫌がらせで苦しんでいるんです。私はどうすればいいのか、わからなくて」
ルシアナは両手で顔を覆い、震える声を絞り出した。王都へ戻るべきか。しかし、戻ったところで王太子の支配下に置かれるだけで、根本的な解決にはならない。
アルトはそっと手を伸ばし、テーブルの上で固く握りしめられていたルシアナの手を、自分の大きな手で包み込んだ。
「君は、逃げたわけじゃない。この荒れ地を、自分の手でこれほど豊かな畑に変えたんだ。それは誰にでもできることじゃない。君の強さの証明だ」
アルトの指先は、毎日クワを握ってできたマメで少しごつごつしていた。その温もりと土の匂いが、ルシアナの心を不思議と落ち着かせていく。
「王都が食糧難で苦しんでいるなら、この辺境から食糧を供給できる仕組みを作ればいい。王太子の言いなりになるのではなく、君自身が力を持てばいいんだ。俺も手伝う。君が守りたいものを、一緒に守らせてくれ」
アルトの言葉には、確かな重みと決意が込められていた。彼の真っすぐな視線を受け止め、ルシアナの胸の奥底で、くすぶっていた迷いがすうっと消え去っていくのを感じた。
『そうだわ。私には前世の知識がある。そして、隣には彼がいてくれる』
ルシアナは顔を上げ、涙を指で拭ってから、しっかりと頷いた。
「わかりました。私は、この辺境をただの隠れ家にはしません。国中を支えられるような、豊かな農業特区にしてみせます」
その力強い宣言に、アルトは満足そうに微笑んだ。夜風はいつの間にか心地よい涼しさに変わり、二人の間には確かな絆が結ばれ始めていた。




