第3話「泥だらけの居候と土の匂い」
行き倒れていた青年アルトを屋敷に運び込んだルシアナは、古びた客室のベッドに彼を寝かせた。
辺境に追放されてからというもの、彼女はほとんどの時間を畑で過ごしていたため、屋敷の中は最低限の掃除しかしていなかった。それでも、シーツだけはよく晴れた日に太陽の光をたっぷりと当てて干してある。お日様の匂いが染み込んだ清潔な布に包まれ、アルトは泥のように眠り続けていた。
ルシアナはベッドの脇に丸椅子を引き寄せ、彼の寝顔をじっと見つめた。
『それにしても、本当に綺麗な顔立ちをしているわ』
泥を丁寧に拭き取ってやると、透き通るような白い肌と、長いまつ毛が露わになった。深い群青色の髪は柔らかく、どこか高貴な雰囲気を漂わせている。ボロボロの外套の下に着ていた服も、布地は最高級の絹だった。間違いなく、ただの旅人ではない。
しかし、彼女にとって彼の身分などどうでもいいことだった。重要なのは、彼が自分が育てた自慢のトマトを美味しいと言って食べてくれたことだ。その一言だけで、心は温かな喜びに満たされていた。
窓の外から、初夏の生ぬるい風が吹き込んでくる。風に乗って、湿った土と青々とした葉の匂いが部屋の中に広がった。
ふと、ベッドの上のアルトが小さくうめき声を漏らした。長いまつ毛が震え、ゆっくりと群青色の瞳が開かれる。
彼はぼんやりと天井を見つめていたが、すぐに自分が知らない部屋にいることに気がつき、弾かれたように身を起こした。警戒心に満ちた鋭い視線が、部屋の隅々に向けられる。そして、ベッドの脇に座るルシアナを捉えると、びくっと肩を揺らした。
「おはようございます。気分はどうですか」
ルシアナは立ち上がり、努めて穏やかな声で言う。
「……ここは」
かすれた声で、アルトが尋ねた。
「私の屋敷です。あなたは私の畑の前で倒れていたんですよ。覚えていますか」
アルトは少し顔をしかめ、記憶を探るように目を伏せた。やがて、手の中にあった赤いトマトの感触と、口いっぱいに広がった甘酸っぱい果汁の味を思い出したのか、ほうっと小さく息を吐いた。
「ああ……君が、助けてくれたのか。感謝する」
アルトは少しだけ警戒を解き、姿勢を正して頭を下げた。
『きちんとした礼儀作法が身についているのね』
ルシアナは内心で感心しながら、部屋の隅にある小さな木のテーブルから水差しを取った。コップに新鮮な井戸水を注ぎ、彼に差し出す。
「無理に起き上がらなくても大丈夫ですよ。まだ熱があるみたいですし、ゆっくり休んでください」
アルトは両手でコップを受け取り、ゆっくりと水を飲んだ。喉仏が上下に動き、冷たい水が体を巡っていくのがわかる。
「私はルシアナと言います。訳あって、この辺境で一人で農業をしています。あなたの名前は、聞いてもいいですか」
「……アルトだ。ただの、あてのない旅をしている」
アルトは少し言葉を濁しながら言う。彼が何かを隠しているのは明らかだったが、ルシアナは深く追求するつもりはなかった。誰にでも、言いたくない過去の一つや二つはあるものだ。彼女自身、王太子から婚約破棄されて追放された身なのだから。
「アルトさんですね。お腹は空いていませんか。温かいスープなら、喉を通るかもしれないと思って用意してあるんです」
ルシアナがそう提案すると、アルトの顔に再びかすかな恐怖の色が浮かんだ。彼の脳裏に、毒を盛られた時の激しい痛みと吐き気がよみがえったのだ。
「いや……食事は、いい。俺は、食べ物を口にするのが怖いんだ」
アルトは震える声でつぶやくように言う。
ルシアナは彼をじっと見つめた。無理に食べさせることはできない。しかし、このままでは本当に餓死してしまう。彼女は少し考え込んだ後、にっこりと微笑んだ。
「わかりました。無理はしないでください。でも、私の畑の野菜は、本当に特別なんですよ。毒なんて一切入っていません。太陽と土の力だけで育った、命の塊ですから」
その言葉に、アルトは驚いたように顔を上げた。ルシアナの真っすぐな瞳には、何の裏表もない純粋な自信だけが光っていた。
「体力が戻るまで、ここにいていいですよ。その代わり、元気になったら畑仕事を手伝ってもらいますからね。人手が足りなくて困っていたんです」
唐突な提案に、アルトは目を丸くした。普通なら、見ず知らずの行き倒れを家に置くなどあり得ないことだ。しかし、ルシアナの屈託のない笑顔を見ていると、なぜか断る気になれなかった。
「……わかった。恩返しは、必ずする」
アルトが静かに頷くと、ルシアナは嬉しそうに手を叩いた。
「決まりですね。では、私は畑に戻ります。クワが私を待っていますから」
ルシアナは足取りも軽く部屋を出ていった。残されたアルトは、窓から見える青々とした畑をぼんやりと見つめながら、久しぶりに心が静寂に包まれるのを感じていた。




