第2話「倒れていた青年と真っ赤なトマト」
辺境の地に追放されてから、三ヶ月の月日が流れていた。
季節は初夏を迎え、日差しは日ごとに強さを増している。ルシアナが毎日泥だらけになって耕し続けた荒れ地は、今や見違えるような豊かな畑へと姿を変えていた。
ふかふかに黒く肥えた土の上には、真っすぐに伸びた緑の葉が風に揺れている。彼女が前世の知識を総動員して作った腐葉土と、適切な水分管理のおかげで、野菜たちは驚くほどの早さで成長していた。
その日の朝、ルシアナはいつものように朝日が昇るのと同時に畑へ出た。
お目当ては、一番日当たりの良い場所で育てている特別なトマトだ。前世で幻の品種と呼ばれていたものに似た種を、屋敷の古い貯蔵庫で見つけて大切に育ててきたのだ。
青々とした独特の匂いを放つ葉をそっとかき分けると、そこには大粒の赤い実がいくつもぶら下がっていた。太陽の光をたっぷりと吸い込み、今にも皮がはちきれそうなほど丸々と太っている。
「美味しそう……」
ルシアナはつぶやきながら、朝露に濡れたトマトを丁寧に一つもぎ取った。手に伝わるずっしりとした重みと、みずみずしい感触に顔がほころぶ。
その時だった。畑の端のほうにある大きな樫の木の根元に、黒い塊のようなものが倒れているのが目に入った。
『大きな動物かしら』
ルシアナはカマを握り直し、足音を忍ばせて近づいていった。しかし、そこに倒れていたのは動物ではなく、ボロボロの外套を羽織った人間の青年だった。
黒い髪は泥にまみれ、顔は青白く透き通っている。呼吸は浅く、長いまつ毛がかすかに震えていた。着ている服は汚れているが、生地の滑らかさや縫製の細かさから、身分のある人物だということがわかる。
「もしもし、大丈夫ですか」
ルシアナはカマを地面に置き、青年の肩をそっと揺さぶった。
青年はうめき声を漏らし、ゆっくりと重い目を開けた。彼の瞳は深い夜空のような群青色で、熱を帯びて潤んでいる。ルシアナの顔を見ると、彼はびくっと体をこわばらせ、警戒するように身を引こうとした。しかし、力が入らないのか、そのまま地面に崩れ落ちてしまう。
「動かないで。かなり衰弱しているみたいですね。少し待っていてください」
ルシアナは急いで水差しを取りに行き、青年の口元に木のコップを当てた。彼は震える手でコップをつかみ、やっとのことで水を喉に流し込む。
少し落ち着いたのを確認してから、彼女は先ほど収穫したばかりの真っ赤なトマトを青年の前に差し出した。
「お腹が空いているんでしょう。これ、さっきもぎたてのトマトです。食べてみてください」
その言葉を聞いた瞬間、青年の顔がさらに青ざめた。彼は恐怖に怯えるように首を横に振り、顔をしかめる。
「……いらない。食べられないんだ」
かすれた声が漏れた。
青年の名前はアルト。彼は隣国の王子だったが、激しい政争の末に毒を盛られ、間一髪で逃げ延びてきたのだ。毒の激しい苦しみと、信じていた者たちに裏切られた記憶がトラウマとなり、彼は食べ物を口に運ぶことすら恐ろしくなっていた。口にしようとするだけで喉が拒絶し、吐き気がこみ上げてくるのだ。
『何か深い事情があるみたいね。でも、このままじゃ倒れてしまう』
ルシアナは無理強いはせず、トマトをアルトの手のひらにそっと乗せた。
「食べなくてもいいです。ただ、持っていてください」
アルトはかじかんだような冷たい指先で、丸い果実を不器用に包み込んだ。
その瞬間、彼の鼻先に、土の力強さと太陽の温かさを凝縮したような、甘酸っぱくも青々しい香りが届いた。それは、王宮の厨房で作られる複雑なソースの匂いでも、毒が仕込まれた豪華な料理の匂いでもない。ただの、自然の匂いだった。
アルトの胃が、きゅるりと小さく鳴った。恐怖で麻痺していた体が、純粋な命の香りに反応したのだ。
ルシアナは少し離れた場所に座り、別のトマトを自分の口に運んだ。
ぷちっと音を立てて皮が弾け、じゅわっとあふれた果汁を美味しそうに飲み込む。
「んん、甘い。土づくりから頑張った甲斐があったわ」
その幸せそうなルシアナの横顔を見て、アルトはなぜか心がほどけていくのを感じた。
彼は手の中のトマトを見つめ、ゆっくりと、本当にゆっくりと口元へ運んだ。目をきつく閉じ、震える唇で赤い皮にそっと歯を立てる。
次の瞬間、口いっぱいに弾けたのは、目を見張るような甘みと、それを引き立てる爽やかな酸味だった。冷たい果汁が乾ききった喉を潤し、じんわりと胃の奥へと染み渡っていく。
吐き気は起きなかった。それどころか、体がもっと欲しいと求めている。
「……美味しい」
アルトの口から、無意識のうちにその言葉がこぼれ落ちた。
ルシアナは満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「でしょう。うちの畑の野菜は、世界一美味しいんですよ」
吹き抜ける初夏の風が、青々とした畑の葉を揺らす。アルトはもう一口、大きくトマトにかぶりつきながら、目の前で笑う不思議な少女から目が離せなくなっていた。




