第1話「婚約破棄と追放は農業特区への切符」
登場人物紹介
◆ルシアナ
侯爵令嬢でありながら、前世は農学部の大学生だった記憶を持つ少女。王太子から婚約破棄されて辺境に追放されるが、大好きな土いじりができると内心大喜びしている。前世の知識を生かした農業チートで、荒れ果てた領地を豊かな大地へと変えていく。
◆アルト
隣国の王子。政争に巻き込まれて毒を盛られた過去があり、そのトラウマから極度の食事恐怖症に陥っている。行き倒れていたところをルシアナに助けられ、彼女の作る野菜の美味しさと温かな人柄に惹かれていく。
豪華なシャンデリアが眩い光を放つ王城の大広間は、冷たい静寂に包まれていた。足元の磨き上げられた大理石に、貴族たちの着飾った姿がぼんやりと反射している。
「ルシアナ。君のような悪逆非道な女を、次期王妃として迎えるわけにはいかない。今日この場をもって、君との婚約を破棄する」
王太子の鋭い声が、広間に響き渡った。周囲を取り囲む貴族たちは、顔をしかめてこちらに冷ややかな視線を送っている。彼らの目には、哀れな悪役令嬢として映っているのだろう。
しかし、当のルシアナの胸の内は、周囲の予想とはまったく違う感情で満たされていた。
『やった。これでやっと、土が触れる』
彼女は数日前に高熱を出して倒れた際、前世の記憶を思い出したばかりだった。
前世の彼女は、日本の大学で農学部に通う平凡な学生だった。毎日泥だらけになりながら畑を耕し、新しい品種の野菜を育てることに情熱を注いでいた。過労と事故が重なって命を落としたが、今でも土の匂いや、太陽の光を浴びて輝く野菜たちの美しさを鮮明に覚えている。
侯爵令嬢として生まれ変わってからは、ドレスを汚さないように、日焼けをしないようにと厳しく育てられてきた。美しい庭園の土に触れることさえ許されない生活は、彼女にとって息の詰まるような毎日だったのだ。
「聞いてるのか、ルシアナ。君には我が国の一番端にある、名もなき辺境の土地へ追放を命じる。そこで一生、自分の罪を悔いるがいい」
「はい。謹んでお受けいたしますわ」
ルシアナは静かに姿勢を正し、深く頭を下げた。一切の反論もせず、あまりにもあっさりと引き下がった彼女の態度に、王太子は拍子抜けしたように目を丸くしている。
罪を悔いるどころか、ルシアナの足取りは驚くほど軽かった。
広間を後にして馬車に乗り込むと、彼女は窓の外に広がる景色を食い入るように見つめた。整備された王都の石畳が途切れ、土の道へと変わり、やがて木々が生い茂る森を抜けていく。数日間の馬車の旅の末にたどり着いたのは、王太子が言う通りの荒れ果てた辺境の地だった。
見渡す限りの荒野。枯れ草が風に揺れ、石がゴロゴロと転がっている乾燥した大地。屋敷と呼ぶにはあまりにも古びた木造の建物がポツンと建っているだけだ。
同行してきた護衛の騎士たちは、同情するような目を向けて早々に王都へと引き返していった。
残されたルシアナは、誰もいなくなったのを確認すると、窮屈なコルセットを緩め、豪華なドレスの裾を思い切りたくし上げた。
「素晴らしいわ。ここなら、誰も私の邪魔をしない」
彼女は屋敷の裏手にある薄暗い納屋に入り、埃をかぶった農具を探し出した。錆びついたクワ、使い込まれたスキ、刃の欠けたカマ。どれも手入れが必要だが、彼女にとっては宝石よりも輝いて見えた。
ルシアナはすぐさまカマを手に取り、荒れ地の枯れ草を刈り始めた。ザクッ、ザクッと草を切る音が、静かな大地に響く。
次にクワを振り上げ、硬く締まった土に打ち下ろした。鈍い衝撃が両腕に伝わり、手のひらがじんわりと熱をもつ。ひび割れた土がひっくり返り、長い間日の光を浴びていなかった土の塊が顔を出した。
ルシアナは膝をつき、掘り返したばかりの土を両手ですくい上げた。鼻を近づけると、少し湿り気を帯びた独特の土の匂いが胸いっぱいに広がる。
『ああ、いい匂い。少し痩せている土だけど、手を入れれば絶対に良い畑になる』
前世の知識が、彼女の頭の中で次々とアイデアを生み出していく。まずは落ち葉や枯れ草を集めて腐葉土を作り、土壌を改良しなければならない。水路を引き、太陽の光が均等に当たるように畝を作る。やるべきことは山のようにあるが、疲れを感じるどころか、体の底から力が湧き上がってくるようだった。
日が沈み、空がオレンジ色から深い青へと変わる頃には、ルシアナの手は泥だらけになり、額には大粒の汗が光っていた。
冷たい風が吹き抜けても、彼女の心はこれまでにないほどの温かさと充実感で満たされていた。ここは彼女にとっての牢獄ではなく、夢にまで見た自由な農園への入り口だったのだ。




