言わなかった言葉
卒業が近づくと、
教室の空気は少しずつ変わっていった。
机の中が軽くなり、
黒板の文字よりも、
進路の話題が増えた。
先生たちは「これから」を語り、
僕たちは「もうすぐ終わること」を、
どこか他人事のように聞いていた。
彼女は、
相変わらず僕の右隣にいた。
ただ、
その事実が、
以前よりも重く感じられるようになっていた。
卒業式が近いというだけで、
同じ配置が、
期限付きのものになる。
それに気づいた瞬間から、
僕は無意識のうちに、
彼女の存在を数え始めていた。
あと何日、
この席で彼女の横顔を見ることができるのか。
彼女は進学するらしかった。
どこの大学かは、
はっきりとは知らない。
噂話の断片として、
遠くの地名だけが耳に残った。
僕はどうするのか。
誰かに聞かれれば、
一応の答えは持っていた。
就職か、浪人か、
まだ決めきれていない――
そんな曖昧な返事で、
会話を終わらせていた。
彼女と、
その話をすることはなかった。
三月に入ると、
教室の後ろに、
寄せ書き用の色紙が置かれた。
クラス全員で回し、
一言ずつ書いていく、
ありふれた行事だった。
彼女は色紙を受け取ると、
少し考え、
端の方に、
短い言葉を書いた。
何を書いたのかは、
見えなかった。
けれど、
ペンを置いたときの彼女の表情だけは、
妙に記憶に残っている。
静かで、
どこか区切りをつけたような顔だった。
色紙が僕のところに回ってきたとき、
僕はペンを持ったまま、
しばらく動けなかった。
名前を書く。
当たり障りのない一文を書く。
それだけでいいはずなのに、
手が、ひどく重く感じられた。
彼女の名前を書く欄は、
もうすぐそこにあった。
「元気で」
「頑張って」
そんな言葉が、
いくつも並んでいる。
どれも正しく、
どれも、僕の気持ちとは少し違っていた。
僕は結局、
無難な一文を書いた。
文字を書き終えた瞬間、
胸の奥で、
何かが静かに終わった気がした。
卒業式当日、
彼女は少し早めに教室に来ていた。
制服の胸元に、
小さな花をつけていた。
それが、
なぜかやけに眩しく見えた。
式が終わり、
教室に戻ると、
写真を撮る声、
笑い声、
泣き声が入り混じった。
彼女は友人たちに囲まれ、
忙しそうにしていた。
僕は少し離れた場所から、
その様子を見ていた。
声をかけようと思えば、
かけられたはずだ。
今なら、
「おめでとう」
その一言くらいは、
自然に言えただろう。
けれど、
僕は動かなかった。
もしここで、
言葉を交わせば、
この三年間に、
名前を与えてしまう気がした。
僕たちの関係に、
はっきりした意味を、
与えてしまう気がした。
そして僕は、
それを恐れていた。
校門の前で、
彼女を見かけた。
少し遠く、
家族と並んで立っていた。
彼女は、
振り返らなかった。
それでよかったのだと、
そのときは思った。
彼女の人生は、
これから始まる。
僕の感情など、
そこに混ざる理由はない。
そうやって、
自分に言い聞かせながら、
僕はその場を離れた。
三十年後、
思い返すことになるとは、
そのときの僕は知らなかった。
告白しなかったことよりも、
「何も言わなかった自分」を、
あれほどまでに、
繰り返し思い出すことになるとは。
沈黙は、
選ばなかった結果ではない。
あれは、
僕が選んだ、
最初の選択だった。




