同桌
高校二年生の春、
彼女は僕の右隣の席に座った。
それだけのことだった。
担任が名簿を見ながら淡々と席替えを告げ、
僕は椅子を引き、机をずらし、
新しい配置に身体を慣らしていた。
その途中で、視界の端に、
誰かの影が静かに落ちた。
振り向くと、彼女がいた。
特別に美しいわけではなかった。
少なくとも、当時の僕はそう思っていた。
派手な笑顔もなく、
クラスの中心にいるタイプでもない。
制服の着方も、ごく普通だった。
ただ、
彼女はいつも、まっすぐ前を見ていた。
黒板を見る目、
ノートにペンを走らせる横顔、
先生の声を聞くときの、
わずかな首の傾き。
そのすべてが、
理由もなく、僕の注意を引いた。
僕は彼女の名前を知っていた。
名簿を見れば、すぐに分かる程度の、
クラスメイトとしての情報だけは持っていた。
けれど、それ以上のことは何も知らなかった。
昼休み、
彼女は友人たちと弁当を食べ、
僕は僕で、別の輪の中にいた。
放課後、
彼女は部活に行き、
僕は寄り道もせず帰宅した。
交わした言葉は、
一年を通しても、驚くほど少なかった。
「ノート、ここまで進んだ?」
「消しゴム、落としたよ」
それだけだった。
それなのに、
僕は毎日、彼女が席にいるかどうかを、
無意識に確認していた。
朝、教室に入った瞬間、
右隣の机が空いていると、
胸の奥が、ほんのわずかに落ち着かなくなった。
彼女が少し遅れて入ってくると、
理由もなく安心した。
その感情に、
名前をつけることはなかった。
恋だとは、思っていなかった。
高校生の恋というものは、
もっと騒がしく、
もっと分かりやすいものだと思っていたからだ。
僕が感じていたのは、
たぶん、習慣に近かった。
隣に彼女がいるという配置が、
僕の日常の一部になっていただけ。
それが、
ただ少し、心地よかった。
彼女はよく、
シャープペンの芯を折った。
そのたびに、小さく眉をひそめる。
音を立てず、
誰にも気づかれないように。
僕はそれを見るたび、
なぜか、胸の奥がざわついた。
ある日、
彼女が消しゴムを落とした。
机の下で止まり、
僕の足元に転がってきた。
僕はそれを拾い、
何も考えず、彼女に差し出した。
「ありがとう」
短い一言。
それだけで十分だった。
彼女の声は、
思っていたより低く、
落ち着いていた。
その声が耳に残り、
しばらく消えなかった。
その日の帰り道、
僕は理由もなく、
何度もその声を思い出していた。
告白しようとは、思わなかった。
一度も。
もし想いを伝えれば、
何かが変わってしまう気がしていた。
そして僕は、
変わらない日々を、
どこかで強く望んでいた。
彼女が隣に座り、
同じ授業を受け、
同じ時間を過ごす。
それだけで、
十分だと思っていた。
卒業まで、
その席は変わらなかった。
彼女は何も知らず、
僕も何も言わず、
時間だけが、静かに積み重なっていった。
そのときの僕は、
まだ知らなかった。
この「何も起こらなかった一年」が、
この先の人生を、
三十年にわたって縛り続けることを。
そして、
沈黙という選択が、
どれほど重いものになるのかを。




