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第一部・第八章 四騎士

影霊の群れが、一斉に動いた。


砂の上を滑る影は足音を持たないのに、近づく“圧”だけが耳の奥を押してくる。

輪郭が揺れ、細い腕が伸び、数が増える。増え方が、生き物のそれじゃない。


シルアは息を吸って――吐いた。


風が走る。

砂が削れ、影霊の先頭が薄くなる。散る。散っても、すぐ後ろから次がくる。


「……減らない」


自分の声が乾いていた。

吐くたびに、胸の内側が紙やすりで擦られるようだ。


正面ではレインも複数の影霊を相手にしている。

空気がたわみ、次の瞬間には鋼の細線が何本も走る。何本もの針が刺さると影霊は裂ける。けれど裂けた黒が砂へ落ちる前に、別の影が立ち上がる。


レインの能力は対人では強い。それはこれまで観てきた。

だからこそ分かる。――その力は影霊相手には分が悪い。


観客席が崩れた。

悲鳴が連鎖し、椅子が倒れ、屋台の火が揺れる。甘い煙に焦げた匂いが混じる。


「ユズキ……!」


シルアの視線が控え通路へ走る。

そこにユズキがいた。人を押し出し、道を作ろうとしている。小さな身体が流れに押し潰されそうになっていた。


足元の影が、ぬるりと膨らむ。


影霊が、ユズキの背後で起き上がる。


「――っ」


シルアが走る。砂が重い。

間に合わない距離。


レインの針が飛ぶ。影霊の額に刺さり、影がほどける。

でも、それで終わらない。柱の影、倒れた椅子の影、逃げる人の足元。影がある限り、出てくる。


シルアは息を吸って、吐いた。


今度は“点”じゃない。

空気の層をまとめて押す。


風が通路の入口へ立ち上がり、影霊をまとめて押し返す。

黒がめくれ、散り、薄くなる。人に当たらないよう、わずかに角度をつける。無理に曲げたせいで、胸がきしむ。


――こんな器用なこと、できるはずじゃないのに。


それでも、止められない。

止めたら、誰かが傷ついてしまうかもしれないから。


△▼△▼△▼△


闘技場の中央――影がひとつ、深くなった。


黒が黒を呼び、渦になる。

輪郭が“人”から外れ、関節の位置がずれて、腕が伸びる。顔の場所に空洞が開き、光が吸われる。


「……大影霊」


誰かが呟く。

その声を合図みたいに、体感の温度が落ちた。砂の熱はあるのに、背中だけが冷たい。


大影霊が腕を振る。

影が刃になる。空間ごと裂くみたいに、黒い線が走る。


レインの針がまとまって飛ぶ。

刺さる。……のに、裂けない。影が“揺れて”、針を飲み込む。沼に落ちたみたいに消えていく。


レインの眉が、ほんの少しだけ動いた。


「……効きが悪い」


声が低い。

声の奥から焦りの輪郭が見える。


シルアは息を吸った。

吸うと痛い。吐くと、もっと痛い。


それでも吐く。


風を“広げる”。

闘技場全体の空気を押し、砂が一斉に舞った。短い砂嵐が立ち上がり、小型の影霊は千切れて飛ぶ。大影霊も、わずかに姿勢が崩れた。


その隙にレインが踏み込む。

針を使わずに剣で直接切り裂く。


でも大影霊はまだ散らない。厚い闇。底がない。


――足りない。


シルアの喉が、息を欲しがる。

吐くたび削れるのに、もっと吐けと身体が言う。


その瞬間、闘技場の上から別の空気が降りてきた。


△▼△▼△▼△


足音が、ひとつ。


大きくないのに、空気が勝手に整っていく音だった。

人が泣くのを止める前に、まず息を整える――そんなふうに。


「……ここが一番多いな」


低く、落ち着いた声。

貴賓席の階段を降りてくるのは、整った制服の男だった。派手さはない。けれど立ち姿に、“英雄”めいた佇まいがある。


観客のざわめきが変わる。

恐怖のざわめきじゃない。期待を含んだ、別のざわめき。


「四騎士だ……!」


続いて、柔らかな笑顔が見えた。

さっき砂の上でリトリーを治療してくれた人――キュラ・レ・リーズル。


さらにもう一人、巨体の男が階段を降りてくる。

口の周りに、何かを食べた跡みたいな赤い汚れがついている。


「肉まん……落とした……」


それが第一声だった。


ガリオ・デブオ。四騎士第四席。

食べ物の話題しかしない、屋台でリトリーが肉まんを頬張りながら言っていた気がする。聞いていた以上に“そのまま”だった。


男が、砂の上に降り立つ。

剣を抜く。刃は普通の長さのはずなのに、そこへ白い光がまとわりつく。


空気が圧され、影の冷気が一瞬だけ押し返される。


「アルガルド四騎士第二席、エクト・エクリス。――闘技場の外は片付けました。あとはここだけです。」


声は丁寧だった。

戦場の中央なのにどこか落ち着いている。


「ガリオが道を押し開けるわ。私は治療をしてまわるから、あなたは……うん、いつも通り派手にお願い」


「派手に、ですか。……彼には遠く及びませんが、善処します」


エクトの口元がわずかに緩む。

それから目が、影霊へ戻った。優しさが消え、まっすぐな“決断”だけが残る。


ガリオが大きく息を吸って、腹を叩いた。


「オデ、腹いっぱいじゃないと動けない……でも、今は動く……肉まんのため……」


誰も突っ込めない。


エクトが前へ出る。

剣の光が、膨らむ。


膨らんで、巨大になる。


刃の形を保ったまま、白い光が何倍もの長さへ伸びた。

――巨大な光剣。今まで見てきたどの力よりそれは強大だった。


「行きます」


エクトが一歩踏む。

次の瞬間、光剣が横薙ぎに振られた。


闘技場の端から端まで、白い弧が走る。

影霊の群れがその弧に触れた瞬間――一斉に散り、消えた。


黒が残らない。

砂に落ちる前に消える。


シルアは息を止めた。

前に見た“白い線”を思い出す。あれは――これと似ている。が、似ているだけで、同じとは言えない。でも、胸がざわつく。


レインも視線を動かした。

針を操る手は止めない。けれど、彼の反応が一拍だけ遅れたように見えた。


大影霊が、エクトへ腕を振る。

影の刃が落ちる。


エクトは避けない。

光剣を少し持ち上げるだけ。


影の刃が触れた場所から、黒が削れる。

削れて、消える。


「……切れるんだ」


レインが小さく言った。


エクトは一度だけ視線を横へやり、キュラに短く言う。


「キュラさん、怪我人の位置を」


「はいはい。シルアちゃんたちも下がっていいわよ」


ガリオが前へ出る。

影霊が群がる。黒い腕が何本も伸びる。


「うわ、冷たい……氷菓子みたい……でも氷菓子は甘い……これは甘くない……」


ガリオが腕を突き出す。

影の刃が当たる。――当たったはずなのに、弾かれた。


バン、と鈍い音。

影霊の方が後ろへ飛ぶ。壁にぶつかり、輪郭が崩れる。


ガリオの体が、しなる。

しなって、戻る。跳ね返す。殴っても斬っても“返す”――その理屈を、身体で見せつけてくる。


「オデ、壁になる……」


ガリオが腕を広げ、観客席への通路へ立つ。

影霊の群れがそこを越えようとするたび、弾かれて戻る。人の逃げ道が一本、太くなる。


恐怖が消えたわけじゃない。けれど、人々の心には安心が広がり始める。


△▼△▼△▼△


それでも、影霊は増えた。


影は、人がいる限りある。


観客席の内側――逃げる人の足元から、影霊が滲むように起き上がる。


「っ……内側から……!」


誰かが叫ぶ。


エクトが光剣を振るう。届かない距離。

キュラが走る。しかし間に合わない。


そして、ユズキの足元。


影が膨らむ。

黒が、ゆっくり立ち上がる。


ユズキが気づく。

気づいたのに、身体が動かない。怖いからじゃない。逃げる人を押し出していた手が、まだ“人”を掴んでいる。


影霊の腕が伸びる。

喉元へ。


「ユズキ!」


シルアが叫ぶ。

息を吐こうとして、胸が痛んで音にならない。


レインの針が飛ぶ。届く。――届くはずだった。

影霊が、まるで水面みたいに揺れ、針を“ずらす”。避けたというより、針の通り道そのものが歪んだ。


その歪みの一瞬が、致命になる。


影霊の指が、ユズキの襟元に触れ――


「だめ!」


別の声が割り込んだ。


リトリーだった。


△▼△▼△▼△


担架にいたはずのリトリーが、砂の縁をよろけながら走ってくる。

治ったはずの脇腹を押さえている。顔色が白い。息が浅い。


「ほんと……ほんとに、言うこと聞かないね、私」


笑おうとして、失敗している顔だった。

それでも彼女はユズキの前へ出る。


影霊の腕が、方向を変える。

人を狙う本能みたいに、近い方へ。


「リトリー、戻って!」


シルアの声が砂に落ちる。

風を出そうとして、胸が詰まる。痛い。吐けない。


リトリーは振り向かない。

小さく言う。


「見たくないの。目の前で、誰かが傷つくの」


影霊の腕が突き刺した――ように見えた。

血は出ない。代わりに、熱だけが持っていかれる。


リトリーの身体がびくりと跳ねる。

目が見開かれて、唇が震える。


「……っ、さむ……」


その声は、さっきガリオが言った“冷たい”と違う冷たさだった。

骨の内側まで届く、嫌な冷え。


キュラが遠くで名を呼ぶ。

エクトが一歩踏み出す。

ガリオが腕を伸ばす。間に合わない。


シルアは息を吸った。

吐こうとして、胸が裂けそうに痛い。


間に合わない。


影霊が腕を引く。

引いた瞬間、リトリーの身体から力が抜ける。


倒れる。


砂へ。


「……ごめん。ちょっと、眠い……」


目が閉じる。

意識が落ちる。


ユズキが、その場で固まった。

倒れたリトリーを見て、手が宙に浮いたまま、震える。


「……え、え……?」


声は出るのに、音が遠い。

世界が水の中みたいに歪む。


影霊が、また生まれる。

逃げる人の影。倒れたリトリーの影。ユズキの影。


数が、増える。


――今度こそ、触れられる。


ユズキの喉が動いた。

泣き声が出そうで、出ない。代わりに、歯が鳴る。


「……い、や……」


小さく、壊れそうな声。


「いやで、あります……!」


握った剣の柄が、きし、と鳴った。


ユズキが剣を抜く。


刃が――光った。


△▼△▼△▼△


最初は反射に見えた。

陽が当たっただけの白。


でも光は消えない。

刃の内側から溢れている。夜を裂くみたいに。


剣だけではない。ユズキの体を包み込むように光が広がる。


ユズキの肩の力が抜けた。

抜けたのに、姿勢が立つ。軸が真ん中に戻る。


息を吸う音が、やけに澄んで聞こえた。


影霊が腕を伸ばす。


ユズキが動く。


速い。

砂を蹴った音が遅れて聞こえる。


剣が閃く。

白い線が走り、影霊が裂け――裂ける前に、消えた。


シルアは息を止めた。

胸の痛みが、一瞬どこかへ飛ぶ。


レインの針が止まった。止まって、すぐ動いた。

止まった“間”だけが、驚きだと分かる。


エクトの視線が、初めてユズキへ向く。

彼の整った顔が、わずかにほどける。


「……あの力は?」


キュラが笑う。

笑いながら、目だけが真剣だ。


「勇気を力に変える剣……ってところかしら。今、ちゃんと心が“燃えてる”わ」


ガリオが影霊を弾き飛ばしながら、ぽつりと言う。


「光ってる……焼きたて……みたい……腹減る……」


ユズキは次の影霊へ踏み込む。

剣で消して、蹴って散らして、踏み込んでまた消す。


蹴りの風圧で砂が跳ぶ。

影霊の群れがよろける。よろけたところへ光が通る。


「リトリーは……僕が守るであります……!」


ユズキが大きく叫ぶ。


影霊が十体、同時に襲いかかる。


ユズキが跳んだ。


跳んだ高さが、ありえない。

闘技場の砂の上で、身体が一瞬宙に止まる。


回転する。光の円が描かれる。


円に触れた影霊が、一斉に消える。


観客席から、悲鳴とは違う声が上がった。

驚きの声。信じられない、という声。熱が戻る前の、息を呑む声。


シルアは、倒れたリトリーを見て、喉の奥を噛んだ。


「キュラさん、早く…!」


キュラが駆けつける。

砂を蹴る音が軽い。迷いがない。


「大丈夫よ、間に合うわ!」


レインが短く言う。


「……あの少年が」


ユズキが砂に着地する。

足が沈まない。身体が軽いまま、地面を掴んでいる。


ユズキは振り返り、こちらを見る。

瞳だけは、いつものユズキのままだった。怖がりで、礼儀正しくて、泣きそうで――でも今は泣かないと決めた目。


剣だけが、白く燃えている。


ユズキは握り直し、息を吸った。

吸った息に、光が混じるように見えた。


そして、影霊の群れへ向けて、まっすぐ言う。


「……来いであります」


そこにはシルアの知らないユズキの背中があった。

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