第一章・第七話 波乱
レインの試合が終わっても、歓声はしばらく途切れなかった。
闘技場の空気は熱でふくらみ、砂が踏まれるたび乾いた匂いが立つ。
シルアは外套の襟を指で押さえ、ゆっくり息を整えた。
心臓が速い。――自分の試合じゃないのに。
「……あれ、速すぎるであります」
隣でユズキが、まだ青い顔のまま言った。
シルアは小さくうなずく。うなずきながらも目は砂の上から離れない。
レイン――刃の代わりに、針みたいなものを幾本も生み出して操る。
戦い方が今までの常識から少し外れている。
「次、二回戦だね」
リトリーが手を叩いて、わざと明るく言った。
「ご飯のために、さくっと行こ。……ね?」
ね、と言われて、シルアはほんの少しだけ口角を動かした。
「さくっとは……無理そう」
「だよねえ。あのレインって人のを見たあとだと、なおさら」
リトリーは肩をすくめる。
その仕草は軽いのに、指先だけがわずかに硬い。
ユズキが小さく頭を下げた。
「ぼくも、さっきの借り……返せるように、応援するであります」
シルアはユズキの頭の上に手を置きかけて、やめた。
触れたら、余計に頼りたくなりそうだった。
「……ありがと」
結局、出たのはそれだけ。
△▼△▼△▼△
二回戦は勝ち残った者同士の真剣勝負の間合いだった。
初戦の“試し”が消え、最初から終わらせる気の動きが増える。
リトリーは先に出て、淡々と勝った。
相手の剣が振り下ろされる前に、空から小さな留め具を落とし、砂の上で踏ませて軸をずらす。
転びかけた相手が手をついた瞬間、剣を落とさせる。
最後は寸止めで喉元に刃を置き、相手が降参した。
「……うん、まあまあ」
戻ってきたリトリーは笑ったが、息が少し荒い。
「いや、まあまあじゃないね。足、震えちゃってる。」
「……私も」
シルアは短く言って、控え通路の冷たい石に指を当てた。
砂の熱と違う温度が、少しだけ落ち着かせる。
次はシルアの番だった。
相手は細い曲剣を持つ男。軽い足取りで、砂を蹴らずに滑るように動く。
開始の合図と同時に、男は左右に揺れて距離を詰めてくる。
刃は一本。なのに、動きが二つに見える。
シルアは剣を構えた。
腰の剣は“形だけ”だ。それでも手に馴染むふりをして持つ。
男の刃が伸びた。
シルアは半歩下がり、受けずに逸らす。
砂を踏む音が大きい。自分だけが重たいみたいだ。
次の一撃。今度は足を狙ってくる。
避ければ体勢が崩れる、嫌な角度。
シルアは息を吸い――吐いた。
吐いた息の先で、空気がほんの少しだけ動く。
男の踏み込みの直前、足元の砂が薄く流れた。
本当に、薄く。
滑った、と言い切れない程度。
それでも、その“言い切れない程度”が致命になる。
男の膝がわずかに沈み、刃の軌道が遅れる。
シルアはその遅れに合わせ、肩を入れて距離を潰した。
剣を振らない。刃を当てない。
柄で相手の手首を押し、曲剣を落とさせる。
男は歯を噛み、砂を睨んだ。
「……降参」
シルアはうなずいて剣を下ろす。
胸の内側が、紙やすりで削られたみたいに痛む。
ほんの少し風を出しただけなのに。
△▼△▼△▼△
準決勝の組み合わせが呼ばれ、歓声が跳ねた。
「さあさあさあァ! ここからが本番ッ! 刃は踊り、砂は歌い、優勝は一体誰の手に――!」
司会のジョー・ゼッツの声が、闘技場の上に張りつく。
観客のボルテージが上がる。
準決勝第一試合。
シルア対バルガス。
名前が呼ばれた瞬間、ユズキの体がびくりと跳ねた。
「……あの巨漢であります……」
シルアは答える代わりに、息を吐いた。
自分が初戦で当たっていれば、同じように潰されていたかもしれない。
「私が……仇を討ってあげる」
「ボコボコにしちゃえ〜!」
リトリーがユズキの後ろで言う。
「その...僕のことは気にしなくていいであります。でも……」
「でも?」
「勝って欲しいであります!」
ユズキが真剣な眼差しで見つめる。
「うん、任せて」
そう返事をしてシルアはその場を後にする。
△▼△▼△▼△
砂の上に出る。
バルガスの影が大きい。自分の倍以上の面積で陽を塞ぐ。
重い剣を肩に担ぎ、こちらを見下ろしてくる。
「また小さいのか」
バルガスが笑う。
「今度は潰しても文句言われねえか?」
「殺しは禁止」
シルアは短く返した。
自分でも驚くほど、声が冷たい。
開始の合図。
最初の一撃は真上から来た。
空気が割れる音。
剣が砂に叩きつけられ、砂が跳ね、熱が顔に当たる。
シルアは横へ避けた。
避けながら、バルガスの腕と腰を見る。
重さは必ず遅れを作る。遅れができれば、そこが穴になる。
バルガスは遅れを埋めるように、次の横薙ぎを続けてくる。
腕の力じゃない。体ごと振る。
逃げれば追われる。受ければ折れるかもしれない。
シルアは――受けた。
刃と刃が噛み合い、腕が沈む。
骨まで押し込まれる重さが来る。
怖い。
それでも足が止まらない。
止まれない、というより、止め方が分からない。
「……っ」
シルアは半歩、内側へ入った。
刃の根元へ近づく。
近づけば重さは増す。それでも、刃先よりは制御しやすい。
バルガスの口角が歪んだ。
「いい根性だ」
褒める声が、次の斬撃の合図みたいだった。
バルガスが剣を引き、また振り下ろす。
シルアは息を吸い――大きく吐く。
風が、今までとはまるで違う規模の風が巻き起こる。
「何…!?」
バルガスが大きくのけ反る。
刃が砂を抉る位置が、外れる。
バルガスの足元の砂が深く削れ、踏み込み足が沈んだ。
沈んだ瞬間、巨体の重心が前に流れる。
ほんの一瞬だけ、背中が晒される。
シルアはそこへ入った。
剣を振るんじゃない。肩で押す。
外套の布が擦れ、汗が冷たくなる。
バルガスの膝が砂に触れた。
それでも倒れない。
腕を振り回し、肘でこちらを払おうとする。
その肘が来る前に、シルアは離れた。
離れるとき、剣先だけを残す。
喉元――ぎりぎりで止める。
バルガスの喉が動いた。
観客席が、ようやく息を吐く。
「……降参、だ」
バルガスが絞り出すように言い、剣を下ろした。
「ちっ。……やるじゃねえか」
シルアはうなずいた。
勝ったのに、胸の奥は冷たい。
風を使った感覚が、内側の削れと一緒に残っている。
控えに戻ると、ユズキが勢いよく頭を下げた。
「か、かっこよかったであります……! ぼく、あんな……!」
シルアは視線を外しながら、手を伸ばした。
今度は、ユズキの頭に触れる。
「……見てたなら、それでいい」
かわいい。
リトリーが息を吐いて笑う。
「うん、勝ち方が……シルアっぽい」
シルアは手を引いて、視線を闘技場へ戻した。
「私のことより、次……リトリーでしょ。大丈夫?」
「相手がレインだしね。大丈夫、って言えたら格好いいんだけど」
リトリーは肩を回して、軽く笑う。
でも、その背中はどこか固かった。
「……やるよ。私なりに」
△▼△▼△▼△
準決勝第二試合。
リトリー対レイン。
レインが砂の上に立つと、空気がまた変わる。
歓声はあるのに、どこか遠慮が混じる。
触れたら切れるものを、祭りの中に混ぜたみたいだ。
リトリーは、いつもの軽さを纏おうとしていた。
でも歩幅が少し慎重だ。
それが逆に、彼女が本気だと分かる。
開始。
レインは動かない。
その代わりに、針が生まれる。
空気の中に細い揺れ――光じゃない。透明な何かがたわみ、次の瞬間には鋼の針になっている。
リトリーが笑った。
笑ったまま剣を構える。
「……やだなあ。痛そ〜」
レインは短く言った。
「死にはしないから安心しろ」
「死にはしないって言われても、痛いのは痛いでしょ?」
軽口のまま、リトリーは距離を測る。
レインの針が一本、飛んだ。
音がない。風圧だけが頬を撫でる。
リトリーは避ける。
避けながら、空へ手を伸ばした。
空から、小さな板を取り出す。
板は砂に突き刺さり、盾みたいに立つ。
針がその板に当たり、弾かれて砂へ消える。
「へえ」
レインが、ほんの少しだけ眉を動かした。
リトリーは板の陰から顔を出し、剣で砂を払う。
「へえ、って言わないで。私、がんばってるんだから」
レインは答えない。
針が二本、三本と増え、角度を変えて回り込む。
板一枚じゃ足りない。
リトリーは走り、次の板を空から落とす。
落としながら、わざと倒す。
倒れた板が砂を巻き上げ、針の狙いを一瞬だけ乱す。
その乱れを、リトリーは刃で拾った。
レインに踏み込む。
近づけば、針は使いにくい――はず。
けれどレインは、近距離でも針を使う。
針を短くし、刃の延長みたいにして捌く。
リトリーの剣と、針が噛み合った。
甲高い音。
折れた針の代わりに、次の針がすぐ補う。
「……しぶといな」
レインがぼそりと言った。
「それ、褒めてる?」
リトリーが息を吐く。
吐いた息の端は笑いに似て、でも目は笑っていない。
しばらく、互いに決定打を入れられない時間が続く。
リトリーは板や紐や、空から落とす小道具で針の軌道を散らす。
レインは針を増やしすぎず、減らしすぎず、最小の手数で追い詰める。
そして、ある瞬間。
リトリーが“欲”を出した。
針の一本が、板の端に刺さって止まる。
その一本だけ、わずかに遅れる。
――落とせる。
リトリーが踏み込み、剣をレインの手首へ走らせた。
武器を落とす狙い。
ミネルトの時と同じ、冷静な勝ち筋。
レインは、手首を引かない。
代わりに針を一本、リトリーの脇腹へ滑らせた。
刺す、じゃない。
縫うかのように。
布が裂け、次に肌が裂ける。
赤い血が、線じゃなく、広がる。
「……っ」
リトリーの息が止まった。
止まった息のまま、剣は振り切られる。
レインの手首に浅い傷。落とすほどじゃない。
レインが針を引いた。
引いた瞬間、血がさらに溢れる。
リトリーは膝を折りかけ、踏ん張った。
踏ん張って、笑おうとする。
「……うそ。今の、ずるくない?」
レインの声は小さい。
「……必要なことだ」
その“必要”が、誰のための必要か。
勝つためか。
傷つけないためか。
リトリーがもう一歩出ようとしたとき、足が砂に取られた。
――違う。砂じゃない。
身体の中の力が抜けた。
倒れるのを我慢しようとして、結局倒れた。
砂が舞い、赤が点々と染む。
「……そこまで!」
審判が慌てて叫ぶ。
リトリー自身も、唇を震わせて言った。
「……降参、する」
レインは針を消した。
消す動きが、ほんの少し遅い。
迷いがあるみたいに見えた。
彼は倒れたリトリーを見下ろし、短く言う。
「……すまない」
リトリーは息を吐いて、目だけで笑った。
「なんで……謝るのよ」
レインは返事をしない。
そのまま控え室へ帰っていく。
△▼△▼△▼△
医療班が駆け込む前に、客席の空気がまた変わった。
熱が、すっと引く。
秩序が、上から降りてくるみたいに。
「四騎士だ」
誰かが囁き、周りが道を空けた。
四騎士ーーアルガルドの最高戦力四人。この国に入ってから何度か耳にする。
現れたのは女だった。
明るい色の髪飾りと、柔らかな笑顔。
けれど歩き方は堂々としていて、まるでこの場の持ち主みたいだ。
ジョー・ゼッツが声を落とした。
「おおっとォ! これは……これはァ! アルガルド四騎士のキュラ様直々に治療をなさるようだァ!」
ギンナーが体を揺らしながら言う。
「キュラ・レ・リーズル。アルガルド四騎士第三席様の能力を直に見れるなんて今日は運がいいなぁ」
キュラは笑ったまま、砂の上に膝をついた。
倒れたリトリーの脇腹に視線を落とし、指先をそっと当てる。
「痛いでしょう?」
リトリーが唇を歪めた。
「……うん。めちゃくちゃ」
「えらいえらい。しゃべれるなら、まだ元気ね」
キュラは腰の剣を抜いた。
刃が陽を受けて、白く光る。
剣がまるでこの国の象徴みたいに、無駄なく綺麗だった。
刃先を、傷の上にかざす。
すると空気がふわりと温かくなる。
赤い裂け目が、糸で縫われるみたいに縮む。
皮膚が寄り、血が止まり、次に肌の色が戻っていく。
リトリーが息を吸って――吐いた。
吐いた息が震え、目に涙が浮かぶ。
「……っ、あっ、さむ……」
「ふふ。戻すとき、少し冷たいの」
キュラは優しく言い、刃を引いた。
「はい、おしまい」
観客席がどよめいた。
治った、と言い切れそうなほどに傷が消えている。
それでもキュラは笑いながら釘を刺す。
「祭りは楽しく。命は大事に。――わたくしのお願いです」
その言葉は柔らかいのに、逆らえない圧がある。
アルガルドの秩序が、笑顔で首を押さえてくる感覚。
「ま、死んでも治してあげるけど」
シルアは、それを聞いて背筋が冷えた。
同時に、少しだけ救われた。
リトリーが生きている。ちゃんと、息をしている。
ユズキが涙目で言った。
「す、すごいであります……」
シルアはうなずいた。
うなずきながら、胸の内側がまた削れるように痛んだ。
あんなことができる人もいるのか。
自分にあれほどのことができるだろうか。
△▼△▼△▼△
控えの通路で、リトリーは担架に乗せられたまま手を振った。
「シルア」
呼ばれて、シルアは近づいた。
リトリーは笑う。
笑って、少しだけ眉を下げる。
「……勝って、って言いたいんだけどさ」
声がかすれる。
「勝っても負けても、戻ってきて。先に言っとく」
シルアは言葉が出なかった。
出ないから、うなずいた。
ユズキが横から勢いよく言う。
「ぼくも祈るであります! 絶対に……!」
「祈るのはいいけど、声でかい」
リトリーが小さく笑い、すぐ咳をした。
キュラが近づき、リトリーの額に手を当てた。
「いい子。あとは休んでね」
そしてシルアを見て、目を細める。
「あなたが決勝?」
「……はい」
シルアは短く答える。
「緊張してる?」
シルアは少し迷ってから言った。
「……少し」
キュラは笑ってうなずいた。
「決勝だもの。思う存分闘いなさい。――でも、無茶はだめよ」
言い方が、優しくて強い。
シルアは視線を落とした。
「……気をつける」
「うん。気をつけて」
キュラはさらっと言い切り、医療班に指示を飛ばした。
その指示が通路の空気を整え、場がちゃんと“回る”。
秩序が、ここにもある。
シルアは外套の端を握り、息を吐いた。
勝てるかどうかは分からない。
でも、立つ。
怖いのに、止まれない。
△▼△▼△▼△
決勝の時間が来ると、闘技場はもう一度“祭り”の顔をした。
屋台の匂い。太鼓。歓声。
さっきの血の匂いが、甘い煙に上書きされる。
「さあァ! 決勝戦ッ! 優勝候補レイン! そして、静かな刃――シルアァ!」
ジョーの声が天井のない空へ跳ぶ。
ギンナーが笑い混じりに言った。
「静かな刃、って言うけどさ。あれ、たぶん静かじゃないぞ〜。内側が」
ジョーが大げさに耳を立てる。
「おおっと? 何か見えているのかァ、ギンナー!」
「フッ、我が目に捉えられぬもの無し…!」
もう気にしないでおこう。
砂の上に出る。
レインが正面に立っている。
針はまだ生まれていない。
けれど彼の周りだけ、空気が硬い。
シルアは剣を握り直した。
レインが短く言った。
「……痛いの、嫌か?」
質問が唐突で、シルアは一瞬言葉を失う。
嫌いに決まっている。
でも、ここで「嫌」と言うのは、何かを差し出すみたいで嫌だった。
「……別に」
結局、曖昧に返す。
レインの口元が、わずかに動く。
笑ったのか、歪んだのか分からない。
「俺もだ」
それだけ。
審判が二人の間を見て、手を上げる。
次の瞬間に合図が落ちる――はずだった。
その直前。
風が止まった。
太鼓の音が、ほんの一拍遅れて聞こえた気がした。
いや、音が遅れたんじゃない。耳が、塞がった。
冷たいものが首筋を撫でる。
砂の熱があるのに、背中だけが冷える。
観客席のどこかで笑い声がして、途中で途切れた。
咳き込む音。
椅子が軋む音。
シルアは足元を見た。
自分の影が――動いている。
いや、自分だけじゃない。レインのも、観客たちのもだ。
陽は変わっていない。
なのに影だけが砂の上をゆっくり伸びる。
伸びた先がふくらむ。
輪郭を持ち始める。
黒い靄が、地面から起き上がるみたいに。
「……影霊」
誰かが呟いた。
その一言が引き金になったみたいに、あちこちから同じ声が漏れる。
影霊が十体。
二十体。
五十体。
闘技場の縁。壁際。観客席の足元。屋台の陰。
影のある場所から、滲むように生まれていく。
冷気が増し、息が白くなりそうだった。
影霊は滑るように動く。散りやすいのに数が減らない。
――減るどころか、増えていく。
観客が立ち上がり、悲鳴が連鎖する。
秩序で揃っていたはずの席が、波みたいに崩れる。
レインが剣を構えた。
針が一気に生まれる。けれど、その針はシルアじゃなく影霊へ向いている。
シルアも剣を上げる。
怖い。
でも、目が離せない。
審判の手は途中で止まったまま、震えている。
開始の合図は、もう意味を持たない。
砂の上で、影霊がいっせいにこちらへ向き直った。
静かに。
滑るように。
そして、数で押し潰すつもりみたいに。
シルアは息を吸って、吐いた。
もう試合どころじゃない。
レインが短く言う。
「……来る」
次の瞬間、影霊の群れが一斉に動き出した。
世界が一気に夜となるように。




