第一部・第六章 レイン
控え通路は、思ったより狭かった。
石の壁に、太鼓の振動が染み込んでいる。
歓声は天井を伝い、こちらへ落ちてきて、また跳ね返っていく。
ユズキは何度も剣の柄を握り直していた。
古い革が手汗で少し滑る。
息が浅いのが、自分でも分かった。
「……次、ぼくであります」
口に出してしまうと、余計に現実味が増して、喉の奥がきゅっと縮んだ。
そうして歩いているうちに通路の先が白くひらける。
砂の匂いと、血の匂い――正確には、血に似た鉄臭い汗の匂いが混じっている。
「さあさあさあぁ! 次は随分と小さな挑戦者だァ! ユズキィィ!」
ジョー・ゼッツの声が、肉体そのものみたいにぶつかってくる。
「対するはァ! この男ォ! バルガス! おっとぉ、肩幅が……! あれは人か、壁かァ!」
客席が笑った。
どこかで酒がこぼれる音がした。
ユズキは砂の上に出た瞬間、足裏が沈む感触に驚いた。
思っていたより柔らかい。
そのせいで踏み込みがわずかに遅れる。
――落ち着け。
目の前にいるバルガスは、確かに“壁”みたいだった。
腕が丸太みたいに太い。
剣も、やたら厚い。
ただ、目は笑っていない。
「ガキが出る祭りじゃねえぞ」
低い声。
ユズキは喉が鳴るのを飲み込んだ。
「……ぼくは、ガキではないであります」
言い返した瞬間、客席の一角が沸いた。
ジョーがすぐ拾う。
「おおっとぉ、言うねぇ! 言葉が先か、剣が先かァ!」
解説席から軽い声が混じる。
「ははっ、これはちびっこがよほどの能力を持っていない限り肩幅君の勝ちだね☆」
ギンナーの声は笑ってるようで、どこか乾いていた。
ユズキは構える。
形は教本どおり。
でも指先が震えて、剣先が微かに揺れる。
バルガスが歩く。
ゆっくり。
砂が重い音を立てた。
――近い。
ユズキは先に出た。
自分でも驚くほど、足が前に出た。
剣を振る。
浅い。
バルガスの剣に当たり、硬い衝撃が手に響く。
痺れが腕を上って、肩まで走った。
「っ……!」
バルガスは押し返してくる。
ただの力じゃない。
重さの扱いがうまい。
ユズキの足が、半歩沈む。
ここで引いたら、終わる。
胸の奥で、何かが燃え上がる。
怖い。
怖いのに、退きたくない。
剣が軽くなる感覚がした。
ほんの一瞬、腕の痺れが引いて、身体の芯に熱が集まる。
――これだ。
“勇気を力に”。
理屈じゃなく、今、そうなった。
ユズキは踏み込んだ。
弾かれても、もう一度。
横から。
上から。
バルガスが眉を動かす。
初めて、少しだけ焦りが見えた。
客席がざわつく。
「おおおお!? 当てるぞ、当てるぞォ! ユズキ、当てにいくぅ!」
ジョーの声が跳ねる。
ユズキは剣の腹で相手の剣を押さえ、狙いを肩口へ変えた。
浅いが、当たった。
布が裂け、赤い線が走る。
バルガスが低く唸った。
「……やるじゃねえか」
その言葉に、ユズキは一瞬だけ息が緩んだ。
“認められた”みたいで。
その緩みを、バルガスは見逃さなかった。
重い剣が、斜めに落ちてくる。
避けられないと思った。
身体が固まる。
でも、足が勝手に動いた。
怖い。
それでも、逃げないと決めた足だ。
剣を立てる。
受けた。
衝撃が、今度は骨に響く。
腕がしびれて、剣先が跳ねた。
その瞬間。
バルガスの膝が砂を蹴る。
身体ごとぶつかってくる。
肩。
胸。
空気が抜ける。
ユズキの視界が揺れ、足がもつれた。
倒れる。
砂が口に入る。
胃がひっくり返る。
立ち上がろうとしたが、剣が遠い。
バルガスの影が落ちる。
剣先が、ユズキの喉元の手前で止まった。
「降参しろ。でないと殺しはしねえが、少し痛い目見てもらうぜ」
声は低いまま、少しだけ柔らかい。
ユズキは喉を鳴らした。
悔しい。
目の奥が熱い。
でも腕が言うことを聞かない。
自分の体が、自分じゃないみたいだった。
「……ぼくは……」
言いかけて、息が続かない。
客席が期待で静まる。
その静けさが、逆に怖い。
ユズキは砂に爪を立てた。
「……降参、であります」
言った瞬間、歓声とため息が混じった音が、波みたいに押し寄せた。
ジョーが派手にまとめる。
「決着ゥ! バルガスの勝ちィィ!」
ユズキは治療班に肩を貸されて下がる。
視界の端で、バルガスが小さく手を上げた。
それが敬意なのか、ただの余裕なのかは分からない。
でも胸の奥が、また熱くなった。
△▼△▼△▼△
控え通路に戻ると、急に音が遠く感じた。
耳が、まだ歓声の圧に慣れていない。
ユズキは壁にもたれた。
息が、ようやく深く入る。
「……負けたであります」
言った途端、また悔しさが湧いてきて、声が少し震えた。
リトリーが腰に手を当て、ユズキの顔を覗き込む。
「うん、負けちゃったね」
一度、そこで止める。
それから続けた。
「でもさ。思ってたよりもちゃんと戦えてたと思うよ」
ユズキは返事ができず、視線を落とした。
砂が靴の縁に溜まっている。
それが、さっきの転倒を思い出させる。
シルアがユズキの剣を拾い、柄の砂を軽く払った。
そして渡してくる。
「……手、まだ震えてる」
言い方は淡々としていた。
でも、責める音はない。
ユズキは剣を受け取り、柄を握る。
確かに、震えている。
「……怖かったであります」
ぽろっと出た。
出していい言葉だと思っていなかった。
リトリーが笑う。
「そりゃ怖いよ。あんな肩幅の人、今まで見たことないもん」
シルアは、少しだけ目を伏せた。
「……怖いのに、前に出れた。今はそれが、大事だと思う」
ユズキは喉の奥が詰まって、何度か瞬きをした。
「……はい、であります」
その時、係員が札を掲げて走ってきた。
「次、リトリー!」
リトリーが、ぱっと表情を切り替える。
「よし。私の番だ」
ユズキの頭を撫でる代わりみたいに、指先で髪を払った。
「見てて。勝って、ちょっと気分を取り戻そ」
△▼△▼△▼△
砂の上に出ると、リトリーは一度だけ深呼吸した。
観客の熱が、肌に張り付く。
アルガルドの空気は、どこか整っていて、怖い。
でも怖さを笑いに変えるのが、彼女のやり方だ。
「さあぁ! 次はァ! 冒険者のリトリー! 対するはァ、ミネルト!」
相手のミネルトは細身で、手にしているのは短い槍――いや、槍というより刺突用の細い剣に近い。
構えが低い。
目が、獲物を測る目だ。
ギンナーが言う。
「俺の予想はー、32秒くらいで試合終了、リトリーの勝ちかな!」
さっきから解説をしていない気がする。
リトリーは普段は抜かない剣を抜いた。
刃が陽を拾って、短い光が走る。
「よろしくね」
言葉は柔らかい。
ミネルトは返さない。
踏み込む。
速い。
“針”みたいにまっすぐ。
リトリーは半歩退き、刃で受け流した。
金属が擦れる音が、耳の奥に残る。
二度、三度。
刺突が続く。
観客は派手な打ち合いを期待しているのか、少し苛立つ気配も混じる。
リトリーは、それでも焦らない。
足を動かす。
砂の上で滑らないように、でも止まらないように。
ミネルトの攻めが、一瞬だけ横に逸れた。
それは誘いだ。
リトリーは乗らない。
代わりに、剣先をほんの少し押し出した。
“ここにいる”と示す程度の圧。
ミネルトの眉が動く。
その反応を見て、リトリーは小さく笑った。
「……うん。速いね」
言いながら、次の刺突を、今度はわざと浅く受けた。
衝撃でリトリーの刃が内側に入り、身体が開く。
ミネルトが一気に詰める。
狙いは喉。
容赦のない攻撃がリトリーに迫る。
その瞬間、リトリーは上体を沈めた。
砂が舞う。
喉を過ぎた刃が空を切る。
リトリーの剣が、ミネルトの脇腹を“叩く”ように当たった。
殺しは禁止。
でも痛みは痛みだ。
ミネルトの息が詰まる。
そこへリトリーは踏み込み、柄で手首を打つ。
細い刃が落ち、砂に刺さった。
「――降参、する?」
リトリーは剣先を相手の胸元に向けたまま、声だけ落とした。
ミネルトは歯を食いしばり、数拍、迷った。
観客の視線が集まる。
それを感じたのか、最後は短く言った。
「……降参」
ジョーが叫ぶ。
「決着ゥゥ! リトリーの勝ちィィ!」
歓声が上がる。
リトリーは剣を下げ、軽く頭を下げてから控えへ戻る。
△▼△▼△▼△
「すごいであります!」
ユズキが、思わず声を上げた。
自分の負けで沈んでいた胸が、少しだけ軽くなる。
リトリーは汗を拭いながら肩をすくめる。
「でしょ。……とはいえ、ミネルトって人、殺す気かって攻撃ばかりでヒヤヒヤしたけどね」
シルアは控えの影で剣の柄に触れていた。
“形だけ”の剣。
それが今は、やけに頼りなく見える。
けれど彼女の目は揺れていなかった。
リトリーが声を落とす。
「……無理しないでね」
シルアは、少しだけ頷いた。
「……見せるのは、最小限にする」
ユズキが、食い気味に言う。
「お、応援してるであります!」
言ってから、はっとして口をつぐむ。
シルアはユズキの方を見て、短く息を吐いた。
「……勝つ。たぶん」
“たぶん”は、弱気じゃない。
係員の札が上がる。
「次、シルア!」
シルアは歩き出す。
その背中は細い。
でも歩幅は崩れない。
△▼△▼△▼△
「さあぁ! 続いてはァ、 銀髪の冒険者シルアァ! 対するはァ! この男ォ、 グレイヴ!」
グレイヴは大柄で、斧に近い重い剣を持っていた。
肩の筋肉が盛り上がり、鎧も分厚い。
観客が分かりやすい勝負を期待して、声を上げる。
ギンナーが言う。
「わ〜、可愛いから俺は女の子の方を応援しようかな!あはっ」
あの解説さっきからふざけてばかりだと思いながらシルアは剣を構えた。
形だけの刃が、陽を受けてもあまり光らない。
それが余計に、自分の存在を目立たせる。
グレイヴが、いきなり踏み込んだ。
重い剣が唸り、横薙ぎに来る。
普通なら、受けた瞬間に腕が折れる。
シルアは受けない。
半歩にも満たない距離、退く。
刃の軌道が、頬をかすめる距離で過ぎた。
風が鳴った気がした。
本当は鳴っていない。
でもシルアの内側で、何かが確かに減った。
グレイヴの剣が、ほんの少しだけ外へ流れる。
たったそれだけで、死ぬか生きるかが変わる。
グレイヴが眉を寄せる。
「……避けただけか?」
二撃目。
今度は縦。
シルアは踏み込みながら横へ入った。
内側。
死角。
――風で、押す!
相手の重心が一瞬、後ろへ引かれる。
グレイヴの剣が空を割る。
砂が跳ねた。
シルアは剣先で相手の腕を“叩いた”。
痛みでグレイヴの指がわずかに開く。
でも落ちない。
力が強い。
三撃目。
四撃目。
重い刃の嵐。
シルアは避け、流し、足を動かす。
観客が次第に静まる。
派手さより、緊張の方が勝ってきた。
シルアの喉が熱い。
内側が削れる感覚が、じわりと広がる。
――これ以上長引くのは良くない。
シルアは決める。
ここで終わらせる。
グレイヴが大きく振りかぶった瞬間。
シルアは、わずかに前へ出た。
刃が落ちる、その直前の空白。
――引く。
重い剣の勢いが、ほんの少しだけ前に吸われる。
グレイヴの身体が、予想以上に踏み込んでしまう。
足が砂に取られ、重心が崩れた。
その崩れを、シルアは見逃さない。
剣先が、相手の喉元――ではなく、喉元のすぐ横、鎖帷子の隙間に“止まる”。
止めたまま、押し込まない。
彼女の手が震えていないのが、逆に怖い。
グレイヴの喉が動く。
数拍。
観客が息を止める。
「……降参だ」
グレイヴが吐き出した。
ジョーが爆発みたいに叫ぶ。
「決着ゥゥゥ! シルアの勝ちィィ!」
歓声が遅れて来る。
理解が追いついてから、どっと沸いた。
シルアは剣を下げ、静かに下がった。
足が、少しだけ重い。
内側の削れが、痛みに変わる前の鈍い空洞みたいに残っている。
△▼△▼△▼△
控えに戻ると、リトリーが先に手を伸ばしてきた。
「やったじゃん!」
その言葉は軽いのに、ちゃんと重みがあった。
シルアは、ほんの少し口元を緩める。
「……うん。やった」
ユズキが両手で拳を作って震わせている。
「すごかったであります! あの大きいのを……!」
シルアは、ユズキの言葉を途中で受け止めるみたいに目を細めた。
「……声、大きい」
ユズキが、はっとして口を押さえる。
リトリーが笑う。
「いいじゃん。今くらいは」
シルアは息を整えながら、解説席の方をちらっと見た。
銀髪の男――ギンナーが、こちらを見ている気がした。
サングラス越しの視線は読めない。
でも、笑っているようにも見える。
妙な既視感が、胸の奥で擦れた。
その感覚が消える前に、次の試合の呼び声が上がる。
「さあぁ! 続いてはァ! レイン! 対するはァ! ハルツゥ!」
ユズキが小さく首を傾げる。
「レイン……?」
リトリーが囁いた。
「知ってるの? ここらで有名な人?」
シルアは砂の方へ目を向けた。
出てきたのは、背の高い、細い人物だった。
髪は暗く、目が冷たい。
歩き方に迷いがない。
レインの方に、客席の視線が寄っている。
ギンナーが言う。
「レインは今大会の優勝候補だね!俺は彼に今月のお小遣い全部をかけてるよ!」
ジョーが煽る。
「対戦相手ェ! ハルツ! さあァ! どうだァ! この静けさを破れるかァ!」
ハルツは剣を抜き、威勢よく構えた。
若い。
勢いだけはある。
「行くぞ!」
叫んで踏み込む。
その瞬間。
レインの手が、ゆっくり上がった。
指先から、細い“針”が生まれる。
金属とも骨とも違う、光のない細い線。
一瞬で数が増えた。
観客が理解する前に息を呑む。
針が飛ぶ。
音がない。
あるのは、空気が切れる気配だけ。
ハルツの剣が、途中で止まった。
肩。
太腿。
手首。
急所以外の至る所に針が刺さる。
膝が落ちる。
砂に手をつき、歯を食いしばる。
レインは一歩も動かない。
近づきもしない。
ただ、指先を少し傾ける。
次の針が、ハルツの喉元の“手前”で止まった。
止まっているように見える。
でも実際は、そこに“届く”と示しているだけだ。
ハルツの喉が動いた。
声が掠れる。
「……降参」
ジョーが、一拍遅れて叫ぶ。
「は、はやぁぁぁい! 決着ゥ! レインの圧勝だァァ!」
客席がどよめく。
拍手と、ざわめきと、少しの恐怖が混ざる音。
ギンナーの声が、響く。
「いいぞー!レイーーン!!ヒュ〜!」
あの人は本当に何をしているのか。
シルアは、喉の奥が冷えた気がした。
針。
あまりに明確な“殺せる形”。
それを殺さずに見せる。
アルガルドの祭りで、それは妙に似合っていた。
リトリーが、シルアの横で小さく息を吐く。
「……ね。ここ、楽しいだけじゃないでしょ」
ユズキは黙っていた。
握った拳が、さっきより強く固まっている。
シルアは目を逸らさずに、砂の上のレインを見ていた。
心臓の鼓動が、いつもより少しだけ早い。
怖い。
でも、さっきユズキに言った言葉が、自分にも返ってくる。
――怖いのに、前に出れた。
その“前”がどこへ繋がっているのか。
まだ分からないまま。
ただ、祭りの熱とこの国の冷たさが混ざった空気の中で、次の試合が準備されていく。




