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第一部・第四章 関所の影

夜明け前の空気は、冷たいというより硬かった。


焚き火の跡はもう熱を失っていて、草には露が残っている。リトリーが背中の荷をゆさっと揺らし、軽く伸びをした。


「よし。行こ行こ。今日中に関所抜けたいし!」


「……朝から元気だね」


「元気じゃないと歩けないもん。あと、ご飯!」


「そればっかり」


「だって大事じゃん」


歩き出してしばらく、道は人の気配を増していく。荷車の跡が濃くなり、足音が増え、遠くで金属の擦れる音がする。


リトリーがふいに、横に並んだ。


「ねえシルア。昨日のさ、あれ……どこまでできるの?」


「あれって?」


「敵を弾き飛ばしたり、私の前の空気が“壁”みたいになったやつ」


「……わかんない。……でも、もっといろいろできる気がする」


そう言って私は小さく息を吸い、指先に火を灯す。すぐ消して、今度は水を丸く浮かせた。


リトリーの目が、ぱちっと見開く。


「えっ、なんでそんないろいろできるの!? 剣の能力って、普通ひとつだよ!?」


「……ひとつ、だけなの?」


「そ。基本はね。だから……あんまり人前でやらない方がいいかも」


リトリーはそう言って、私の手をぱんっと軽く叩いた。


「よし、決めよ。他の人がいるところでは“一種類だけ”。シルアはそれっぽいのを一つに絞って使うこと」


「……わかった」


「よし! 決まり!」


“決まり”と言われて、胸の奥が少し落ち着く。

何ができるか分からないまま歩くより、縛りがある方が怖くない。


道の先に石の塊が見えてきた。


関所だった。


△▼△▼△▼△


石壁は高くないのに、圧がある。


壁の上に立つ兵の影がまっすぐで、動きが少ない。槍先が同じ角度で並んでいて、風が吹いても揺れないみたいに見える。


門の上に短い文字が刻まれていた。


――秩序は剣より重い。


リトリーが小声で言う。

「うわ。アルガルドって感じ」

「アルガルドって、こういう感じなんだ」

「うん。真面目でお硬くて融通きかなそう。あと、ご飯はきっと美味しくない」

「最後は偏見」

「偏見は大事!」

大事じゃない。


門前には列ができていた。商隊、旅人、冒険者。みんな腰の剣を揺らしながら順番を待っている。検問は淡々としていて、無駄がない。


「行き先は?」


門番の声は平坦だった。


リトリーが肩を落とすふりをして言う。

「アルガルド方面。仕事探し〜。二人旅!」


門番の視線が私に移る。腰の剣に落ちて、戻る。ほんの一瞬の確認。


私は息を止めそうになって、喉を鳴らした。


「通行許可」


札が渡される。リトリーが受け取って、ひらひら振った。

「ありがとー!」

門番は返事をしなかった。


門を抜けた瞬間、空気が変わった。

同じ道なのに音が違う。足音が揃っている。視線が揃っている。


関所の脇に、簡易の休憩所があった。そこにひとり、冒険者らしい男が腰掛けている。


年は三十代後半くらいか、もう少し上。短髪で、顔には日焼けの跡。目が穏やかで、それでいてよく見ている目。剣の鞘は擦れていて、使い込まれている。


男がこちらを見て、軽く手を上げた。

「お、通れたか」


リトリーが足を止める。

「え、誰? 関所の人?」

「違う。たまに手伝ってる冒険者だ。ミドルってんだ」

「ミドルさん!」


男――ミドルは、ちょっと笑った。軽すぎず、重すぎない笑い方だった。


ミドルの視線が、門の内側の人混みに流れる。

「やはり今日は影が妙に騒がしいな」

「影?」

リトリーが首をかしげた、そのときだった。


足元の影が、ぬるりと盛り上がった。


まず荷車の下。次に門番の足元。次に、人の足の間。

影が影のまま起き上がって輪郭を作る。冷気が、遅れて肌を撫でた。


「影霊だ!」


誰かが叫ぶ。


列がざわつく。子どもが泣き、荷車がきしむ。

兵が一斉に動いた。槍が揃い、剣が抜かれる。無駄がないのに、息が詰まる。


影霊は多い。


一体、二体なんて数え方が馬鹿らしくなる。人の影が伸び、壁の影が伸び、影から影が生まれるみたいに増えていく。


「下がれ! 列を崩すな!」


兵の声が飛んだ。


兵の剣が働く。

小さな火粉が散り、足元の土が固くなり、薄い膜みたいな結界が一瞬だけ張られる。どれも派手じゃない。けれど戦いに使える程度には“上手い”。


それでも、影の波が押してくる。


リトリーが前に出た。

「シルア、離れないで!」

「分かってる!」


私は手を伸ばして、息を吸う。


影霊の一体が横から滑ってくる。

私は空気を叩くみたいに押した。


影霊の輪郭がずれて、槍列の前へ転がる。槍先が刺さって、影が薄くなる。


「いいね!」


リトリーの声が跳ねる。リトリーは剣を抜かずに、身体だけで影霊の間を縫う。蹴る。避ける。距離を奪う。弱い影霊は散る。散っても、また増える。


「きりがないぞ!」


誰かが叫ぶ。

本当に、きりがない。


影の波の奥で、地面の影がぐにゃっと盛り上がった。


背丈ほどの輪郭。角みたいな突起。

大影霊が一体、次にもう一体。さらにもう一体。


「うそ、三……!」


リトリーの声が裏返る。


大影霊は速い。

槍列の正面を避けるみたいに斜めに突っ込む。狙いがいやらしい。列の薄いところを知っているみたいに。


兵の結界が触れた瞬間にひび割れ、ぱきん、と散った。


「……っ!」


兵の一人が足を取られる。

影が絡みつく。引きずり込もうとする。


ミドルが前に出た。


剣は抜かない。手を軽く上げる。


引きずられかけた兵の身体が、ずるっと後ろへ滑った。

誰かが引っ張ったみたいに。


「助かった……!」

「礼はあと。立て。列を戻せ」


ミドルの声は大きくない。でも周りがそれに従う。

頼りになるおじさん、というのはこういうことかもしれない。


大影霊の一体が、今度は槍列へ真っ直ぐ来る。

槍が揃うより早い。


リトリーが飛び出す。間合いを詰める。

影が伸びて、リトリーの足首を掴もうとした。


私は息を吸った。

間に合って、と願う。


空気が固くなる。

伸びた影がぶつかって弾かれた。衝撃が胸に響く。


リトリーが一瞬だけこっちを見る。驚いて、それから笑う。

「ありがと!」


笑ってる場合じゃない。けど、安心する。


大影霊は形を変える。刃みたいな影を増やして、まとめて裂きにくる。

槍列が押される。兵が歯を食いしばる。


「押し返せ!」


誰かが叫ぶ。


私は手を伸ばして、影の波へ向かって押し返すイメージをする。

押す。押す。押す。

胸の奥が削れる。喉が乾く。視界が少し霞む。


それでも、影霊の波がほんの少しだけ遅くなる。

その一拍の間に槍が刺さる。火粉が散る。風が巻く。兵や冒険者たちの刃が走る。


ミドルの手が動く。

影霊の群れに紛れた大影霊の動きが、ほんの一瞬だけずれる。


その隙に槍が通る。刃が通る。影が裂ける。


大影霊が一体、霧みたいに薄くなって消えた。

次の一体も、削られて、裂けて、消える。


残った影霊は、数が多いぶん薄い。薄いものから崩れていく。


押して、押し返されて、また押す。

気づけば足元の影が、薄くなっていた。


最後の一体が消えたとき、空気が落ちた。


静かになりすぎて、耳が痛い。


兵の誰かが、へたり込んで呟いた。

「……生きてる」


△▼△▼△▼△


関所の内側へ戻る道すがら、影がただの影に見えた。


さっきまで敵だったのに。

今は、ただそこにあるだけ。


リトリーが私の顔を覗き込む。

「シルア、顔白いよ」

「……大丈夫」

「大丈夫じゃない顔」

「……ちょっとだけ、疲れた」


言うと、リトリーが少しだけ眉を下げた。

「無理しすぎだよ。ほんとに」

「……分かってる」


分かってる。たぶん。

分かってるのに、身体が先に動いてしまう。


ミドルが少し前を歩きながら、肩越しに言った。

「気をつけろよ。便利な力ほど、持ち主から先に壊れるもんだ」


言い方は乱暴じゃない。でも、軽くもない。


関所の門まで戻ったところで、ミドルは立ち止まった。

「俺はここまで。こっちはこっちで後始末がある」


「え、もう?」

リトリーが口を尖らせる。


「もうだ。旅してるんだろ? こんなところにいつまでも居ないで、二人は先に行け」


札が手元に戻ってくる。

兵の投げ方より少し雑だが、そこには優しさがあった。


リトリーが手を振った。

「ありがと、ミドルさん!」


ミドルは短く笑った。

「達者でな」


それだけ言って、踵を返した。

背中が石壁の影に溶けるみたいに遠ざかっていく。


私とリトリーは門の方へ歩き出す。


――秩序は剣より重い。


刻まれた文字が、もう一度目に入った。


腰の剣は相変わらず軽い。

でも隣の足音は、ちゃんと重さがある。


私たちは関所を抜けて、アルガルドの道へ踏み出した。

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