第一章・第四十四話 裏で
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浄化の儀式が終わり、歓声が王城の石壁を震わせていた頃。
王城の廊下は、外の喧騒を嘘のように遠ざけている。
高い天井。磨き上げられた床に、縦長の窓から差し込む光が帯のように伸びている。
窓の外ではまだ人々が叫び、手を振っているはずなのに、ここでは靴底が石を踏む音だけが、やけに響いた。
規則正しく。
こつ、こつ、と。
先を歩くのはジニアス。
茶の髪が柔らかく揺れ、背筋は真っ直ぐだ。歩幅は一定で、無駄がない。
その後ろを、アルアが気怠そうに続く。
白一色の服が、窓からの光を受けて淡く照り返す。腰の二振りの剣が、かすかに触れ合って、小さな金属音を立てた。
「……で」
アルアが口を開く。
声はいつも通り、抑揚の薄い棒読み。
「話って、一体なんなんだい?」
歩きながら、視線だけをジニアスへ向ける。
「歩きながら話せないのー?」
ジニアスは振り返らない。
その代わり、わずかに口元を緩めた。
「ええ。大事なお話ですので」
穏やかな声。けれど、言葉の置き方が丁寧すぎる。
「部屋に着くまでは、少々我慢していただきたい」
アルアは、ふうん、と鼻から息を抜いた。
「大事ねー」
窓の外をちらりと見る。
遠くで旗が揺れている。歓声が、微かに震えて伝わってくる。
「叡簒者どのが、他の人に聞かれたくない話なんて」
足を一歩、踏み出す。
「ちょっと怖いなー」
わざとらしく肩を竦める。
「しかもボクという、他国の人間にだなんてねー」
ジニアスの歩みが、ほんのわずかに緩んだ。
だが止まらない。
「恐れ入ります」
柔らかく、返す。
「しかし、だからこそ、なのです」
曖昧に濁す。
具体を出さない。
アルアはその横顔を、ぼんやりと眺めた。
笑っている。
だが、目の奥は読めない。
「ところで」
ジニアスが、ふと話題を変える。
「本当によろしかったのですか? 聖女様のそばを離れても」
足音が、ひとつ重なる。
「まあ、アルア殿一人に話したいと申し上げたのは、私なのですが」
アルアは、短く息を吐いた。
「別にいいよー」
手をひらひらと振る。
「離れていても護衛はできるしねー」
その言葉に、ジニアスの視線が一瞬だけ動いた。
横目で、アルアの頭上を見やる。
ぴょこん、と立つアホ毛が、何事もないように揺れている。
「……なるほど、さすがですね」
低く、感心したように呟く。
廊下の突き当たりが見えてきた。
大きなアーチ状の入口。
その先に、下へと続く広い階段が口を開けている。
光は届いているが、下の方は影が濃い。
冷たい空気が、ゆっくりと上へ流れてくる。
石の匂い。湿り気。
ジニアスは迷いなく、そちらへ向かった。
階段の縁に立ち、そのまま足を下ろす。
こつ、と音が低く変わる。
アルアは、そこで一度立ち止まった。
上から見下ろす。
螺旋ではない、まっすぐに続く階段。
壁には等間隔で燭台があるが、炎は小さい。影が揺れている。
「……話し合いをするのに、地下へいくのかい?」
声が、少しだけ反響する。
ジニアスは数段下で振り返った。
上から差す光が、彼の顔を半分だけ照らす。
「ええ」
微笑む。
「重要な話ですので」
その笑みは崩れない。
「何か、不都合でも?」
問う声は穏やかだ。
だが、階段の下から吹き上がる空気が、肌を撫でる。
ひやり、と。
アルアは、しばし黙った。
視線を、階段の奥へ落とす。
石壁の隙間に、黒い影が溜まっている。
その奥に、何があるのか。
数秒の沈黙。
遠くの歓声が、さらに遠のく。
「……別にー」
やがて、肩をすくめた。
「ただ、薄暗いのは苦手でねー」
軽い調子で言う。
だが、その目は笑っていない。
一歩。
石段に足をかける。
冷たい感触が、靴底越しに伝わる。
二人の足音が、地下へと沈んでいく。
こつ、こつ、と。
上の光が、背後で細くなっていった。
△▼△▼△▼△
石段は、思ったよりも長い。
一段、また一段と降りるたび、空気が重くなる。
冷たい。湿り気を帯びた匂いが、鼻の奥に張り付く。
上から差していた光は、とうに細い糸のようになり、やがて背後で途切れた。
壁に取り付けられた燭台の炎が、頼りなく揺れる。
揺れるたび、影が歪む。
アルアは、階段を降りながら、ゆるく首を回した。
「……浄化の儀式も終わったことですし、帰国するまでしばらく暇でしょう」
前を行くジニアスが、軽い調子で言う。
声は穏やかだが、地下ではよく響く。
「後日、私と手合わせなどいかがでしょう?」
足音が、ひとつ止まり、また動く。
「以前は、触れることすら叶いませんでしたので。あれは、正直に申し上げて……悔しかった」
アルアは、目を細める。
「へえ」
階段の縁を、つま先で軽く叩く。
「君たち国の最高峰たちは、どうしてそんなにボクに挑みたがるのかなー」
軽い声。
だが、瞳は暗がりを測るように細い。
「別にいいけどさー」
ジニアスが、くすりと笑う。
その笑い声が、石壁に反射して、少しだけ増幅される。
「ハハハ。それはあなたが、この世界で一番“反則”だからですよ」
言葉を選んでいるようで、選んでいない。
「それに、あなたに挑みたがるのは、ソルニアの民も同じでは? 毎日のように挑まれているのでしょう?」
階段を踏む音が、少しだけ強くなる。
アルアの口元が、わずかに歪んだ。
「あれは理由が違うでしょ」
吐き捨てるでもなく、ただ事実を置く。
「それより、ボクのことを反則ってさー。クソ野郎みたいなこと言うねー」
燭台の炎が、ふっと揺れる。
「叡簒者どのって、そんなこと言うような人じゃなかったよねー」
ジニアスは振り返らない。
代わりに、肩をすくめるように息を吐いた。
「実は私、前回の遠征に選ばれましてね」
足音が、階段の奥へと吸い込まれていく。
「その折に、いろいろと“お話”を伺う機会がございましたので」
アルアの足が、一瞬だけ止まる。
遠征。
その単語が、暗闇の中で沈む。
「……よく遠征なんて行くねー」
再び歩き出す。
声は軽い。
「ボクは最初の一回から、ずっと行ってないのに」
石段を踏むたび、乾いた音が鳴る。
ジニアスが、また笑う。
「あなた“だけ”ですよ」
わずかに、言葉を区切る。
「誘いを断るのは。……失礼、断れるのは、でしょうか」
アルアは黙る。
数段、無言で降りる。
階段の先は、相変わらず暗い。
「……ねー」
ふいに口を開く。
「この階段、長くなーい?」
首を傾げる。
「こんなに長いと、帰りが大変じゃないかー」
ジニアスは、足を止めずに答える。
「もう間もなく着きますよ」
その声は、変わらず穏やかだ。
アルアは、燭台の炎を見上げた。
「もう間もなくって」
眉をひそめる。
「真っ暗で全然先が見えないけどー」
一段、踏み外すように足を置く。
わざとらしく、ぐらりと体を揺らす。
「わかんないから言うけど、実はさっきから何回か足を踏み外して、転げ落ちちゃってるんだよねー」
間。
地下に、静寂が落ちる。
ジニアスは、肩を震わせた。
「ご冗談を」
軽く笑う。
その笑いが、やけに乾いている。
さらに数段。
やがて、足裏の感触が変わった。
平坦。
階段が、終わる。
狭い踊り場の先に、重厚な扉がひとつ。
金属の取っ手が、燭台の光を鈍く返す。
ジニアスが、立ち止まった。
「この部屋です」
手を伸ばし、ゆっくりと扉を押す。
ぎ、と小さな軋み。
中から、ほのかに甘い匂いが流れ出た。
酒と、木材と、焦げた砂糖のような香り。
地下の冷たい空気とは、明らかに違う。
アルアが、目を瞬かせる。
扉の向こうに広がっていたのは――
小さなバーだった。
長いカウンター。
磨かれた木目が、柔らかく光を返す。
壁には瓶が並び、色とりどりの液体が、揺れる炎を受けて揺らめいている。
天井は低いが、灯りは温かい。
先ほどまでの石の階段とは、まるで別世界だ。
「……」
アルアは、一歩踏み入れる。
足音が、木の床に変わる。
柔らかい。
長く続いた階段の先に、こんな空間があることが、理解に追いつかない。
「……なにこれ」
ぽつりと漏らす。
ジニアスは、背後で扉を閉めた。
「こういうのは好みではありませんでしたか? 私は結構好きなんですけどねぇ」
カウンターの向こう。
ひとり、男が立っている。
グラスを布で拭きながら、こちらに視線を向けた。
白銀の髪。
灯りを受けて、淡く輝く。
金色の瞳が、細められる。
その色は、地下の闇とは対照的に、鋭く澄んでいる。
アルアの呼吸が、一瞬止まった。
「……どうして」
声が、低く落ちる。
「どうして、あんたがここにいるんだ」
男は、口角を上げた。
グラスをゆっくりと棚に戻す。
仕草は丁寧で、どこか芝居がかっている。
「いらっしゃい」
軽やかな声。
「本日のおすすめは、少し強めのだぜ。階段で冷えただろ?」
金の瞳が、愉快そうに細まる。
「……マスターの気まぐれってやつさ」
男――ルギアは、心から楽しそうに笑った。
△▼△▼△▼△
重たい扉が、ゆっくりと閉じる。
外界とを隔てる最後の音が、鈍く響いた。
がちゃん、と。
ジニアスは振り返り、指先で鍵を回す。
小さな金属音。
「さあ、どうぞ。お座りください」
ジニアスはそう言って、手のひらを差し出した。
アルアは数秒、その場に立ったまま動かない。
視線は、カウンターの向こう。
白銀の髪。
金色の瞳。
変わらない笑み。
「……」
ゆっくりと椅子を引く。
木が擦れる音。
座るが、背は預けない。
腰の剣が、わずかに揺れる。
ルギアが、ぱっと顔を明るくした。
「いらっしゃいませ、お客さん」
声は軽い。楽しんでいる。
「何を飲みますか?」
布で磨いていたグラスを、掲げる。
「今夜は特別営業だ。地下限定、完全紹介制」
ジニアスがくすりと笑う。
「では、適当に強いものを」
「お任せで」
「おやおや」
ルギアが嬉しそうに頷く。
「任された」
アルアは何も言わない。
視線も向けない。
ただ、カウンターの木目をじっと見ている。
ジニアスが席に着きながら、ゆるく首を傾げた。
「叡簒者どのー」
アルアの声が、低く落ちる。
軽い調子のまま、だが空気が変わる。
「君は一体、なんの話をするつもりなのかなー?」
指先が、机をとん、と叩く。
「こいつがここにいるのは、どうしてなんだ」
金色の瞳と、目が合う。
ルギアは、にこにこと笑ったまま。
ジニアスは、微笑みを崩さない。
「そう警戒なさらず」
静かに言う。
「彼は、ここに“いるだけ”ですので」
「なー」
ルギアが身を乗り出す。
「そうだぞー、アルアくん」
肩をすくめる。
「俺はここにいるだけ。なーんにもしないから、たぶん。肩の力抜きなー」
棚から瓶を取り出し、液体を注ぐ。
琥珀色が、グラスの中で揺れる。
「それより何飲む?」
ちらりとアルアを見る。
「こんだけ揃えるのに結構頑張ったんだぜ?」
瓶が、ずらりと並ぶ。
「せっかくだから、無視しないで頼んでくれよー、な?」
アルアはしばらく黙る。
ルギアの動き。
ジニアスの気配。
この部屋の広さ。
出口までの距離。
天井の高さ。
全てを測るように、視線が動く。
そして、短く言った。
「……じゃあ水」
ルギアが、ぴたりと動きを止める。
「えー」
露骨に肩を落とす。
「いい酒たくさんあるんだぜ?」
グラスを掲げる。
「頼まないなんて、もったいないじゃん」
ジニアスが、横から穏やかに口を挟む。
「まあまあ」
自分のグラスを受け取りながら。
「私が代わりにたくさん飲みますので」
ルギアの顔がぱっと明るくなる。
「やっぱりジニアスくんは優しいな〜」
楽しそうに笑う。
「それに比べてアルアくんは〜」
わざとらしく首を振る。
「ははは」
氷の入った水を、無造作にグラスへ注ぐ。
透明な液体。
何の匂いもしない。
アルアの前に置く。
「どうぞ、神々の池の水です」
アルアは受け取らない。
ただ視線だけを落とす。
ルギアは、くるりと背を向け、次のグラスを準備しながら言った。
「ところでさ」
何気ない口調。
「エルアって、アルアくんを一番に守るよね〜」
アルアの瞳が、わずかに細くなる。
沈黙。
ルギアは、氷を落とす。
からん、と音が鳴る。
「アルアくんが選択できる守護対象って、限りがあるじゃん?」
瓶の口を傾ける。
透明な液体が、細く落ちる。
「それはさー、エルアがほとんどの力をアルアくん自身に使ってて」
グラスの縁を指でなぞる。
「その残りカスしか、アルアくんは自由に使えないからなんだけどー……」
空気が、冷える。
アルアの手が、わずかに動く。
腰の剣に触れない。
だが、触れられる位置にある。
「……何が言いたい?」
声が低い。
感情は出さない。
だが、警戒は隠さない。
「急に妹の話を持ち出して」
視線が鋭くなる。
「意図がわからないなー」
ルギアは振り返る。
金の瞳が、まっすぐ向く。
「そんな怖い顔すんなよ」
笑っている。
だが、その奥に光がある。
「ただね」
グラスを置く。
とん、と木が鳴る。
「もしもエルアが、アルアくんを守るのに精一杯な状況になったら」
指先が、空をなぞる。
「アルアくんが自由に使える力って、どうなるのかなーって」
その瞬間。
空間が、歪む。
何もない空中から。
“それ”が、抜かれた。
黒。
ただの黒ではない。
光を飲み込む黒。
この世の全ての闇を凝縮したかのような、黒より黒い刃。
輪郭すら曖昧で、見ているだけで目が痛む。
しかしそれを使う気配はない。
刃が、ただ静かに浮かぶ。
空中で、音もなく。
アルアが、椅子を蹴るように立ち上がる。
「何を——」
その言葉を、遮るように。
ジニアスが、グラスを置いた。
氷が、からん、と鳴る。
「話の本題ですが」
表情は、変わらない。
穏やかなまま。
「スレインは」
ゆっくりと告げる。
「戦争することになりました」
その一言が、部屋の空気を凍らせた。
「……戦争?」
アルアの声が、わずかに低くなる。
その一語だけで、空気が張り詰めた。
背筋が、わずかに伸びる。
金色の瞳と、黒い刃を同時に視界に入れたまま、ジニアスを見る。
「戦争って、いきなりどういうことかなー?」
語尾は軽い。
だが、抑えた圧がある。
「どこと? いつ?」
一歩、カウンターに近づく。
「まさか、ソルニアなんて言うんじゃないよねー?」
最後の言葉だけ、はっきりと強い。
ジニアスは、両手を軽く上げた。
「まさか、まさか」
微笑みを崩さない。
「というか、逆ですよ。逆」
グラスの縁を指でなぞる。
「今回の話は、ソルニアと“同盟”を組みたい、というものです」
「……」
アルアの目が細くなる。
「言っとくけど」
ゆっくり、言葉を置く。
「なら良かった、とはならないよー」
指先が、カウンターを軽く叩く。
「同盟って言っても、それはソルニアを戦争に巻き込むってことじゃないか」
空気が、重い。
「それにスレインという大国が、戦争に同盟国を要するってことは」
視線が鋭くなる。
「相手の国は?」
ジニアスは、間を置かずに答えた。
「アルガルドです」
その瞬間。
「完成!」
ルギアが、楽しそうに声を上げる。
カラフルな液体が混ざったグラスと、透明な水をカウンターに並べる。
色彩が、場違いなほど鮮やかだ。
アルアは、それを一瞥する。
そして、深く息を吸う。
吐く。
「……確かに、君たち両国は仲が悪いけど」
低く、静かに。
「ソルニアを巻き込まないでほしーなー」
目を閉じる。
「ソルニアは、戦いから最も遠い国なんだけどー」
ジニアスは、首をわずかに傾ける。
「そうは言っても」
淡々と。
「あちらはガゼルと手を組んだそうなので」
その言葉に、空気が揺れる。
「さすがに、こちらも一人というのは不安でしてね」
アルアの眉が、ぴくりと動く。
「……というかさ」
視線をジニアスへ戻す。
「こういう話は、もっと“上”にするべきだよねー」
肩をすくめる。
「別にボクには、なんの決定権もないんだけどー」
ジニアスは、静かに首を振った。
「いえ」
目が、真っ直ぐ向く。
「この話はあなたにしなくてはなりません」
「……ボクでないといけない?」
その時。
「完っ成!」
またルギアが、誇らしげにカラフルなカクテルを掲げる。
層が分かれ、宝石のように光る。
「我ながら最高の見た目だぜ」
誰も飲まないのに。
ジニアスは、ほんの一瞬、言葉を選ぶように黙る。
そして、続けた。
「あなたに話さなければならない理由、そして今回、戦争に踏み込んだきっかけは……」
指先が、グラスの氷を揺らす。
「両国に“越剣”が貸し出されることになったからです」
時間が、止まる。
アルアの瞳が、見開かれる。
「……越剣の貸し出し……!?」
声が、明確に揺れた。
「どうしてそんなことを……」
アルアは楽しそうに酒を混ぜるルギアを睨む。
「いや、今はいい」
すぐに切り替える。
これはもう決まったことなのだから。
「貸し出されたのはどれだ? 何本だ?」
ジニアスは、静かに答える。
「さすがに一本ずつですよ」
指を一本立てる。
「どれかは、まだお教えできません」
笑みを崩さず。
「同盟を組んでくださるのなら、教えましょう」
「アルアくん、組んでー」
ルギアが、にこにこと言う。
場違いな軽さ。
アルアは、視線を伏せる。
越剣。
その種類によっては、戦争そのものが成立しない。
あるいは、成立した瞬間に終わる。
「……何もわからないまま組むのは」
低く。
「リスクが高すぎる。もしかしたら泥舟かもしれない」
ジニアスは、わずかに前へ身を乗り出す。
「私はソルニアが組んでくれるのなら」
視線が鋭くなる。
「というか、あなたと聖女様がついてくださるなら」
間。
「勝ちを確信しています」
アルアは、目を細めた。
「話にならないなー」
ぽつりと落とす。
その瞬間。
ルギアの笑みが、少しだけ変わる。
「アルアくん」
軽い声のまま。
「もう面倒くさいから言うけどさ」
金の瞳が、真っ直ぐ射抜く。
「スレインとソルニアが組むのは、決定事項だから」
空気が、凍る。
「拒否とかないから」
黒い刃が、わずかに揺れる。
「だから“組む”と言いな」
口元が、歪む。
「でないと、愛しの聖女ちゃんの身が危険かもよ?」
「どう言う——」
アルアが踏み込む。
その瞬間。
ルギアが、あっさりと言った。
「今のアルアくんはエルアを自由に使えない」
静かに。
「さっきから、数億種類の“負”を数億回ずつ与えてるけど」
軽く肩をすくめる。
「やっぱりアルアくんには届かないなー」
金の瞳が、楽しそうに細まる。
「害と言えないものしか、通らないや」
アルアの呼吸が、止まる。
ルギアの言っている意味を理解する。
今、自分は聖女を守れていない。
このままだと彼女が傷ついてしまう。
いや、もしかしたらもう傷ついているかもしれない。
「……分かった」
静かに、言う。
「その戦争に関しては」
目を上げる。
「スレインに、手を貸そう」
ジニアスが、深く頷いた。
「アルア殿がそう言ってくださって、助かりました」
そして、告げる。
「スレインに貸し出された越剣は……崩剣です」
アルアの目が、細くなる。
「……それで、ボクと聖女ってわけか」
魔力消費が激しいが対軍性能なら文句のつけようがない。
ジニアスが、静かに笑う。
「ええ。私が勝ちを確信している理由が、お分かりでしょう」
ルギアが、ぱん、と手を打つ。
「いやー、平和に決まって良かった良かった」
軽い声。
「話も終わったし、アルアくんは早く聖女ちゃんのところに行ってあげなよ」
グラスを拭く。
「アルアくんがいなくて、気が気でないみたいだし」
ジニアスを見る。
「ジニアスくんも、それでいいでしょ?」
「ええ」
穏やかに答える。
「私の話は、もう終わりです」
アルアは、椅子を引く。
立ち上がる。
扉へ向かう。
取っ手に手をかける。
そして、振り返らずに言った。
「ルギア」
黒い刃を一瞥する。
「その剣を使って、ボクが聖女を守れないようにしていたことは許してやる」
ルギアが、目を瞬く。
「あれ? 意外だね〜」
笑う。
「怒らないんだ」
アルアは、扉を開けながら言う。
「勘違いしてるようだから、言っておくけど」
振り返らない。
「聖女への害は集められなくても」
静かな声。
「聖女の“死”は、ボクにとっての害だ」
空気が、震える。
「だから、もう二度とつまらないことはするな」
扉が開く。
冷たい空気が流れ込む。
そのまま、アルアは出ていく。
アルアが暗闇へ消えるとジニアスも立ち上がる。
「では私は後始末をしてきますよ」
グラスを置く。
「お酒、美味しかったですよ」
軽く頭を下げ、アルアを追う。
扉が閉まる。
静寂。
ルギアは、ひとり残る。
「……やっぱり強すぎるなぁ」
黒い刃を見上げる。
「ほんとにどうやって殺そうっと」
ぽつりと呟く。
視線を落とす。
結局ジニアスは一杯しか飲まなかった。
目に映るのは一口も飲まれなかった、自慢のカクテルと透明な水。
「なんてひどいことを……」
本気で悲しそうな顔。
「俺がこれを用意するのに、いくら使ったと思ってるんだ……」
黒い剣を、空へ戻す。
闇が、溶けるように消える。
グラスを片付けながら、ぼやく。
「それにしてもシルアねぇ……」
金の瞳が、遠くを見る。
「あれ、記憶戻ってないよな?」
小さく笑う。
「可愛いままでいてほしいけどなぁ」
布でカウンターを拭く。
地下のバーに、再び静けさが戻った。
△▼△▼△▼△
白。
ただ、白。
眩しいはずなのに、目は痛くない。
寒いはずなのに、温度は感じない。
足が地面に触れているのか、浮いているのかも分からない。
上も下もない。
前も後ろもない。
それでも――私は、そこに“いる”。
「……ここは」
声を出したつもりだった。
けれど、音がどこへ向かったのか分からない。
反響もしない。
吸い込まれもしない。
ただ、白に溶ける。
胸の奥が、妙に静かだ。
痛みも、焦りもない。
戦っていたはずなのに。
アンリミの声。
黒い球。
弾ける闇。
そこまで思い出した瞬間――
「確かに、ここってどこなんだろうね」
背後から、声。
はっきりと、耳元で。
「っ」
私は振り返る。
振り返ったはずなのに、体がどちらを向いたのかも分からない。
方向の概念が、曖昧だ。
そこに――
“私”がいた。
薄銀の髪。
群青の瞳。
鏡のように、同じ。
けれど。
目だけが違う。
両目がアンリミの左目と同じ越眼だった。
なぜか私が越眼を両目に宿している。
白い世界の中で、異様なほど鮮やかに浮かんでいる。
「わ……たし?」
喉が、乾く。
もう一人の私は、にこりと笑った。
「そうだよ」
声は、私の声。
でも、少しだけ軽い。
「初めましてだね」
私は、何も言えない。
頭が、追いつかない。
夢?
幻?
死後?
考えようとして、考えが滑る。
「あれ?」
もう一人の私は、首を傾げる。
仕草は私とは違う。
「驚かせちゃった?」
くす、と笑う。
「まあ、生まれたばかりだもんね」
指先で顎をつつく。
「仕方ない仕方ない」
生まれたばかり?
何のこと?
「……あなたは」
言葉が、うまく続かない。
もう一人の私は、あっさりと言った。
「私は、記憶を失う前の私だよ」
白い空間を見渡す。
「ずーっと、この退屈な世界にいるの」
退屈。
その言葉が、やけに生々しい。
「記憶を失う前の……私」
口の中で、繰り返す。
「そうそう」
軽く頷く。
笑顔。
でも、その目は笑っていない。
「……じゃあ」
胸の奥が、少しだけざわつく。
「記憶が戻るの?」
戻るなら。
私は、私は――
「ううん」
即答だった。
「たぶん、まだ戻らない」
肩をすくめる。
「早く戻ってほしいのになぁ」
私は、彼女を見る。
越眼の光が、静かに揺れている。
「あなたは……戻りたいんだね」
そう言うと。
彼女は、少しだけ驚いた顔をした。
「あれ?」
瞬きをする。
「私は違うの?」
首を傾げる。
「ああ」
理解したように、笑う。
「戻ったら、自分がどうなるか分からないから?」
私の喉が、わずかに詰まる。
彼女は、手をひらひら振った。
「それは大丈夫だよ」
あっさりと。
「余程、私と離れた人格にならない限りは」
白い空間に、足を踏み出す。
歩いているのか、滑っているのか分からない。
「ちゃーんと綺麗に統合されるはずだから」
統合。
その響きに、背筋がぞくりとする。
「……あんまり」
思わず、呟く。
「似てない気がするけど……」
彼女は、楽しそうに笑った。
「似てるよ」
また即答。
まるで思考がわかっているみたいに。
「深層心理の部分が、特にね」
「深層心理……」
胸の奥に、重たい何かが沈んでいる。
怖いのに、止まれない。
避けたいのに、前に出る。
誰かが傷つくのを、見ていられない。
それが、私。
「……私は、何者なの?」
白い世界が、わずかに揺らぐ。
「どうして、私には剣がないの?」
問いが、溢れる。
「どうしてって」
彼女は、少しだけ眉をひそめた。
「逆だよ」
白い空間に、黒い線が一瞬だけ走る。
「剣が“ある”のが異常なの」
低い声。
「どうせ、あいつらが都合のいいように無理やり弄ってるだけだよ」
「あいつらって……」
踏み込もうとした、その瞬間。
彼女が、ぱち、と瞬きをした。
「あ、もう起きるや」
白が、揺れる。
私の輪郭が、薄れていく。
「待って」
手を伸ばす。
触れられない。
「まだ何も――」
指先が、透ける。
彼女は、少しだけ寂しそうに笑った。
「じゃあまたね」
越眼が、静かに光る。
「ずっと見てるから」
「待って、まだ――」
声が、白に溶ける。
世界が、崩れる。
その直前。
彼女が、小さく呟いた。
「……うーん」
顎に指を当てる。
「この記憶、残さない方がいいな」
越眼が、強く光る。
「世界よ」
静かに、告げる。
「この記憶を捧げる」
白が、歪む。
「私の介入時間を増やして」
「え……」
その一音だけが、残る。
そして、消える。
△▼△▼△▼△
白い世界は再び”シルア”が一人きりになる。
「ごめんね」
小さく、呟く。
「気づかれたら、負けなの」
越眼が、ゆっくり閉じる。
「でもー」
口元が、わずかに吊り上がる。
「記憶が戻ったら」
楽しそうに、空を見上げる。
「カムイって子、持ち帰らないとね〜」
くすり、と笑う。
白い世界が、静かに広がり続けた。
次回!二章!




