第一章・第四十二話 忘却回帰
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黒が、波のように押し寄せてくる。
石畳の隙間に入り込んだ影が、ぶくりと膨らみ、次の瞬間には人の形を取る。足音はない。冷たい空気だけが、足首から這い上がってくる。
私は剣を握り直す。指先が汗で滑る。
「……来る」
小さく呟いた声は、喧騒に呑まれた。
最初の影霊が跳ねる。
風を纏わせた刃で、横薙ぎに払う。切った感触は薄い。霧を裂くような抵抗と、わずかな手応え。黒い粒が散って、石の上に溶ける。
でもすぐに次が来る。
間を置かず、背後。
振り向きざまに小さな風を叩きつける。魔力を削る感覚が、喉の奥に苦い。
(対価が、足りない)
広場は広すぎる。豪奢な控室とは違う。対価たりうるものがない。
私は自分の内側を、削る。
刃にまとわせる風は、先ほどより薄い。それでも、足を止めるには足りる。
「シルア、左!」
リトリーの声。
振り向く前に、金属がぶつかる音が耳を打つ。リトリーが私の横へ滑り込み、影霊の刃を受け止める。
火花が散る。
「ぼーっとしてる暇ないって!」
「……してない」
言い返しながら、息が荒い。
リトリーは軽く舌を出すように笑って、すぐ次へ踏み込む。彼女の剣は迷いがない。無駄がない。影霊の首元を正確に断ち、黒を崩す。
その横で、アルティナの声が響いた。
「ちょっと、なんでこんなに影霊が出てくるのー!」
尻尾を膨らませ、両手で剣を握り直す。迫る影霊へ踏み込むと同時に、空気がぎゅ、と鳴った。
見えない圧が叩きつけられる。
影霊の胴が不自然に潰れ、石畳へめり込む。黒が弾け、霧散する。
「戦いは得意なんだから!」
笑っているが、額には汗が滲んでいる。
カムイが、その前へ一歩出る。
「止まれ」
低い声。
迫っていた影霊の群れが、一瞬だけ硬直する。足が空中で止まり、刃が振り下ろされる寸前で止まる。
「動くな」
続けざまに言葉が落ちる。
止まった黒を、アルティナが圧で砕き、リトリーが断ち、私が風で散らす。
形勢は、まだ保てている。
だが、視界の端。
広場の向こうへ、影霊が流れていく。
人々の悲鳴が、遠くで折り重なる。
「まずい……」
私の喉から漏れた声に、カムイが短く答える。
「分かってる」
彼は大きく息を吸い込む。
「止まれ!」
王都へ向かう影の群れが、ぴたりと動きを鈍らせる。
だが、その瞬間。
黒ずくめの暗殺者が横から斬り込む。
刃がカムイの腕をかすめる。血が滲む。
「邪魔すんなよ」
男が吐き捨てる。
カムイは歯を食いしばり、反撃で腹を蹴り飛ばすが、影霊の動きは完全には止まらない。言葉は効いている。だが、数が多すぎる。
「ティーナ、右だ」
「分かってる!」
アルティナが圧で地面ごと押し潰す。
石が砕ける音。粉塵が舞う。影霊が潰れて消える。
けれど、次が湧く。
次、次、次。
(きりがない)
私は一歩下がる。
背後。
アンリミが、その場に立ち尽くしている。毒で溶けた腕を抱えたまま、震えている。
「アルアは……守ってる、はずで……」
呟きは、か細い。
ここから動かせない。
さっきの転移は無理だ。対価がない。私の魔力だけで相応の現象を起こせば、今度こそ立てなくなる。
どうする。
剣を振るう。
風を叩きつける。
喉が焼ける。
視界が、わずかに揺れる。
(このままじゃ、押し切られる)
ふと。
記憶の端に、引っかかるものがあった。
(……あれ)
私はリトリーを見る。
「リトリー!」
「なに!?」
剣を弾きながら、こちらへ顔だけ向ける。
「あれ、出して」
「あれ?」
「スレインに入って、最初にたくさん買わされたやつ。全部」
リトリーの目が瞬く。
「え、ちょ、あのガラクタ? なんで今それ!?」
影霊が背後から迫る。
私は風で弾き、歯を食いしばる。
「いいから、全部!」
声が少し強くなる。
リトリーは一瞬だけ私を見つめ、それ以上は聞かなかった。
「……分かったって!」
リトリーは指を鳴らすように、剣を軽く振る。
次の瞬間。
何もない空間から、どさり、と音を立てて物が落ちてくる。
瓶、札、紐、光る石、よく分からない布、よく分からない香、そしてよく分からない――何か。
空から、次々と。
石畳にぶつかる音が、連続する。
「うわ、ちょ、これ邪魔なんだけど!」
アルティナが叫ぶ。
「ごめん、今だけ!」
リトリーも叫び返す。
私は、その山を見る。
全部いらないもの。
でも。
これは私たちの有り金のほとんどを使って手に入れたものだ。
十分な価値。
壊しても、誰も困らない。
胸の奥が、静かに決まる。
(これで、足りるはず)
私は剣を胸の前に構える。
とにかくアンリミを安全なところへ連れて行かないと。
周囲の空気がざわめく。
対価として、積まれたガラクタが、きし、と音を立てる。
まだ小さい。
でも。
ここから、押し返す。
石畳の上に積み上がったガラクタが、鈍く光を反射している。
瓶、札、紐、光る石、よく分からない布、よく分からない香。
どれも売り物としては三流以下だ。
だからこそ、騙されたとしても重さも、悔しさも、覚えている。
私は目を閉じる。
(これで、足りる)
胸の奥に沈めていた感覚を、引き上げる。
願いは、形にしなければならない。
曖昧では届かない。
私はゆっくり息を吸う。血の匂いと、影霊の冷気が混ざる。
一番安全なのはアルアのいるところ。それでアンリミの精神状態も安定するはず。
私は願う。
私たち五人を、アルアのもとに――
△▼△▼△▼△
「うん、十分だね」
「シルア?」
リトリーはシルアの雰囲気が少し変わった気がしたと思った。
それは確かにシルアなのにどこか余裕じみたものを感じる。
「世界よ。このガラクタと王都内の意識のない者たち、そしてその剣を捧げる。この場の影霊全てを消し去って」
シルアはそう言った。
対価として、積み上げたガラクタが軋む。
金属がきし、と鳴る。
風が止まる。
一瞬、静寂。
次の瞬間。
ガラクタの山が、内側からひび割れた。
細い光が、ひとつ、ふたつ、走る。
倒れている暗殺者たちは光となって消えていく。
「……なに、これ」
リトリーの声が、かすれる。
「――っ!」
カムイの動きが止まる。
ひびは広がる。
全てのガラクタが砕け、倒れた暗殺者たちが消えたと同時に影霊、大影霊の内側から光が溢れ出す。
光が放射状に広がる。
白でもなく、金でもない。透明に近い、強い光。
それが大影霊たちの黒い巨体を内側から焼いていく。
「それは……」
カムイはアルアの決闘の時にルネアに言われた。
自分の、世界への命令でアルティナが死んでたと。
だから――
「だから、じゃないよ。えーと……カムイ? もっとね、細く伝えればいいの。 結果を伝えるんじゃなくて、過程を伝えてあげればそうしてくれる。 ……だって世界は優しいだもん」
シルアが笑みを浮かべて言ってくる。
その笑みはカムイが見たことのない表情だった。
「シルア……なのか?」
「何言ってるの? 当たり前じゃん。 だから、早く私の記憶を――」
△▼△▼△▼△
「……っ!?」
クロウの声が跳ねる。
大影霊の胸の奥から、光が滲み出す。
裂け目が走る。黒の内側に、白い筋。
腕が崩れる。
角が砕ける。
影で出来た巨体が、砂のように崩落する。
音は、ない。
ただ、黒が崩れ、光が満ちる。
ひとつ。
ふたつ。
周囲を取り囲んでいた大影霊が、次々と内から焼かれ、輪郭を失う。
最後に残った一体が、ゆっくりと振り向く。
だがその動作の途中で、胸が裂け、光が溢れ、完全に霧散した。
白い粒が、空気の中で溶けていく。
石畳の上には、黒も、巨体も、残っていない。
クロウが目を見開いた。
「……は? 何だ今の」
軽い調子が、消えている。
「大影霊が……消えた?」
信じられないものを見る顔。
私は膝がわずかに震えるのを押さえながら、立っている。
「……あれ」
たしかアルアのもとに転移しようとして……そしたら影霊が消えている。
ガラクタの山は、跡形もなく砕け散っている。
光の残滓が、石の上で粉のように崩れていく。
私が願った?
リトリーとカムイが私を……なんだか変な目で見ている。
アルティナは――ぽかんと口を開けていた。
「え……」
アルティナの足元に転がる、粉になった金属片。
「ちょ、ちょっと待って……それ、私の……」
尻尾が、ゆらりと揺れる。
「私の恋運の瓶が〜!!」
悲鳴に近い声が広場に響いた。
「将来きっと……と結ばれるって言われた謎の鈴とか、運気上がるって言われた変な板とか……全部入ってたのに〜!」
アルティナは本気で肩を落とす。
耳がぺたりと伏せる。
その一瞬。
黒ずくめの暗殺者が、横から斬り込んだ。
「影霊が消えたのは驚いたが邪魔者も減るならトントンよぉ、隙ありー!」
低い声と共に、刃が振り下ろされる。
私は息を呑む。
「アルティナ!」
だが。
アルティナは振り向かない。
視線は粉になった残骸のまま。
「……うるさい」
ぽつりと、言った。
次の瞬間。
空気が圧縮される。
見えない力が、暗殺者の身体を包む。
ぐしゃ、と嫌な音。
男の身体が、その場で押し潰された。
石畳にめり込み、動かなくなる。
アルティナはようやく顔を上げる。
「あんたたちのせいで……」
尻尾が、ぴんと立つ。
目は、笑っていない。
けれど戦えはしそうだ。
私は、小さく息を吐く。
大影霊は消えた。
けれど、暗殺者たちはまだ残っている。
粉になったガラクタの残骸が、風にさらわれていく。
胸の奥で、ひとつ確かな実感だけが残っていた。
――まだ、戦える。
粉になったガラクタが、まだ風に舞っている。
光の残滓が、影霊を焼いた余熱のように、空気をわずかに温めていた。
けれど、その中心で。
アンリミは、まだ動いていない。
焼けただれた腕を胸に抱え、俯いたまま。
「どうして……」
掠れた声が、地面に落ちる。
「どうして、アルアが……」
私は駆け寄る。
足元で影霊の残骸が霧のように消えていく。血と石と焦げた匂いが混じる。
「リミちゃん!」
肩に手をかける。
細い身体が、びくりと震える。
「立って」
私の声は思ったより強かった。
アンリミは顔を上げない。
「だって……アルアが、守ってくれてるはずで……」
焼けた皮膚が赤黒くただれている。
「アルアがいないと……私……」
その言葉は、途中でほどける。
越眼は開いたままなのに、焦点が合っていない。
私は唇を噛む。
対価は、もうほとんどない。
でも。
(これは、使う)
胸の奥から、魔力を引き出す。
削れる感覚が、はっきりと分かる。
冷たいものが内側を擦る。
私はアンリミの腕に手を重ねる。
「……癒えて」
小さく、思う。
光ではない。風でもない。
ただ、修復。
対価は、私の魔力。
喉の奥が焼ける。視界の端が白む。
アンリミの皮膚が、じわりと動く。
ただれた箇所が、ゆっくりと塞がっていく。赤が薄れ、裂け目が閉じる。
アンリミが息を呑む。
「……え」
私は顔を上げる。
「リミちゃん」
声が少し震えた。
「立って」
アンリミが、ようやく私を見る。
その瞳に、私が映っている。
影霊を焼いた光がまだ残っていて、私の背後で揺れている。粉になったガラクタが舞い、白い粒がきらめく。
「シルアちゃん……」
唇が震える。
「アルアは? アルアがいないと、私……」
その言葉の続きを、私は聞かない。
「今はいない」
はっきり言う。
胸が、少し痛む。
「でも……」
私は手を差し出す。
「代わりにはならないけど……私がいるから」
自分でも、驚くくらい迷いがなかった。
「だから、立って」
アンリミの瞳が揺れる。
その奥で、何かがほどける。
光が、私を照らしている。影霊の黒を焼いた残光が、戦場の煙と混ざり、白く揺れている。
アンリミは、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が触れる。
細くて、冷たい。
ぎゅ、と握られる。
私は力を込めて引き上げる。
アンリミの身体が、ぐらりと揺れながらも立ち上がる。
小さく息を吸う。
「……ごめんなさい」
かすれた声。
「私、聖女なのに」
俯いたまま、でも立っている。
背中の剣が、淡く光を取り戻す。
私は小さく首を振る。
「聖女とかどうでもいいよ」
それだけ言う。
アンリミが、ほんの少しだけ笑う。
アンリミもなんとか動けるようになった。
あとはクロウたちをどうにかするだけ。
そう思った瞬間。
影が、揺れた。
足元。
アンリミの影が、不自然に濃くなる。
冷たい気配。
「……っ」
振り向くより早く。
黒が立ち上がる。
影から、するりと女の身体が現れる。
シャルラ。
無表情のまま、アンリミとの距離はゼロ。
振り上げられた剣が、光を裂く。
アンリミの首元へ、一直線。
「――!」
叫びは、間に合わない。
刃が振り下ろされる。
鈍い音。
そして。
私の目の前に、赤が散った。
次回!クロウの苦労!




