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第一章・第三十六話 聖女が苦手な人

翌朝。


外縁の街は、朝からうるさかった。

叫び声が減る代わりに、交渉の声が増える。

荷車の軋みと、金属の鳴る音と、甘い匂い。


馬車に乗り込む時点で、もう袖を引かれそうになる。


「お客さ――」


「本当にお金ないからごめんなさい!」


リトリーが先に言って、半分怒鳴るみたいに馬車へ飛び込んだ。

アルティナも尻尾を固くして、カムイの背中にぴったりついていく。


私が最後に乗ると、扉が閉まった。


「ふぅ」


外の声が壁一枚で切れる。

それだけで、胸の奥が緩む。


揺れ出した馬車の中で、リトリーは窓の外を見て、ぽつりと言った。


「……ねえ。聖女さまとアルアさん、すごいよね」


「すごいって、どこがです?」


「結局さ、昨日は何も買わされてないじゃん? 私たちは有り金全部使っちゃったのに」


言われて思い出す。

昨日、私たちの床には山ができたのに。

食事をするために外へ出た時も、商人たちは二人にも擦り寄っていたのに――アンリミとアルアは、見事に何も買わなかった。


アンリミが、膝の上で手を揃えて笑う。


「何度か来ていますので、慣れました」


「慣れるって……慣れるもんなんだ……」


リトリーが感心したように言う。

アルティナは、尻尾をくるっと前に回して抱えたまま、眉を下げた。


「私は……何度来ても買っちゃいそう。昨日だって……」


「ティーナは無理だろうな」


カムイが淡々と言って、アルティナの尻尾がびしっと跳ねた。


「カムイだって人のこと言えないからね!」


「俺はもうしない」


「そんなの、わかんないじゃん!」


リトリーが笑って、私も小さく息を漏らした。


アンリミは、少しだけ視線を落とした。


「……ですが」


その“ですが”が、馬車の揺れよりも大きく聞こえた。


「それでも何度も来ても、慣れないものもありまして」


アルティナが首を傾げる。


「慣れないもの?」


リトリーも、空気を読むみたいに声を落とす。


「なにそれ。交渉とか?」


アンリミは首を横に振った。

小さく。


「そういうのでは……ないです」


私は、アンリミの横顔を見た。

彼女の視線は、どこか遠い場所に向いているように見えた。


「それって何なの?」


思わず聞く。


アンリミは私を見て、少しだけ笑った。

笑ったのに、声が軽くない。


「……それは――」


△▼△▼△▼△


王都の門をくぐった先は、最初の街とは比べものにならないくらい、人と荷馬車でいっぱいだった。

少し先には大きな王城も見えている。


ソルニアのものと比べるとどうしても見劣りする。

それでも、充分に立派な城だ。


「無事に王都に着きましたね。私はこれから王様にご挨拶してきます」


アンリミが言うと、リトリーが「おお」と声を漏らす。

アルティナも「王様……」と尻尾を小さく揺らした。


最初の街と同じように、アルアだけがついていき、私たちは自由行動。

そう聞いていた。


「……シルアちゃん」


アンリミが、私の方を向く。


「一緒に来てください」


「え」


声が変なところで裏返った。


アンリミは、笑ったまま、でも目が真剣だった。


「ちょっと、嫌な予感がするんです。だから」


その言葉だけで、私の背中にも冷たいものが走る。


アルアは眠そうな目で、街の向こうを見ている。

王城へ続く道の、その先を。

そこに、いつもよりわずかに集中した気配があった。


△▼△▼△▼△


嫌な予感は早速当たった。

思ってもいない形で。


「……え」


なぜか私は、男装させられた。


胸が潰れている。

髪がまとめられている。

薄銀の髪が、男の髪型みたいに整えられている。


そして、服。

黒い上着に、細い飾り紐。

襟元が硬い。

肩が少し広く見える。


「……何これ」


「シルアちゃんは、静かにしていれば大丈夫ですからね」


何が大丈夫なんだろう。

嫌な予感が、輪郭を持つ。


△▼△▼△▼△


王城の中は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。


足音が吸われる。

壁の装飾が、金と黒でできている。

白い石の国とは違う。

光り方が、硬い。


廊下を歩く間、アンリミは私の腕に自然に絡めるように手を置いた。

“自然に”見える距離。

でも、私は腕の内側が熱い。


「緊張しますね」


アンリミが、聖女の声で言った。

その声は、周囲の侍従にも聞こえるように整っている。


「……うん」


私の返事は短い。

短い方が、変な声が出ない。


角を曲がったところで、アンリミを呼ぶ声がした。


「アンリミちゅわ〜ん!!」


アンリミが反射で身を引いた。

私の腕を絡める力が少し強くなる。


オタブッタ・スレイン。

この国の王子だった。


――そして、アンリミが馬車で「慣れない」と言っていた相手。


ぽっちゃりした頬が汗で光っていて、目はきらきらしている。

剣は腰にあるのに、飾りみたいに見える。


「アンリミちゃん! ぼくたん! ぼくたんだよ!! 分かる!? あっ、分かるよね!? 分かるに決まってるよね!? だってぼくたんは君の――」


「お久しぶりです、オタブッタ様」


アンリミが、聖女の笑顔で言った。

完璧な声。

完璧な角度。

完璧な距離。


その完璧さが、逆に冷たい。


「ひゃっ……!」


オタブッタが嬉しさで変な声を出した。


「お久しぶり! お久しぶり!! 聞いてよアンリミちゃん、ぼくたんね、君が来るって聞いた瞬間からね、もうね、夜も眠れなくてね、でも眠れないってことはね、これは君を想う時間が増えたってことだって――」


「はい。とても素敵です」


アンリミは、にこにこしている。


「それでね! ぼくたん、君のことを思うとね、胸がね、どきどきしてね、そしたら思ったんだよ、これは生きてる証だって――」


「オタブッタ様」


アンリミが微笑む。

そして、私の腕を――ぎゅっと、見せつけるように組んだ。


私は、咄嗟に体を固くした。

男装の服の硬さが、余計に自分の心臓を意識させる。


オタブッタの言葉が、そこで止まった。


視線が、アンリミの顔から、私の腕へ落ちる。

そして、私の顔へ。


「……え」


オタブッタの口が、半開きになる。


「……そ、そそ、その男は」


恐る恐る――が、ぴったりの速度だった。


アンリミは、満面の笑みになった。

聖女の笑み。

でも、その奥に、子どもの悪戯みたいな色が混じっている。


「私の婚約者です」


一瞬、世界が止まった。


私の中で、何かが落ちた。


――婚約者?


内心で驚いて、でも顔は動かせない。

動かしたら全部崩れてしまう。


オタブッタは、膝から崩れ落ちた。


「……っ、ぼ、ぼくたんの……アンリミちゃん……」


崩れる音が、妙に大きく響いた。


周囲の侍従が目を逸らす。

見なかったことにする動きが揃っている。

この国の秩序は、こういう方向に使われるのかもしれない。


沈黙が、長い。


その沈黙を破ったのは、アルアだった。


「さ、聖女さまー。スレイン王がお待ちでしょうし、このブ――……オタブッタさまは気にせず、行きましょうーかー」


……今、絶対「ブタ」って言いかけた。


アンリミは勝ち誇ったようにオタブッタを見下ろして、優雅に頭を下げた。


「ではオタブッタ様、ごきげんよう」


そして私の腕を引いたまま、歩き出す。


私は、歩きながらも、膝から崩れた王子の姿が視界の端に残っていた。

悪いことをしている気がする。

でも、アンリミの手は震えていなかった。


しばらく進んだところで、アンリミが小さく息を吐いた。

聖女の顔が、少しだけほどける。


「……ごめんね、シルアちゃん。こんなことさせて」


「いや、驚いたけど……大丈夫だよ」


大丈夫、という言葉は便利だ。

大丈夫じゃない時にも使える。


アンリミは、私の顔を覗き込むみたいに見た。


「そうですか。それなら、よかったです」


言ってから、ふっと笑う。


「でも、シルアちゃん、本当に似合ってますね。なんなら本当に結婚とか……」


「え」


足が止まりかける。

心臓が、変な音を立てた。


アルアが前から振り返って、眠そうに言った。


「アンリミちゃんさんや、もうすぐ謁見の間だから、聖女らしくしてねー」


アンリミが、ぱっと顔を戻した。


「もう! わかってます!」


その声の切り替えが早すぎて、私は逆に現実に引き戻される。


廊下の先に、大きな扉。

兵士。

整った空気。


アンリミは私を一度だけ見て、優しい声にした。


「シルアちゃんは、王様とのお話が終わるまで、そこのお部屋で待っていてくださいね」


「うん」


言って、私は扉の横の小部屋へ案内された。


△▼△▼△▼△


部屋に入ると、空気が違った。


匂いが薄い。

布と木と、磨かれた金属の匂いだけ。

窓は大きくて、外の白い光が、床に淡く落ちている。


机があって、椅子があって、壁に絵が掛かっている。

それだけで“立派”なのが分かる。


そして机の上に、果物が置いてあった。


リンゴやブドウ、バナナ。

見たことのない形もある。


……食べていいのだろうか。


私は椅子の前で一度止まって、周囲を見た。

誰もいない。

扉は閉まっている。

静か。


迷って、でも喉が鳴った。


一つ、手に取る。

冷たい。

匂いが甘い。


「……少しくらいいいよね」


自分に言い訳して、齧った。


果汁が、口に広がった。

甘いのに、少し酸っぱい。

舌がびっくりする。


頬張りながら、私は椅子に座って待った。


扉の向こうで、遠くの気配が動く。

王の謁見。

アンリミの声は聞こえない。

でも、何かが進んでいるのは分かる。


二つ目に手を伸ばそうとした瞬間――


ノックが、乱暴に鳴った。


返事をする前に、扉が開いた。


「貴様……!!」


入ってきたのは、オタブッタだった。


顔が赤い。

さっき崩れた膝が、もう治っている。

王子の心は強いのだろう。


「よくもぼくたんのアンリミちゃんを……!!」


私は果物を口に入れたまま止まった。


(どうしよう)


逃げる?

でも扉は王子が塞いでいる。

戦う?

さすがにない――ここで騒ぎを起こしたら、アンリミに迷惑がかかる。


私は果物を飲み込んで、声を出す。


「……あの」


「あのね!」


オタブッタは、私の言葉を遮って息を荒くしながら、でも次の瞬間、急に早口になった。


「そもそもだよ!? アンリミちゃんはね!? ぼくたんが初めて見た瞬間からね!? 天から降りてきた光みたいでね!? いや光じゃなくて雪みたいでね!? でも冷たくないんだよ!? むしろ温かくてね!? ぼくたんの心がね!? 浄化されてね!? そしたらぼくたんの暗かった世界が――」


語り出した。


止まらない。

息継ぎが少ない。

内容が、全部アンリミだ。


ソルニアの人たちみたいだ。

聖女を見て、目が“推し”になるあの感じ。


違いは――ここには信仰がない。

欲がある。

でも本人は、それを欲だと思っていない。


オタブッタは、机の前まで来て、私を指差した。


「それで貴様! 貴様はアンリミちゃんのどこが好きなんだ! 言ってみろ!」


「え」


質問が急すぎて、頭が追いつかない。


好き?

どこがって?

私はアンリミのことが――


胸の奥が、勝手に熱くなる。

でも、それを言葉にする準備は、どこにもない。


「……えーと」


間が空く。

オタブッタは、その間すらポジティブに捉えた顔で見ている。


私は、よく分からないまま答えることにした。


「……可愛いところ……とか」


言った瞬間、オタブッタが叫んだ。


「貴様!!」


まずかった。

やっぱりまずかった。


私は肩を固くした。

どうしよう。

もう少しちゃんと回答した方が良かったかもしれない。


でも次の瞬間。


オタブッタの顔が、ぱあっと明るくなった。


「わかっているじゃないか!!」


「え」


「そうだよね!? 可愛いんだよね!? そうなんだよ!! 分かる!? 分かるよね!? ぼくたんもね、最初はね、可愛いだけじゃないって思ったんだけどね、結局は可愛いに行き着いて――」


また語り始めた。


私は、椅子に座ったまま、笑顔を作った。

作り笑顔。

頬が引きつる。


(終わらない……)


オタブッタは、嬉しそうにアンリミの良さを語る。

私は果物をもう一口齧って、咀嚼しながら聞くふりをした。

うなずくタイミングだけ、間違えないように。


扉の外で、足音が近づく。


救いの足音。


扉が開いて、アンリミとアルアが入ってきた。


「シルアちゃん、お待たせし――」


アンリミの声が止まる。

見たことのないような、絶望の表情。


部屋の中に私と――

そして、私の前で身振り手振りをしながら語り続けているオタブッタ。


私は、呆れながら、でも笑顔を崩さずにいた。

崩したら、ここまで耐えた意味がない気がした。


オタブッタが、ようやくアンリミに気づいた。


「アンリミちゃん!! やっぱりぼくたんに会いたかったんだね!!」


オタブッタがアンリミに駆け寄ってくる。

勢いがすごい。

床が揺れる。


アンリミは、微笑んだまま一歩下がった。


そして。


見なかったものとして、静かにドアを閉じた。


扉が、ぴたりと閉まる音。


私は、その音の後に残った沈黙が、さっきまでの早口よりも怖いことを知った。

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