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第一章・第三十五話 高すぎる出費

白い舗装のきめ細かさが消えて、石が荒くなる。

車輪が小さく跳ねるたび、クッションの柔らかさが逆に落ち着かなかった。


窓の外の景色も、いつの間にか白を脱いでいた。


ソルニアの光はまだ降っている。


国境を越えたはずなのに、消えない。


「……変だね」


私が呟くと、隣のリトリーが欠伸まじりに頷いた。


「うん。もうソルニアを抜けたから止んでもいいと思うんだけど」


アルティナが窓に鼻先を寄せる。


「影霊全然出てこないね。こんなに進めば一体くらいは出てくるのに」


カムイが短く言った。


「……光だろ」


それだけ言って、目を閉じる。

でも、その耳は窓の外の気配を拾うみたいに微かに動いていた。


いくらアンリミが光を降らしているかと言っても普段は降っていない場所。


何が起きてもおかしくない。


それに聖女を狙う組織なんかこういう国外が最も狙いやすいはず。


油断しないようにしないと。


△▼△▼△▼△


何も起きなかった。


起きなさすぎて、途中で逆に不安になったくらいだ。


道端で横転した荷車も、森の影も、川沿いの橋の下も。

影霊が出てきそうな場所ばかり通ったのに、黒い輪郭は一度も立ち上がらない。


ソルニアの光が、境目を忘れたみたいに降っている。


白い粒が、風に舞って、馬車の窓にふわりと張り付いては溶ける。

冷たくない。

指で触れたら、たぶん、すぐ消える。


「……え、これ。快適すぎない?」


リトリーが伸びをしながら言った。


「ね。なんのトラブルもなく着いちゃったね」


「戦闘とかあったら、私、お役に立てたのに」


アルティナが尻尾をしゅんとさせる。

その尻尾が、クッションに沈んで見えなくなった。


カムイが目を開けて、淡々と言った。


「何も起こらない方がいいだろ」


「それはそうだけどさぁ」


アルティナがむっとして、カムイの膝を尻尾で叩く。

カムイは無言で受ける。


私は窓の外を見ていた。


遠く、地平線の色が変わる。

空の下に、線みたいに建物が増えていく。


それが近づくにつれて、線は塊になって、塊は――人の熱になる。


まず、音が来た。


馬の蹄の音。

車輪の軋み。

金属同士が擦れる高い音。


それに混じって、声。

怒鳴り声じゃないのに、強い声。

笑い声。

駆け引きの声。


「……スレイン、って」


思わず呟く。


まだ端っこだ。

城門すら見えない。


なのに、道がもう――道じゃない。


人が行き交っている。

荷車がすれ違っている。

背中に荷を積んだ人が、隙間を泳ぐみたいに通っていく。


そこらじゅうに看板が立っていて、文字が踊っている。

知らない言葉も混ざっている。

でも、値札の数字だけは、どこでも同じ顔をしていた。


「ここが……スレインか」


言った瞬間、リトリーが笑った。


「まだ入口だよ。たぶん、ここからもーっとやばいと思うよ」


「やばいって、何が?」


「それはもちろん、全部がだよ」


最初リトリーが何を言っているかわからなかったけど、後でようやくその意味を理解した。


△▼△▼△▼△


馬車は、スレインの外縁の街に入った。


外縁、という言い方が合っているのか分からない。

外側なのに、すでに市場みたいだった。


人の流れが、川みたいに動いている。

そこへさらに別の川が合流して、ぶつかって、渦になる。


建物は高い。

白い石じゃなく、濃い色の煉瓦。

壁には布が垂れていて、布に紋が染められている。


香りも濃い。


甘い焼き菓子の匂い。

油の匂い。

香辛料の匂い。

金属の匂い。

汗の匂い。


全部が混ざって、息をするだけで舌が忙しい。


馬車が大きな商館の前で止まる。


アンリミは馬車を降りると、すぐ聖女の顔に切り替えた。

背中の剣が、薄く光っている。


その光が、周囲の空気をほんの少し柔らかくしている気がした。

人の視線が集まるのに、ソルニアみたいな信仰にならない。

代わりに――「値踏み」みたいな視線が混ざる。


スレインの目は、神じゃなくて金を見る。


アルアが前に出て、淡々と言った。


「じゃあ、ボクたちは町長さんと話があるからー」


アンリミも頷く。


「皆さんは、お話が終わるまで街でも観光していてください。……あまり、奥に入りすぎちゃいけませんからね」


最後の一言だけ、聖女じゃない声だった。


「わかった」


私は答えた。

答えながら、アンリミの指先がほんの少し震えているのを見た。


アンリミが私を見て笑う。

越眼が、柔らかく細まる。


「シルアちゃん、あとで合流しましょうね」


「うん」


それだけで、胸の奥が変に熱くなる。


アルアは一度だけ私たちを見て、眠そうなまま手を振った。


「困ったら、さっさと逃げるんだよー」


忠告なのに、子どもに言うみたいな口調だった。


アンリミとアルアは、人の流れを割って行く。

聖女が歩くと、自然に道ができる。

でも、できた道の両側で、商人たちの目が光る。


――金の匂い。


私たちは、そこから少しだけ距離を取って歩き始めた。


△▼△▼△▼△


「……ねえ、これ見て」


リトリーが指さしたのは、小さな露店だった。


机の上に並んでいるのは、透明な瓶。

中に入っているのは、色のついた砂。


瓶の口を塞ぐ布には、細い金糸が刺繍されている。

見た目だけなら、綺麗だった。


値札を見た瞬間、私は目を細めた。


「……すごく高い」


アルティナが覗き込んで、「えっ」と声を漏らす。


「これ、一瓶で……宿、三泊できるよ?」


カムイが短く言った。


「買うなよ」


「そうだよ。買っちゃダメ」


私が言うと、リトリーも頷く。


「もちろん買わないよ。こんな値段……誰が買うんだろ」


言った瞬間だった。


「お嬢さん方! 見る目があるね!」


振り向くと、露店の主がにやにや笑っていた。

髭が濃い。

指が細い。

目が、ギラギラと光っている。


「その瓶はね、ただの砂じゃない。ほら、こっち来て、説明するよ」


「いらないから結構でーす」


リトリーが即答する。


「まあまあ、そう言わず。説明だけでもいいから、損はない!」


「損しかしない」


「お嬢さん、冷たいなあ。――じゃあ、こうしよう。試しに一粒だけ、無料で見せてあげよう」


男は勝手に瓶を開けて、砂をほんの少し指に取った。


そして、ぱっと空に撒いた。


砂は風に舞って、陽の光を受けてきらきらした。

一瞬だけ、虹みたいな色が揺れる。


「ほら! 見たろう? スレインの祝福だよ。旅の安全、金運、恋運――全部良くなる!」


アルティナの尻尾がぴくっと動いた。


「恋運?」


「おっと、お嬢さんは恋に困ってる顔だ」


「い、いや、困ってないよ!」


即座に否定して、アルティナはカムイを見た。

カムイは知らん顔をしている。


男がにやりと笑う。


「まあまあ、今は困ってなくてもいい。でも困ったときに困るんだよ」


意味が分からない。


私が口を開こうとしたら、男は私の方を見て言った。


「お嬢さんたち、この国に初めてきたんだろう?」


「……なんでわかるの」


「靴がね。歩き方がね。視線がね。――この国の人間は、こうやって街を見る余裕はないんだよ」


言葉が、妙に優しいところに触れてくる。

嫌な優しさだ。


リトリーが間に入るみたいに言った。


「だからって買わないよ。お金ないし」


「ない? じゃあ、作ればいい」


男が笑って、別の瓶を出した。

今度は小さい。

さっきの半分くらいの量。


「これは特別。この街限定。――お嬢さんたち、今なら三人で割れば安い!」


「割るとかじゃなくて高い」


「高くない。だって三分の一じゃないか」


その理屈はおかしい。

意味が分からない二回目。


私はため息を吐いて、踵を返そうとした。

その瞬間、男がさらっと言った。


「……聖女さまの同行者だろう?」


足が止まる。


リトリーも止まる。

アルティナも止まる。

カムイだけが、少しだけ目を細めた。


男は、何でもないみたいに続ける。


「噂は早いんだよ、スレインは。聖女さまが来たってだけで、皆そわそわしてる。

護衛の不滅聖城も一緒。なのに、お嬢さんたちは別行動。――そりゃ、目立つ」


目立つ。

その言葉が、肌に刺さる。


「……何が言いたいの」


私が言うと、男は肩をすくめた。


「いや、言いたいことなんてないよ。ただね」


男は瓶を机に置いて、指先で軽く叩いた。


「この国では、顔が広い方がいいって話。だからだから買っておいた方が良い」


リトリーが口を開く。


「……そういうの、信じれない」


「信じなくていい。買ってくれればね」


「買わないって」


「じゃあ、持っときな。――危ない時に振りかければ、影が寄らない」


私は息を止めた。


影霊、とは言わない。

でも、“影”って言い方が、やけに現実に沿っている。


男の目が、私の反応を楽しんでいる。


「ほら、君。怖いだろ?」


怖い。

そう言われて、怖くなるのが悔しい。


カムイが低い声で言った。


「……行くぞ」


それで終わるはずだった。


でも、男は最後に、軽く笑って言った。


「恋は実るし旅は安全になるのになあ。もったいないもったいない」


その言葉が、妙に滑った。


確かにもったいない。


気づいたときには、私とアルティナの手に小瓶が乗っていた。


「え」


「はい、これで半額。いや、三割引。いや、まだいけるな、特別に二割引でいい!」


値引きの順番が逆なのに、勢いだけで押し切られる。


なぜか反論できない。


リトリーもいつの間にか別の瓶を持っていた。


「ちょ、私、お金ないって言ったよね?」


「別に買えないわけじゃないでしょ、大丈夫大丈夫!」


アルティナは、砂の色が可愛い瓶を抱えている。


「これ、恋運……」


「そんなわけないだろ、さっさと棚に戻せ」


カムイが言いながら、手に何かを持っている。

黒い紐みたいなもの。

首飾り?

よく分からない。


「……カムイ」


「……気になってるだけだ」


「買う気じゃん」


「買ってない。……まだ」


そう言った瞬間、男が手を叩いた。


「はい、交渉成立! それじゃ、お代はこっちだ!」


おかしい。

気持ちは拒否しているのに体がいうことを聞かない。


言葉の間に、財布の紐をほどかれているみたいだった。


リトリーが「待って待って」と言いながらも、小銭袋を出す。

アルティナも、「え、え」と言いながら出す。

私も、断るべきなのに、断る言葉が出ないまま出す。


そして、カムイも――渋い顔で、出した。


お金が、消えた。


小瓶と紐と、よく分からない木彫りの札が残った。


男は満面の笑みで手を振った。


「また来な! 今度はもっといいのを売ってあげよう!」


来ない。

絶対来ない。


私がそう思っている横で、リトリーが小さく呟いた。


「……今の、なに」


アルティナも呟く。


「……私、なんで買ったの」


カムイが、眉間に皺を寄せたまま言った。


「……何のせられて買ってんだ」


その声で、やっと我に返った。


私は手の中の小瓶を見下ろす。

綺麗だ。

でも、綺麗なだけだ。


リトリーが唇を尖らせる。


「カムイだって買ってるでしょ!私たちのこと言えないじゃん」


「……買ってない」


「じゃあ手に持ってるそれは何?」


アルティナが頷く。


「買ってるね。手にしっかり持ってる。」


「……俺は、気になっただけだ」


「気になってるうちに、買ってるんだよ」


リトリーがため息を吐く。

でも、ちょっと笑っている。


「まあまあ、一個くらいいいじゃん。……ちょっと高い出費だったけど……」


「ちょっとじゃない」


私が言うと、リトリーは肩をすくめた。


「うん。ちょっとじゃないね」


認めるのが早い。


私たちは、変な沈黙のまま歩き出した。


――そして。


次の角を曲がった瞬間、また声が刺さった。


「お客さん! お客さんたち、旅人だろ!」


今度は、別の声。

別の商人。

別の笑顔。


手には、妙に立派な箱。


箱の蓋が少し開いていて、中で何かが光っている。


「ちょっと待って、今度こそ――」


リトリーが言いかけた時には、もう遅かった。


△▼△▼△▼△


夕方。


街の商館の客室は、思ったより静かだった。

外の喧騒が嘘みたいに、厚い壁が音を削っている。


その代わり、部屋の中がうるさい。


床に、物が積まれている。


瓶。

札。

紐。

光る石。

よく分からない布。

よく分からない香。

よく分からない――何か。


私は壁際に座って、その山を見ていた。


見ているうちに、だんだん笑えてくる。

笑えなくて、笑えてくる。


扉がノックされる。


「失礼します」


アンリミの声。


入ってきたアンリミは、聖女じゃない顔だった。

疲れてるのに、ほっとしたみたいな顔。


後ろからアルアも入ってくる。

眠そうなまま、視線だけで部屋の中を見回した。


そして、床の山に視線が止まる。


アンリミが瞬きをした。


「……シルアちゃん」


私が顔を上げる。


「……なに」


アンリミは、山を見て、それから私を見る。

本気で不思議そうに首を傾げた。


「そんなにたくさん買って……何に使うのですか?」


私は、喉が鳴った。


「えっと……わからない」


自分の声が情けない。


「なんか、いつの間にか……たくさん買っちゃって」


リトリーがベッドに倒れ込んだまま言う。


「スレイン、こわい」


アルティナは床に座って、買った布を広げている。

布の模様は綺麗だ。

綺麗だから余計に腹が立つ。


カムイは腕を組んで壁に寄りかかり、無言で天井を見ている。


アルアが、鼻で笑った。


「……ハッ」


私のこめかみが、ぴきっとした。


アンリミがすぐアルアを見て、少しだけ眉を寄せる。


「アルア、笑わないでください。皆さん、きっと……色々あったんです」


「色々、ねー」


アルアは眠そうなまま、床の山を見ている。


「……だまされまくっただけでしょ」


言い方が淡々としている分、刺さる。


リトリーが枕に顔を埋めて呻く。


「うぅ……」


アルティナが、布を抱えて言い訳みたいに言う。


「だって、すごい話術だったんだよ。あれ、剣能力じゃない?」


「剣能力だったら、もっと分かりやすいはずだ」


カムイがぼそっと言う。


確かにカムイの言う通りだ。

剣能力ならもっとわかりやすいはずだし、何人もが同じ能力なはずがない。


「……スレインは、そういう国です」


言ったあとで、アンリミは自分の言い方が固かったことに気づいたみたいに、口元を緩める。


「でも……無事でよかったです。お金がなくて体を売ったりしなくて」


聖女がなんかすごく怖いこと言った。


アンリミは手を合わせて、急に明るい声を出した。


「皆さん、晩御飯はまだですか? さっき、とても美味しそうなお店を見つけまして」


リトリーが顔を上げる。


「え、行く」


アルティナも尻尾をぶんぶん振る。


「行く!」


カムイも「……」と目を逸らしたまま、でも否定しない。


私は、その勢いに乗る前に、口を出してしまった。


「……それって、リミちゃんが……奢ってくれたり?」


自分で言って、自分で恥ずかしくなる。


アンリミは、きょとんとしてから、ふわっと笑った。


「別に構いませんが……」


言いながら、アンリミは少しだけ首を傾げる。


「……皆さん、もしかして……」


リトリーが目を逸らし、笑って誤魔化す。


「うん。財布、すっからかんになっちゃった」


アルティナが「へへ」と笑う。

笑ってる場合じゃないのに。


カムイは、視線を壁に置いたまま、小さく息を吐いた。


「……申し訳ない」


その謝り方が、真面目すぎて逆に痛い。


アンリミは慌てて手を振る。


「だ、大丈夫です! 私、お金はたくさんありますので!」


アルアがまた鼻で笑った。


「……ハッ」


「アルア!」


アンリミが少し強く呼ぶ。

アルアは目を細めもしないで答える。


「だって、面白いからしょうがないじゃないかー」


「面白くないです」


「ボクは面白いよー」


その温度差に、リトリーが小さく笑ってしまう。


「……まあ、いっか。ご飯行こ」


「行こ行こ!」


アルティナが立ち上がって、尻尾で空気を叩く。


私は床の山を一度だけ見た。

持って帰るのか、これ。

どこに。

何のために。


分からないまま、立ち上がる。


その時――


廊下の向こうから、また声がした。


「お客さーん! お客さんたち、さっき外で見かけたよね!」


扉の向こうで、誰かが笑っている。


リトリーが固まる。

アルティナが尻尾を止める。

カムイの耳が、ぴく、と動いた。


私は、心の底から思った。


――この国、たぶんソルニアよりやばい。


アルアが、心底面倒くさそうに言った。


「……ボクらまで巻き込むのかい」


アンリミが小さく震えながら、でも笑って言う。


「だ、大丈夫です。アルア、なんとかしてください」


「はぁ〜」


アルアが深くため息をつく。アホ毛が扉に向き合う。


扉が、ノックもなく開きかける。


隙間から、光る箱が覗いた。

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