第一部・第三章 影霊
朝の店は、まだ眠そうだった。
鳩の羽根亭の一階。私は荷物を抱えたまま、入口のあたりで突っ立っている。
荷物は少ないはずなのに、こういうのって持つと急に重く感じる。
カウンターの向こうで女主人が鍋をかき回しながら、ちらっとこっちを見た。
「……その顔、やめな」
「どんな顔」
「なんかこう、“やらかした”みたいな顔」
「何もやらかしてない」
「ならいいけどさ」
言いながら木皿を置く。湯気の立つスープとパン。
「ほら、飯だよ。食っときな」
「……うん」
一口すすると、胃が「やっと来た」って言ってるみたいに落ち着いた。
鈴がちりん。
「おはよー! おばさーん! ご飯!」
店の空気が一気に明るくなる。リトリーだ。
「うるさいよ」
女主人はそう言いながら、もう一枚の皿を出す。慣れてる。
リトリーは私を見るなり、にっと笑った。
「シルア、準備できた?」
「できた……と思う」
「“思う”って。……“できた”でいいじゃん」
「できた」
「よし」
満足そうに頷いて、私の荷物を覗き込む。
「え、少なっ。ほんとにそれだけ?」
「……これ以上、何を持てばいいのか分からない」
「分かる。私も最初はそうだった」
言いながら、リトリーは自分の背中の荷物を指差す。
「私はこれ。あとは大丈夫」
「その袋、そんなに入るの?」
「まあ大体は、剣のほうにしまってあるから」
女主人が咳払いして話を切る。
「で? 行き先は」
リトリーが即答した。
「まずアルガルドにしよ! 軍事国家のとこ。道も整ってるし、仕事も拾いやすいし」
「アルガルド……」
口に出すと、少しだけ現実になる。
リトリーが私の顔を覗き込んでくる。
「いきなり遠回りしないで、まずは“人が多いところ”がいいよ。シルア、まだ慣れてないじゃん」
「……慣れてない」
「うん。だから最初は優しいルート。こういうの大事なんだよねー」
女主人が鼻で笑った。
「優しいルートでも死ぬときは死ぬからね」
「それはそう」
リトリーがケラッと笑って、私を見る。
「よし、行こ! 今日中に森の縁を抜けちゃいたいし」
私は頷いた。
女主人がタオルを投げて寄越す。
「それくらい持っていきな。あと……」
女主人の視線が、私の腰の剣に一瞬止まる。
「剣も命も、雑に扱うんじゃないよ。抜いて遊ぶな。道中、気をつけな」
「……分かってる」
「分かってる顔じゃないけどね」
そう言って、女主人はそっぽを向いた。
「行きな。さっさと」
リトリーが元気に手を振る。
「おばさん、行ってきまーす!」
「おばさん言うなって!」
鈴が鳴って、私たちは外へ出た。
△▼△▼△▼△
町を出ると、道がやけに広く見えた。
商隊が先を行っていて、護衛の冒険者が数人ついている。
私は腰の剣が視界に入るたび、つい見てしまう。
「ねえ、歩ける?」
リトリーが横から聞いてきた。
「歩ける」
「顔、固いよ。緊張してる?」
「してない」
「してるでしょ〜?」
「……してる」
認めると、リトリーが笑った。
「そうそう。素直なの、かわいいね」
「うるさい」
そのやりとりをしている間に、商隊の先頭の男が声を上げた。
「森の縁を抜けるぞ! 最近、影霊も活発だ! 離れるなよ!」
影霊。
言葉だけで、喉の奥が冷える。
護衛の赤髪の女が、面倒くさそうに息を吐いた。
「出くわしたくないけど、どうせ出るんだろうねー」
若い冒険者がぼやく。
「複数で来られたりしたら、どうしよ」
「考えたくもないね。まあ来ないことを祈るしかない」
赤髪の女がそう言って、剣の柄を軽く叩いた。
私はリトリーに小声で聞いた。
「影霊って、どんなの?」
「そっか。シルアは知らないか。影が生き物みたいに動くの」
「……説明が雑」
「だってほんとにそうなんだもん。冷気まとっててさ、人を襲うの」
「普通に人を?」
「普通に」
“普通に”が妙にリアルで、私は喉を鳴らした。
△▼△▼△▼△
森の縁に差しかかったころ、空気が変になった。
匂いが変だ。土と葉の匂いに混じって、鉄っぽいような、焦げたような匂いがする。
馬が落ち着かなくなる。
赤髪の女が声を落とした。
「……来る」
その瞬間、道端の影が“起き上がった”。
木の影が伸びたんじゃない。影そのものが、ぬるっと形を持って道へにじみ出してくる。
「影霊だ!」
誰かが叫ぶ。
一体じゃない。二体、三体。荷車の下、木の根元、草陰。影があるところから増えていく。
「荷車守れ!」
護衛が動く。剣が抜かれる。刃が光る。
影霊が滑るみたいに突っ込んできた。
「っ!」
リトリーが前に出た。
剣は抜かない。抜かないまま、体だけがすっと速くなる。影霊の刃を避けて距離を詰め、蹴りを入れる。
影霊が散った。
「……え、蹴りって効くんだ」
「弱いのはね! シルア、後ろ!」
「分かってる!」
怖い。怖いけど、止まったら終わる。
胸の奥が熱くなる。喉が乾くみたいに、内側が削れる感覚。
私は手を伸ばした。
「……あっち行って!」
空気が弾ける。
影霊の一体が横から吹き飛び、地面を滑って木の根にぶつかった。
リトリーが一瞬だけ振り返る。
「……今の、シルアがやったの?」
「わかんない! また来るよ!」
言いながら、私はもう一度“押す”みたいに空気を叩く。影霊が近づけない程度に弾く。派手じゃない。でも一拍、稼げる。
護衛たちも上手い。赤髪の女の斬り方は無駄がないし、若い冒険者はすぐ荷車の前に入る。
――いける。
そう思った矢先だった。
影霊の群れの奥で、地面の影がぐにゃっと盛り上がった。
「……でかいの来た」
赤髪の女の声が、さっきより低い。
盛り上がった影は背丈ほどになり、角みたいな突起を作り、輪郭がはっきりしていく。
大影霊。
見た瞬間に理屈じゃなく分かる。“格が違う”。
大影霊が突っ込んできた。速い。
「リトリー!」
私が叫ぶより先に、リトリーが飛び出す。
でも角度がいやらしい。避ける先を塞ぐように影が伸びる。
「っ……!」
リトリーが一瞬、遅れる。
その瞬間、私の頭が真っ白になった。
――間に合わない。
胸がまた削れる。今までより深く。
私は叫んだ。
「……止まって!」
攻撃じゃない。防ぐ。
“そこから先に行かないで”と願う。
見えない壁が立ったみたいに、大影霊がぶつかって弾かれた。衝撃音がして、空気が震える。
リトリーが膝をつき、目を見開いてこっちを見た。
「……え、今のも、シルア!?」
「たぶん……でも分かんない! それより、動ける!?」
「もちろん!」
リトリーが立ち上がる。けど、大影霊はすぐ形を変える。刃みたいな影が増えて、まとめて裂きにくる。
護衛が声を上げた。
「やばい、押し切られる!」
赤髪の女が歯を食いしばる。
私も思う。
これは――防げない。
その瞬間。
白い線が、すっと通った気がした。
次の瞬間、大影霊が弾け飛んだ。
土が舞い、葉が散って、影が形を保てないまま霧みたいに消える。
静かになりすぎて、逆に怖い。
一同が固まる。
「……今の、何」
赤髪の女が呆然と呟いた。
若い冒険者が私を見る。
「お、おい……お前、今の……」
「違う! 私じゃないってば!」
声が裏返った。自分でも情けない。
リトリーが息を整えながら、ぽつっと言った。
「……誰かが、ものすごい速さで倒してくれた気がする」
「誰か?」
赤髪の女が眉をひそめる。
「うん。見えた、ってほどじゃないけど……」
リトリーは私を見て、はっきり言う。
「少なくとも、シルアじゃない。別の誰かがやった」
その言い方が、変に真面目で、私はちょっと救われた。
△▼△▼△▼△
森の縁を抜けたあと、商隊は足を速めた。
みんな口数が少ない。そりゃそうだ。さっきのは、本当に危なかった。
私は歩きながら自分の手を見た。
押した。弾いた。壁を作った。
それは私だった。
でも最後は違う。
あれは私の“やった感”がない。勝手に終わった感じだ。
「……リトリー」
「ん?」
「さっき、私、勝手に出ちゃって……ごめん」
リトリーが目を丸くした。
「え、なんで謝るの」
「だって……」
「助かったんだけど。私、普通に」
言い切られて、言葉が詰まる。
「……そっか」
「そ。だからありがとう!」
「……ありがとう?」
「うん!」
リトリーはにっと笑った。
「へへ、これからもなんとかなるよ。たぶん」
「たぶん言うな」
「え、だめ?」
「だめ」
二人で言い合ってるうちに、少しだけ呼吸が戻った。
△▼△▼△▼△
夕方、商隊と別れた。
街道から少し外れた草地で野営する。リトリーは手際よく焚き火を作り、剣に触れて火を点けた。ぱちっと小さく燃える。
「ご飯どうする?」
リトリーが聞く。
「……パンだけでも」
「だめ。スープにする。今日は絶対スープ」
「なんで聞いたの」
「なんででしょ〜?」
言い切って、リトリーは何もない空間に手を伸ばした。
そこ、本当に何もないのに。
手を引くと、鍋が空から現れた。
「……出た」
「便利でしょ」
「便利すぎ」
「最高でしょ。私の剣」
「自分で言うんだ」
「だって最高だもん」
次は水袋、塩、干し肉。ぽん、ぽん、と空から出てくる。
私は鍋を受け取って火にかけた。湯気が立つと、さっきの怖さが少し薄まる。
リトリーがスプーンを揺らしながら言った。
「明日もこのままアルガルド方面でいい?」
「……うん」
「よし。決まり!」
機嫌よく笑って、それから少しだけ真面目な顔になる。
「今日みたいなの、たぶんまた出る」
「……また出るの」
「出るときは出る。だから気を抜かない。……でも、ビビりすぎも良くない」
「難しい」
「難しーね」
リトリーは笑って、スープをよそう。
「はい、できたよ。熱いから気をつけて」
「……いただきます」
「いただきまーす」
二人で食べるだけなのに、さっきよりずっと静かで、ずっと落ち着く。
私は火を見ながら、ふと思った。
あの大影霊を一瞬で消した“誰か”が、アルガルドの方角にいる気がする。
怖いけど、ちょっとだけ気になる。
「シルア、また考え事してる」
リトリーが笑う。
「してない」
「えー、絶対してた」
「……してる」
認めると、リトリーが満足そうに頷いた。
「うん。素直でよろしい!」
夜が深まる。
火がぱちぱち鳴る音だけが残って、私は眠気と一緒に明日の道を思った。




