エルア・ホーミリア
ソルニアの朝は、音より先に光が降りる。
日が昇る瞬間、雪みたいに細かな光が――空から、静かに舞い落ちてくる。
それが、この国の息づかいだった。
だからこそ。
今朝も、窓の外がただの「朝」だったことが、怖かった。
白い石畳は冷えたまま、塔も尖塔も、ただ朝日に照らされているだけ。
光の雪が降らない王都は、何か大事な部品を抜かれた機械みたいに見えた。
エルアはカップを両手で包む。紅茶の熱だけが、ちゃんと生きていた。
「……聖女さま、大丈夫かな」
窓辺に寄りかかっていた青年が、ぽつりと言った。
青年の名前はアルア。エルアの兄だ。無気力そうな顔で、けれど視線だけは城から離れない。
エルアは歩いていって、背中にぶつからない程度の距離で止まる。
兄の横顔を見上げて、口の端を上げた。
「倒れちゃったんだよね。早く良くなるといいな」
そして、紅茶を差し出す。
「ほら、アル兄。飲んで。冷めちゃうよ」
「……ありがと」
受け取る指は大きい。
その指が、時々――余計なものまで守ろうとするのを、エルアは知っている。
アルアは一口飲んで、ほんの少し眉をほどいた。
それだけで、エルアはちょっと得をした気分になる。
「それで、話って?」
エルアは息を吸った。
胸の奥で言葉が転びそうになるのを、手で支えるみたいに。
「えっとね、その……私さ」
言い出してから、照れが追いかけてくる。
けれど引っ込めたら負けだ。
「聖女さまの護衛を決める、ソルニア最強決定戦。あれに出たいなって」
アルアは、すぐには返事をしなかった。
紅茶の表面が揺れて、その揺れが止まるまで待つみたいな間があった。
そして、ため息。
「ダメだ。危ない」
「えー。大丈夫だよ。私の力、アル兄も知ってるでしょー」
「知ってるから言ってんだよ。万が一、捌ききれなかったらどうするわけ」
「捌ききれるもん」
頬を膨らませると、アルアは困ったみたいに目を細めた。
「エルは女の子なんだから、もっと……大人しいことをしな」
「……それ、今の時代に言う?」
「そういう問題じゃない」
「じゃ、じゃんけんで決めよ」
エルアは指を立てた。
兄が訳のわからない顔になるのを見て、ちょっと笑う。
「私が負けたら、アル兄の言うこと聞く。勝ったら出る。これでいいでしょ」
「……意味がわからない。全然良くないよ」
「いいの。じゃんけん」
アルアは諦めたみたいに肩を落とした。
その頭から、大きなアホ毛がぴょん、と覗く。
エルアはそれを見るたび、変な安心を覚える。あれは兄の剣だ。兄の存在そのものだ。
「……最初はグー」
「最初はグー」
二人の拳が揃って、離れる。
「じゃんけん――」
エルアは、ちゃんと勝った。
アルアのアホ毛が、悔しそうに揺れる。
アルアはその揺れを指で押さえようとして、結局やめた。
「……勝ったからって、調子に乗るなよ」
「へへーん。約束は約束だもん」
エルアは、紅茶の香りの中で、もう一度窓の外を見る。
王城は遠いのに、なぜか自分のすぐ隣にあるみたいに思えた。
エルアは、自分の剣の柄に触れた。
――大丈夫。私なら。
そう思うのと同時に、少しだけ、怖かった。
怖いのに。止まれない。
それが、自分の性格だと知っていた。
△▼△▼△▼△
最強決定戦の会場は、白かった。
ソルニアの闘技場は神殿みたいに整っていて、客席の歓声すら祈りに似ている。
武器を掲げる者たちは皆、聖女の名を口にする。勝ちたい理由が、だいたい同じだ。
「聖女さまの近くへ!」
「護衛になれれば一生の誉れだ!」
「リミたん待っててね!」
最後の声だけ、ちょっと濁っていた。
エルアは、入場口で立ち止まった。
胸元に下げた札には、参加者の名。
エルア・ホーミリア。
名前が、少しだけ重く感じる。
「緊張してるの?」
後ろから声がした。アルアだ。
今日は珍しく外套の襟をきちんと立てている。
「してないよ」
「してる顔だよ」
「してないってば」
エルアは振り返って、兄のアホ毛を見る。
それは普段通り、のんびり揺れていた。
「アル兄、それ。絶対ジャマだよね」
「うるせぇ。お前もおんなじのついてるだろ」
けれどアルアの声は、少し柔らかい。
「……勝っても負けても、怪我はするなよ」
「それ、さっきも言ってなかった?」
「大事なことだからな」
エルアは息を吐いて、闘技場の白い床へ一歩踏み出す。
白い眩しさの中で、観客の視線が針みたいに刺さる。
――負けない。
誰かのために、というより。
自分が自分でいるために。
第一戦。
相手は炎を扱う青年だった。勢いがよくて、視線が真っ直ぐで、悪い人ではなさそう。
「手加減、しねぇからな!」
「うん、私も」
炎が走る。
エルアは一歩、半歩、かわす。
そして、相手の剣が通る未来を、床の一点へ「収束」させる。
次の瞬間、青年の剣はあり得ない角度で沈み、床に突き刺さった。
青年の体勢が崩れる。
エルアは剣の腹で、軽く肩を叩いた。
「ごめんね」
「……っ、今の、なんだ……?」
「内緒」
二戦目、三戦目も、似たように進んだ。
氷弾が飛ぶなら壁へ収束。地面を操るなら空へ逸らす。
相手の力を折らないように、でも、折れないように。
勝つたびに、観客は名前を叫び始めた。
「またエルアだ!」
「小さいのに、やるなぁ!」
「なんか聖女さまに似てるぞ!」
最後の声が聞こえるたび、胸の奥が微妙にくすぐったい。
似ている、と言われるのは嫌じゃない。嫌じゃないけれど、理由が違う。
――私は私。
準決勝の相手は、太刀を振るう大男だった。
剣の圧で空気が鳴る。
まともに受ければ腕が飛ぶだろう。
エルアは、視線を合わせる。
相手の呼吸。足の運び。
剣が通る線。
そして、剣が通る「結果」を、相手の背後へ収束させた。
大男の太刀は、振り下ろされたはずなのに、空を切る。
そのまま、背後の柱へ深く食い込んだ。
「……な、に……」
エルアは剣を突きつけない。
ただ、相手の視界の端に、自分がいる状態を作る。
「続ける?」
大男は歯を食いしばって、やがて笑った。
悔しそうに。
「……参った。お前、怖ぇな」
「怖くないよ」
そう言いながら、自分でも思う。
今の自分は、少し怖い。
決勝戦。
相手は、王都近衛の若い女剣士だった。気配が静かで、目が冷たい。
けれど剣だけは、よく磨かれている。
「聖女さまを、守るため」
「うん」
「私も、勝つ」
「うん」
短い会話。
その間に、互いの剣が鳴った。
女剣士は真っ直ぐ強い。
エルアの収束を、読みで補ってくる。
逸らしたはずの斬撃が、いつの間にか肩をかすめる。
血が、少しだけ滲んだ。
観客が息を呑む。
アルアが立ち上がりかける気配がした。
エルアは、それを視線で止める。
大丈夫。まだ大丈夫。
自分の血の重さを、相手の足元へ収束させる。
踏み込みが一瞬、遅れる。
その一瞬で、エルアは勝ち筋を拾った。
剣の先が、女剣士の喉元の手前で止まる。
触れていないのに、冷気だけが届く距離。
女剣士は目を閉じて、首を垂れた。
「……負けた」
歓声が、白い天井を揺らした。
エルアは剣を下ろして、息を吐く。
勝った。
勝ってしまった。
その瞬間、胸の奥で何かが軽くなるのと同時に、違う重さが乗った。
聖女の隣に立つこと。
国の心臓の横に立つ責任を背負うこと。
アルアが近づいてきて、何も言わずに頭を撫でた。
その手が少し震えていたのを、エルアは見ないふりをした。
「……やるな」
「でしょ」
「……怪我、してる」
「これくらい」
エルアは笑って、兄のアホ毛を指でつまんだ。
ぴん、と跳ねる。
「アル兄、これ。絶対、私がいないと誰かにいじられるよ」
「いじられねぇよ」
「いじられるって」
二人は笑った。
光の降らない空の下で、白い闘技場が少しだけ温かく見えた。
△▼△▼△▼△
一ヶ月後。
護衛初日の夜、エルアは部屋に飛び込んできた。
靴を脱ぐのも雑で、勢いのまま椅子に座る。
「でねでね、聖女さまが、すっごく可愛くて!」
アルアは机に肘をついて、ぼんやり聞いている。
けれど、目だけはちゃんとエルアを追っている。
「笑うとね、ほっぺがちょっと、こう……」
エルアは両手で自分の頬を押してみせる。
鏡がなくても分かる。自分の頬も緩んでいる。
「私、メロメロだよ。今まで信者たちの気持ちがよくわからなかったけど、今は違う気がする……」
「楽しそうだな」
「楽しい!」
エルアは膝を揺らした。
それから、少しだけ落ち着いて、声を下げる。
「でもね。ちょっとだけ、疲れてた。ずっと無理してるんだと思う。国全体に光を降らせるてるの……」
アルアの視線が、ふっと遠くなる。
王城のほう。あの少女のいる場所。
「……これから毎日、つきっきりになるんだろ。大丈夫なのか」
「大丈夫だもん」
エルアは胸を張った。
「だって私、この国で最強なんだよ」
「まったく……生意気に育ったもんだ」
「育てたの、アル兄じゃん」
言い返すと、アルアは小さく笑った。
それが嬉しいのに、同時に、胸の奥がきゅっとなる。
「……それよりさ」
エルアは、わざと話題をずらした。
「アル兄は大丈夫なの? 私がいなくても、ちゃんと稼いでいけるの?」
アルアは肩をすくめる。
「エルがたまに手を貸してくれるなら、なんとかなるよ」
「たまに?」
「ちょうどいいし」
アルアは立ち上がった。
「今夜も、いくらか稼いでくるか」
エルアは呆れて笑う。
「……ほどほどにしなよ」
△▼△▼△▼△
小さな賭博場は、夜の王都の隅で呼吸していた。
白い街が眠る時間、ここだけが妙に生きている。
扉を開けた瞬間、熱気と酒と金属の匂いが混じって鼻を刺す。
「お、来やがったな」
「いつも勝ってる奴らだ」
「エルアちゃん! 決定戦、見たぜ!」
「ソルニア最強ー!」
声が飛ぶ。
エルアは手を振って、軽く頭を下げた。
「今日は見てるだけね。アル兄が暴走しないように」
「それは無理だね。暴走も見てるだけなのも」
「黙って」
アルアはどこ吹く風で、テーブルのほうへ歩いていく。
大きなアホ毛が、みょんみょんと揺れた。
今夜のイベントはポーカーのトーナメント。
一位が総取り。
「これは、一儲けできそうだな」
アルアが言う。
エルアはため息で返す。
「ほんと、剣以外の勝負だと目が生き生きするよね」
「剣は疲れるからね」
「信じられない」
ゲームは始まった。
アルアは強かった。少しも負ける気配がない。
引きの良さもある。読みもある。
そして、何より、場の流れが妙にアルアに寄っていく。
周りがざわつき始める。
「なんであんなにつえぇんだ?」
「エルアちゃん、何もやってないしな」
「いや、あのアホ毛だろ」
「アホ毛が、何だよ……」
エルアは黙っていた。
やっていないわけじゃない。
ほんの少し。ほんの少しだけ、場の運を撫でている。
アルアに向かって流れるように。
それだけで、十分だった。
決勝。
ルールは、先に三回強い役を出したほうの勝ち。
相手は、白銀の髪の女だった。
髪は月明かりを溶かしたみたいに淡く、金の瞳が笑っている。
年はアルアと同じくらいか、少し上か。
女はカードを覗き込み、肩を揺らして笑った。
「ふふ。楽しいね」
「……そうだな」
アルアが淡々と返す。
一回目。
アルアは取られた。
周囲がどよめく。
アルアのアホ毛が、ぴくり、と反応した。
二回目。
また取られた。
女はニコニコしている。
まるで最初からこうなると知っていたみたいに。
アルアの目が細くなる。
その視線が、エルアに一瞬だけ飛ぶ。
――分かった。
エルアは指先で、空気をなぞった。
場に散らばった運の糸。
他人の歓声。酒の匂い。汗。期待。
全部が、ふわふわと漂っている。
それを、アルアへ収束させる。
同時に、アルアに寄りそう不運の影――もしそれがあるなら――
それは全部、アルアのアホ毛へ収束させる。
アホ毛は、何もかもを回避する。
兄の剣能力は、それだけ。
けれど回避できないものはない。もし全てをアホ毛に集められたのなら、最強はエルアではなくアルアだろう。
三回目。
アルアが一本取り返した。
「おおおお!」
歓声が上がる。
「えっ」
女の笑みが、少しだけ固まった。
四回目。
アルアが、もう一本。
場は沸騰した。
アルアのアホ毛が、勝利の旗みたいに揺れる。
女は唇を尖らせ、悔しそうに鼻を鳴らした。
「……むぅ」
そして深呼吸。
両手を机に置き、金の瞳でアルアを射抜く。
「私は今月のお小遣い全てをかけたんだ!だから私が勝つ、来い!」
その言い方が、変に本気で。
エルアはぞくりとした。
運命の最後の勝負。
――引き分け。
全く同じ役。
勝負はどちらかが勝つまで続く。
延長戦。
――また引き分け。
さらに。
――引き分け。
エルアは、背筋が冷えた。
運を収束させている。
不運もアホ毛へ収束させている。
それなのに、並び立ってくる。
まるで、こちらの手の内を笑っているみたいに。
三度目の引き分けの後、白銀の女が机を叩いた。
「ちょっと! そっちイカサマしてるでしょ!」
「はあ!?」
エルアが立ち上がる。
「そっちこそイカサマしてるでしょ! アル兄に張り合えるなんて、おかしいもん!」
「してないけど! こっちは純粋なミラクルラックで戦ってんのー!」
二人がバチバチになる。
アルアは困った顔をして、手を振った。
「まあまあ、落ち着けって」
「うるさい!」
白銀の女がアルアを指さす。
「君もさっきから、そのおっきいアホ毛ゆらして鬱陶しいのよ! さてはそれがイカサマね!」
そう言った瞬間。
女は、ぴたりと止まった。
金の瞳が、アルアのアホ毛と、エルアのアホ毛を見比べる。
そして二人の剣を見つめる。
その視線が、どこか遠くへ落ちる。
「……なに、そのシナジー……」
誰にも聞こえないくらい、小さな声だった。
「何!? まだ文句あるわけ?」
エルアが詰め寄る。
白銀の女は、ぱっと顔を上げて急に笑った。
さっきまでの悔しさが、嘘みたいに。
「うん。負け、負けでいいよ」
「え?」
「私、イカサマしてたし」
「は?」
言い捨てるように言って、女は席を立った。
背中が軽い。逃げるというより、何かから距離を取るみたいに。
「じゃ。賞金、おめでと」
それだけ残して、賭博場の扉の向こうへ消えた。
残された空気が、妙に薄い。
アルアは首を傾げた。
「……変なやつだな」
「変だね」
エルアは、胸の奥を手で押さえた。
さっきの「シナジー」という言葉が、冷たい針みたいに残っている。
アルアが賞金の入った袋を受け取り、エルアに見せた。
「今夜は、焼き肉だな」
「……勝手に決めないで」
そう言いながら、エルアは少し笑った。
笑ってしまった。
この夜が、残りわずかな「普通」だと、その時は思わなかった。
△▼△▼△▼△
しばらくして。
アルアとエルアと聖女――アンリミの三人は、王都外の広場にいた。
草は短く刈り揃えられ、遠くに白い城壁が見える。
空は青く小さな光が無数に降っている。
アンリミは、薄い毛布を肩にかけて座っている。
水色の長い髪が風に揺れ、目元が少しだけ疲れていた。
「アルアさん、ごめんなさい」
アンリミが小さく頭を下げる。
「エルアちゃんのお話を聞いてたら、私も会ってみたくなって……」
「うっ」
アルアが変な声を出した。
「謝らなくていいですよ。別に嫌ってわけじゃないですから」
エルアは、二人のやりとりを見て笑った。
アンリミの声は、民衆の前の澄んだ聖女の声とは違う。少し幼くて、少し甘えが混じっている。
アルアが、ふとエルアを見る。
「……しかしエル。ほんとに聖女さまそっくりだな。兄として誇らしいよ」
アンリミが瞬きをする。
エルアは照れくさくて、視線を逸らした。
「髪伸ばして水色に染めたら、見分けつかないんじゃないか」
「えへへ……私も、聖女さまと似てて嬉しいです」
アンリミが微笑んだ。
「私も、初めてエルアちゃんに会った時は驚きました。でも今ではすっかりお友達になって、毎日が楽しいです」
エルアは頬をかいた。
「……友達なんて、他の人がいるとこで言っちゃダメですからねー。あくまで私の立場は護衛ですから」
「えー、でも……」
アンリミは言いかけて、目を擦った。
昼の暖かさが瞼に溜まっていく。
「ふぁあ……こんなにポカポカだと、眠くなりますね」
「一時間くらい、寝ちゃいます?」
エルアは隣に膝をついた。
「最近あんまり休めてないでしょう。少し光が止むくらい、国民は気にしませんよ」
アンリミは困ったみたいに笑って、それでもその言葉に甘えた。
毛布の中に小さく丸まり、すぐに呼吸が整う。
アルアが、眠る聖女を見下ろした。
その目が、少しだけ柔らかい。
「……お前、ここのところ楽しそうだな」
「うん。すごく楽しいよ」
エルアは答えた。
嘘じゃない。護衛は忙しい。でも、アンリミは想像していたよりずっと人間で、可愛くて、弱くて――それが、愛おしい。
「護衛はどうなんだ? 絡んでくる奴とか、いるのか」
「うーん、ソルニアでは今のところ、いないかな」
エルアは指で草をちぎった。
「でも他の国は、結構、聖女さまを狙ってくる奴がいるね。ま、全部返り討ちにするんだけど」
腕を曲げて、軽く力こぶを作ってみせる。
アルアは鼻で笑った。
「……そうか。怪我はするなよ」
「何それー」
エルアは笑った。
その笑い声が、風に溶けかけた時だった。
王都の方から、誰かが走ってくる。
「あ、いたいた! もう、探したんだよ〜」
軽い声。
白銀の髪が揺れて、金の瞳が光る。
――賭博場の。
アルアが眉を寄せた。
「……あの時の……」
エルアは即座に一歩前へ出る。
眠るアンリミの前に立つ。
「そこで止まりなさい。今、聖女さまがお休み中です」
白銀の女は両手を上げ、悪びれずに笑った。
「ごめんごめん。でも私、聖女さまじゃなくて、あなたに用があって来たんだ〜。エルア・ホーミリアちゃん」
「私に?」
「そう。まあ正確には、君たち二人だけどね。エルアちゃんと、アルアくん」
アルアが自分を指さす。
「ボクも?」
「うん」
白銀の女は、にっこりして次の言葉を投げた。
まるで、今日の天気でも聞くみたいに。
「さっそくで悪いんだけどー、二人のうちどっちか死んでくれない?」
空気が、凍った。
エルアが息を呑む前に、空間が歪む。
視界が折れて、世界が裏返るみたいに揺れた。
次の瞬間。
足元は草でも土でもない。
どこまでも続く地平線と、空だけ。
風が吹く。
乾いた、何も運ばない風。
聖女はいない。
「……どこだ、ここ」
アルアが呟く。
アホ毛が警戒するように揺れている。
エルアは歯を噛み、白銀の女を睨んだ。
「ちょっと、聖女さまをどこにやったの!?」
「聖女さまは無事だよ」
白銀の女は、あっさり言った。
「そんなことより。もう一回言うけど、どっちか死んでくれない?」
「訳のわかんないこと言わないで!」
エルアは踏み込んで斬りかかった。
剣が風を裂く。白銀の髪に届く――はずだった。
剣が届きそうなところで。
エルアの足に、一本の刀が刺さった。
「っ――!」
痛みが、遅れて爆発した。
地面に膝がつきそうになる。
白銀の女は、動いていない。
手も、指も、振っていない。
なのに、刺さった。
刺さった刀は、光になって消えた。
しかし傷は残る。血が噴き出す。
「エルア!」
アルアが駆け寄ろうとする。
「アル兄、下がってて!」
エルアは叫び、歯を食いしばった。
痛みの位置を掴む。血の重さを掴む。
それを――白銀の女の腕へ収束。
次の瞬間、エルアの足の傷が薄れ、代わりに女の腕に刺し傷が現れる。
「わあ〜……」
白銀の女は感心したように目を丸くする。
「これはすごいや。かなり、概念に触れる力だね」
その言葉が、背筋を撫でる。
褒められているのに、鳥肌が立つ。
――次。
女の腕の傷が、ふっと消えた。
無かったことになるみたいに。
エルアは目を見開く。
白銀の女はアルアへ、指先をなぞるように向ける。
すると、アルアのアホ毛の位置に、さっきと同じ刀が複数本、現れた。
しかし刺さらない。触れない。
全部、空振りして、光に変わって消える。
アホ毛が、避けた。
白銀の女は頷く。
「ふむふむ。おかしな力だけど……ずいぶん絶対的だね」
エルアは剣を構え直し、叫ぶ。
「あなた、何者!? とにかく私たちを、聖女さまのところに戻して!」
白銀の女は肩をすくめた。
「どちらかが死んでくれたら戻してあげるよ。でもそれまでは、出してあげなーい」
「ふざけ……」
言い終える前に、アルアの腕と足に刀が刺さった。
「ぐっ……!」
アルアが膝をつく。血が落ちる。
エルアは即座にその傷を掴み、収束させようと――した瞬間。
エルアの四肢にも、同じ刀が刺さった。
「っ、あ……!」
痛みが四方から押し寄せる。
身体が裂けるみたいで、息ができない。
白銀の女は、楽しそうに首を傾げた。
「そうそう。そういう顔、だーい好き」
エルアは歯を食いしばり、痛みの束をまとめた。
四肢の傷。アルアの傷。
全部を一つにして――女の首へ収束。
首が、飛んだ。
血は出ない。
飛んだ首は光に溶ける。
エルアの呼吸が一瞬止まる。
勝った――?
次の瞬間。
白銀の女は、普通に立っていた。
首も、顔も、笑みも、何も欠けていない。
「うんうん。今のもいいね」
アルアが、低く言う。
「……なんなんだ、あんた。俺たちにいきなり、どっちか死ねって。死んで、何になる」
白銀の女は、指を立てた。
「ただ死ぬんじゃないよ。相手に剣を、思いを託して死ぬの」
笑いながら言う。
それが最悪だった。
「そしたら人が死んでも剣は残り続ける。さらなる強さを持って。もちろん私がサポートしてあげるから、失敗はないよ」
エルアの胃が、冷たくなる。
「……何、言って……」
言いかけた瞬間。
エルアとアルアの内側に、とんでもない力が湧いた。
熱。
冷気。
雷みたいな衝動。
身体が軽い。視界が澄む。
剣が、歌う。
白銀の女が嬉しそうに両手を広げた。
「さあ。私からの祝福だよ。これで成功、間違いなし!」
金の瞳が、二人を舐める。
「どっちが死ぬの?」
エルアは、湧き上がる感覚を確かめた。
これなら、勝てる。
勝てる――はず。
「死ぬのは――」
エルアが白銀の女に向かって飛びかかる。
「お前だ」
アルアも同じく飛ぶ。
二人は白銀の女の首元へ斬りかかる。
アホ毛が鋭く揺れ、身体が滑るように加速する。
白銀の女は、目を細めて笑った。
「も〜、強情だなぁ」
腕を振りかざす。
その動作一つで、空間に無数の刀が生まれた。
△▼△▼△▼△
戦いは、時間の感覚を奪った。
湧き上がった力で、二人は確かに強くなっていた。
剣は速く、重く、世界の端を切り裂けそうだった。
エルアは収束で刃の軌道をねじり、アルアはぎりぎりで避け続ける。
だが、白銀の女は「避けられる前提」で殺しに来る。
刃が刺さる。
消える。
傷が移る。
無かったことになる。
首を飛ばしても戻る。
胸を貫いても笑う。
「楽しいねぇ」
その声が、ずっと耳に残る。
やがて。
二人の身体は、幾本もの刀で貫かれた。
腹も、胸も、肩も。
血が流れ、視界が赤く滲む。
膝が地面につく。
息が、浅い。
白銀の女が、指をくいっとする。
消えないままの刀が、二人の身体を吊るし、引きずるようにして女の前へ運んだ。
人形みたいに。
「やぁっと反撃しなくなった〜」
金の瞳が、近い。
「どう? どっちが死ぬか、決めた?」
「……」
なんでこんなことになったんだ。ボクたちが何をしたんだ。ああ、痛い。足の感覚がない。指も動かない。
痛いし、苦しいし、腹がたつ。エルも同じくらい辛いんだろうなぁ。いや、エルの方がボクよりもたくさん攻撃を受けている。ボクより強いから。もっと苦しいはず。ボクがもっと強かったら、エルよりもっと強かったら。そしたらエルを守れるのに。ああ、なんだよこの力。なんの役にも立たないじゃないか。もうこんなのに頼れない。せめてエルだけは。妹だけは守らないと。
アルアが咳き込みながら、言った。
「ボクが……死ぬ……だから、妹を……エルアを、解放して……くれ……」
「いや……」
エルアは首を振ろうとして、痛みで息が詰まった。
「そんな、こと……言わないで……」
白銀の女は、満足そうに頷く。
「うんうん。じゃあアルアくんだね」
そして、笑う。
「私も、エルアちゃんが生き残った方がいいと思ってたんだよね〜」
その瞬間、空から真っ白な剣が現れた。
落ちるのではなく、そこに「出てくる」。
その刃は白すぎてこの世界にまるでないかのよう。
白銀の女はそれを握り、振り上げる。
「待って……!」
エルアの声が掠れる。
「やだ……やだよぉ……!」
白銀の女は首を傾けた。
「それじゃあ最後に、互いに言い残すことはあるかい?」
アルアが、血を吐きながら笑った。
笑うというより、顔の形が笑いに寄っただけ。
「エル……お前は、優秀だから……ボクが、いなくても……大丈夫だ……」
「違う……」
エルアは涙が出そうになるのを、必死で飲み込んだ。
「待って……そんなこと、言わないで……」
胸の奥が、焼ける。
「私、私が死ぬから……だから死なないでよ、アル兄……!」
アルアはゆっくり首を振った。
「馬鹿言うな……ボクみたいなのが生き残っても……誰も、喜ばない……」
エルアの視界が揺れる。
アルアの顔が、遠くなる。
「エルは……最強で……聖女さまの……護衛なんだろ……」
「……」
「だから、これで……いいんだ……」
エルアは、唇を噛んだ。
血の味がした。
分かった。
分かったふりをしないと、アル兄が――今この瞬間、崩れてしまう。
エルアは息を吸い、声を絞った。
「……分かった」
そして、笑うふりをした。
涙が頬を伝うのを、風のせいにする。
「私、アル兄の剣を継いで……それで、世界で一番強くなって……」
言葉が震える。
それでも続ける。
「いつか、アル兄の仇を取るから!こいつを殺してみせるから! だから……」
喉が詰まる。
それでも、言わないと。
「私の、私の剣になって」
エルアは、最後に囁いた。
「大好きだよ、アル兄……」
アルアの目が、少しだけ見開かれる。
それから、ゆっくり閉じかけて――
「ああ……ボクも……大好きだ……」
白銀の女が、真っ白な剣を振り下ろした。
光が走る。
斬られたものの思いが、気持ちが、魂が――祝福によって剣へと込められる。
斬られたものは死んだ。
全身を貫いていた刀が光へ変わり、拘束が解ける。
剣は委ねられる。
アルア・ホーミリアへと。
そう。
死んだのは、アルアではなく――
エルアだった。
「え」
アルアは、状況が飲み込めないまま膝をついた。
腕に抱えた剣が、重い。
エルアの剣。
さっきまで、エルアが握っていたもの。
「……なんで……」
声が壊れる。
「なんで……」
白銀の女は、ぱっと笑った。悪戯が成功した子供みたいに。
「なーんちゃって! 死んだのはエルアちゃんでした〜」
アルアの呼吸が止まる。
目が、剣の柄から離れない。
「アルアくん、さっきエルアちゃんが優秀って言ってたけど、あれはダメだねー」
白銀の女は指を振る。
「ただ能力が良かっただけの凡人だよ〜。そして君は、能力がダメダメな天才だね」
笑顔のまま言う。
「でも大丈夫! 今から君も、最高の能力を持った天才なんだから!」
アルアは剣を抱きしめる。
抱きしめても、戻らない。
体温も、声も、笑い方も。
白銀の女は続けた。
「どうしたの? もっと喜びなよ。最強になれたんだよ?」
金の瞳が、輝く。
「剣と剣の組み合わせは何人か見てきたけど、ここまでのシナジーはここ数千年で初めてだよ? 七英傑にも届きうるんじゃないかな?」
アルアの傷が消えた。
ふっと、痛みが抜ける。
同時に。
白銀の女の頭に、傷が飛んだ。
――今度は、確かに飛んだ。
女は一瞬驚く。
けれど次の瞬間、傷は「無かったこと」になる。
その「無かったことになる」を、アルアは許さない。
アホ毛が、波打つ。
空気が歪む。
白銀の女の頭が、再び貫かれる。
「……え」
白銀の女が息を呑む。
しかし即座に真っ白な剣で傷を撫で、回復させる。
それでも、目が笑っていない。怖いのに嬉しい目。
「ここまでなんてこと、ある?」
アルアは立ち上がった。
自分の剣と、エルアの剣。
二本を抜く。
その両目に、三つの線が中心へ収束するような紋様が浮かんでいた。
白銀の女は、驚愕と興奮で声が震えた。
「……越眼の開眼……!それも二つ同時に!」
アルアは低い声で言う。
淡々とした声じゃない。
痛みの底から、削り出した声。
「楽に死ねると思うなよ、クソ野郎」
「あはっ」
白銀の女は、空を仰いだ。
空から、さらに恒星の如く輝く剣を抜き放つ。
光が眩しすぎて、影が消える。
「来て!」
女が叫ぶ。
「全力で、私を殺しに!」
△▼△▼△▼△
戦いは、さっきまでとは違った。
アルアのアホ毛は、ただ避けるだけではなくなっていた。
害が「害として成立する前」に、アホ毛へ引き寄せられ、回避される。
白銀の女の刀が空間に生まれる。
それはアルアへ向かうはずなのに、途中で軌道が折れ、アホ毛の周囲で消える。
アルアは前へ出る。
二本の剣が、交差する。
一振りは、エルアの収束を帯びていた。
刃が通る結果を、女の足元へ収束させる。
女が踏み出す未来を、ほんの少しだけ、ずらす。
もう一振りは、アルア自身の剣。
ただ、真っ直ぐに殺意を乗せる。
白銀の女は回復する。
斬っても戻る。
刺しても笑う。
けれど、アルアの剣は、それを許さないように追い詰める。
無かったことにしたはずの傷が、事実の抹消をアホ毛へ収束して回避する。
残った傷が、次の斬撃の「入口」になる。
白銀の女の笑みが、どんどん濃くなる。
嬉しそうに。
狂ったように。
「すごい……本当にすごい……!」
その言葉が、アルアをさらに冷たくする。
アルアは言葉を返さない。
返す言葉がない。
剣だけが答えだ。
やがて、白銀の女は一歩引いた。
息が乱れている。
それでも楽しそうだ。
「逃げるの?」
アルアが初めて言った。
声は低く、乾いている。
白銀の女は、肩をすくめた。
「うん。終わりそうにないから、今日は逃げてあげる」
そして、笑った。
「それにしてもすごい! すごいよ、アルアくん!」
金の瞳が、涙みたいに光る。
「この縛られた世界で、これはあり得なかったことだ! 本当に本当に!君たちを見つけられて良かった」
女は、嬉しそうに言い切った。
「君の妹を殺して良かったよ!」
その言葉で、アルアの視界が一瞬白くなる。
怒りが燃えるというより、冷えた刃が脳に刺さる。
アルアが踏み込む。
だが、白銀の女はもう、距離の外側へ行っていた。
「また近いうちに会いに行くよ」
女は手を振る。
「ただその時は、刃を向けないでほしいね。じゃ!」
空間が歪む。
女は、光の裂け目に溶けるように消えた。
次の瞬間。
アルアは元の王都外の野原に立っていた。
風が、草を揺らす。
昼の匂い。
眠りの匂い。
「……クソ」
アルアはそれだけ言って、剣をしまった。
二本とも。
丁寧に、まるで壊れ物みたいに。
横で、「うーん」と声がする。
アンリミが毛布の中で身じろぎして、目を開けた。
寝起きの顔で、ぼんやり周りを見る。
「結構ぐっすり寝てしまいました……」
それから、ふっと笑って。
「あれ? エルアちゃんは?」
アルアは、答えられなかった。
アンリミが首を傾げ、アルアの方へ寄る。
「アルアさん、エルアちゃんはどこに……?」
覗き込んだ瞬間、アンリミの表情が変わる。
驚きと、怯えと、何か嫌な予感。
「アルアさん……大丈夫ですか? ひどい顔をしていますよ」
アルアは、膝から崩れた。
泣き崩れる、という言葉がぴったりだった。
涙が止まらない。声が出ない。呼吸が壊れる。
アンリミは最初、固まっていた。
けれど次の瞬間、震える手でアルアの背に触れる。
アルアは泣きながら、アンリミを見る。
エルアと瓜二つの顔。水色の髪。小さな体。
同じようで、違う存在。
その違いが、余計に痛い。
アルアは嗚咽の合間に、誓う。
誰に聞かせるでもなく。
エルアに、届くはずのない場所へ。
「……もう、失わないから」
喉が裂けそうな声。
「守ってみせるから……この剣に。エルアに、誓って……」
アンリミは、何も分からないまま、ただ隣にいた。
寄り添うことしかできないまま、アルアの肩を抱いた。
その後、アンリミが知ったのは――
エルアが死んだ、という事実だけだった。
誰が、どうやって、なぜ、ではない。
アルアは語らなかった。語れなかった。
そして。
再び行われた決定戦で、アルアは難なく優勝する。
誰も、彼のアホ毛に触れられない。
誰も、彼の剣に届かない。
アルアは聖女を守り続ける。
人はいつしか彼を、不滅の聖城と呼ぶようになる。
その腰には、二本の剣がある。
一つは、自分の剣。
もう一つは――エルアの剣。
光の降らない朝を、二度と繰り返さないために。
彼は守る。
守ることでしか、生きられないまま。




