第一章・第三十三話 聖城
白い街の夜は、昼より息づいている――はずだった。
けれど、今は違う。
アンリミの光が闇を裂いた、その余韻の上から。
私の胸の奥が、遅れて、どくんと鳴った。
息が戻ってくる。
指先に残っていた冷えが、ゆっくりほどけていく。
……いや。
ほどける、というより、押し殺していた感覚が戻ってくる、が正しい。
「……いまの」
言葉が喉の手前で引っかかる。
影狼。あの時の、空気ごと噛み潰すような圧。
それを彼女は、一瞬で霧に変えた。
見上げた空には、ソルニアの光は降っていない。
代わりに、澄んだ星空が広がっていた。
――さっき、止まった。だから、あれが膨れた。
アンリミは私たちを振り返って、にこっと笑った。
頬が少し赤い。息も、わずかに荒い。
「……びっくりした?」
「うん」
短くしか言えない。
びっくり、なんて言葉じゃ足りない。
横でアルアが、剣の柄に手を置いたまま、欠伸を噛み殺す。
「今年はまた一段と大きかったねー」
アンリミが、ぱっとそっちを向く。
「アルアもそう思った? 去年はもう少し小さかったもんね」
語尾が浮く。隠しきれない興奮が、子どもみたいに透けていた。
アルアは肩をすくめた。
「うん。でも、まだ終わってないかもしれないから、油断しないでねー」
アンリミが「えー」と頬を膨らませる前に、私の口が勝手に動いた。
「……二人とも。いまのって……」
言いながら、自分でも分かる。
聞きたいことと、聞きたくないことが同じ形をしている。
あの黒球。
影の中から出てきたそれは、影霊の塊。
私の中の冷たさが、じわりと蘇る。
アンリミは私の視線を受け止めて、少しだけ目を伏せた。
それから一歩、私に近づく。
手を伸ばして、私の袖口をそっとつまむ。
「シルアちゃん」
声が、いつもの軽さより少し落ちる。
聖女の声じゃない。
友だちの、謝る声。
「驚かせてごめんね」
胸の奥が、きゅっと縮む。
謝られるようなことじゃない。なのに、彼女は謝った。
「……実はね。一年に一回くらいの頻度で」
息を整えるみたいに、アンリミは言葉を区切る。
「影霊を利用した“兵器”で、聖女を……私を、暗殺しようとする組織がいるの」
夜の静けさが、少しだけ硬くなる。
さっきまで当たり前だったはずの白が、急に冷たく見えた。
「……影霊を、兵器に」
声にすると分かる。
恐ろしさが、現実として形になる。
影霊は人類の敵だと思っていた。
滲んで、起き上がって、襲ってくるもの。
それを、兵器として利用する者がいる。
アンリミはもう一度、小さく言った。
「シルアちゃんを巻き込んでごめんね」
袖口をつまむ指先が、少し震えている。
震えているのに、離さない。
私は言葉を選べない。
「大丈夫」も違う。
「怖い」も、なんだか違う。
怖いのは影霊じゃない。
それを“使う”と決めた人の頭の中だ。
私が黙っていると、アルアが妙に淡々と空気を切った。
「……まあ。王都のど真ん中でやるのは、相当だよねー。いつもは、もっと人がいない時にやるのに」
怒りの熱がない。
その代わり、冷たい刃みたいな平坦さがある。
アンリミは、ふっと肩の力を抜いて空を見上げた。
「真っ暗になってしまいましたね」
口調が完全に聖女のそれに戻る。
私も、つられて空を見上げる。
光は止んでいる。
きっとアンリミが力を使ったせいだ。
――彼女が息を乱した瞬間に、国の明かりが消える。
アンリミが両手を軽く振って言う。
「しばらく休憩ですね。今回の影霊、ちょっと強めだったので」
「ちょっとって」
その言葉が、私の中で引っかかる。
ちょっと、なんてものじゃない。
あれは、街ひとつを飲み込む重さだった。
言い返そうとして――
カラン。
足元で、小さな音がした。
暗くてよく見えない。
でも、音の質が。
さっきと同じ。
私は息を止めたまま、視線を落とす。
石畳の影。
その縁に、つやのない黒。
「……黒球」
口に出した瞬間。
ぱきん、と。
今度は数え切れない。
いくつも、いくつも。
乾いた殻が割れて、影が溢れ出す。
溢れた影が、立ち上がる。
輪郭が膨らむ。
「まだ……終わってない……!」
私の声が夜に刺さる。
息が白くなって、喉が痛い。
アンリミがすぐ前へ出た。
さっきより少しだけ足取りが重い。
それでも迷いがない。
「……もう。しつこいです」
声から子どもっぽさが消える。
その代わりに、硬いものが入る。
彼女が再び光を纏う。
影霊が膨れ上がる。
でも――
膨れ切る前に、削がれる。
光が刃みたいに走る。
影の輪郭が伸びる前にほどける。
夜の冷気が形を持つ前に蒸発する。
影霊たちは呻く音すら出せないまま、霧になる。
数秒。
息を吸うより早い。
白い街に、また静けさが落ちる。
アンリミが、ふう、と息を吐いた。
その息が、少しだけ弱い。
「……はぁ。さすがに、二回は……」
言いかけた、その背後。
足元の影が、ひとつ、揺れた。
揺れた、というより。
“引かれた”。
影が口を開けるみたいに裂けて――そこから、黒髪の小柄な女が現れた。
ジト目。
無口な顔。
シャルラ。
彼女は言葉を発さない。
躊躇もしない。
アンリミの腕を掴んで――そのまま影の中へ引き摺り込んだ。
「……っ!」
理解が追いつかないまま、体が動いた。
手を伸ばす。アンリミへ。
指先が空を切る。
袖に触れる寸前で、影が閉じる。
アンリミが影に沈む。
水に落ちるみたいに、音もなく。
「リミちゃん!」
叫びが遅れて出る。
喉が裂ける。
影の中へ消えた。
――消えた、はずだった。
アルアが、ため息まじりに言った。
「それは、ボクにとって害に値する」
声は平たい。
でも、その一文だけで空気が変わる。
次の瞬間。
影の中へ消えたはずのシャルラとアンリミが、アルアの前に“いる”。
まるで最初からそこにいたみたいに。
位置の辻褄が、勝手に戻される。
アンリミは目を丸くしてよろけた。
シャルラは息の乱れもなく、即座に切り替える。
聖女の首を狙って、短い刃――いや、影の刃が走る。
速い。
でも。
その攻撃は途中で“矛先”を変えた。
シャルラの刃が、アンリミの首から、アルアの頭へ。
より正確には――あの、大きなアホ毛へ。
アルアが眠そうな顔のまま剣を抜く。
二本のうちの一本。
金属音が薄い。
この男の動きは、音まで抑える。
刃がシャルラへ振り翳される――その瞬間。
「おっとっと。そいつは、さすがに困るねぇ」
軽い声が割り込んだ。
紫髪の男。
クロウ。
彼はシャルラを抱えるように引き寄せ、もう片方の手で何かを撒いた。
甘い匂い。
喉の奥が、嫌な感じに痺れる。
毒だ。
空気が、薄く色づく。
クロウは笑っているのに、目が笑っていない。
逃げる動きだけが、やけに手慣れている。
「じゃ、またねぇ。聖女さま」
毒の霧の中で、二人の輪郭が揺れて――消え……るはずが。
アルアが同じ調子で言った。
「それも、ボクにとっては害に値する」
瞬間。
逃げたはずの二人が、元の場所に戻される。
同じ姿勢。
同じ距離。
世界が巻き戻ったみたいに。
クロウの笑顔が、さすがに引きつった。
「……嘘だろ。さすがに反則すぎる」
アルアは答えない。
答える気がない。
ただ剣を持ち替えて――今度は峰で振った。
鈍い音。
クロウのこめかみが揺れ、膝が落ちる。
シャルラも抵抗の動きを見せる前に、峰が入る。
二人が音もなく崩れる。
毒の匂いが薄れていく。
夜の冷気が戻る。
――そして、止まっていたソルニアの光が、遅れて降り始めた。
王都の空が、ゆっくり息を吹き返すみたいに。
闇の影が薄まり、白が白に戻っていく。
私は、動けない。
今まで私はアルアの能力を、
“どんな攻撃も当たらなくなる”ものだと思っていた。
でも、今のは違う。
当たらない、じゃない。
それは――
もっと、とんでもない何か。
アンリミがアルアの背中に半分隠れるみたいにして、私の方を見る。
目が少し潤んでいる。
怖かったのだと思う。あれだけの光を出せても。
そして、その視線が、ほんの少しだけ警戒を混ぜる。
アルアは倒れた二人を見下ろしながら、荷物の方へ手を伸ばした。
シャルラの荷物を、無造作に漁る。
ガサ、と布の音。
夜に、やけに生々しい。
取り出されたのは、黒い球。
いくつも。
さっき割れたものと同じ質感。
アルアが口だけで笑った。
「ビンゴー」
その言い方が妙に軽い。
アルアが、ふと思い出したみたいに私を見る。
「そういえばー。シルア……さんって、今朝この二人と一緒にいたよねー?」
声は平坦なまま、刃だけが立つ。
「グルだったりするー?」
胸が、きゅっと固まる。
疑われるのは当然だ。
私はこの国の人間じゃない。
アンリミが「そんなわけないでしょ!」と即座に言い返す。
でも、その瞬間。
アンリミはアルアの後ろに隠れた。
私を庇う位置じゃない。
自分を守る位置。
「……違う」
私は喉を鳴らして言った。
「二人と出会ったのは、この国に来てから。……それだけ」
言葉が足りない。
でも足せない。
余計なことを言えば、嘘になる気がした。
アンリミが私の顔を見て――息を吐く。
「……うん」
それだけで、少しだけ肩が落ちる。
安心したのが分かる。
そして、恥ずかしそうに目を逸らした。
アルアはまだ少しだけ私を見ている。
疑っているというより、計算しているみたいな目。
でも最後に肩をすくめた。
「まあ。ボクがいる限り安全だから、深掘りはしないよー」
……安全。
その言葉の意味が、今ならわかる。
アルアは倒れた二人の襟首を、それぞれ片手で掴んだ。
持ち上げ方が雑で、でも力がある。
「ボクはこのまま二人を連れ帰って、尋問してくるよー」
言いながら、アンリミを見る。
「聖女も今日はさすがに帰ってくれるよねー?」
アンリミは一瞬、唇を噛んだ。
夜の外。自由。私との約束。
その全部が、顔の中で揺れる。
それから、小さく頷く。
「……わかりました」
“聖女”の言い方だった。
でも、すぐに続けて。
「でも、シルアちゃんも一緒に王城に来てもらいます」
「……え」
思わず声が漏れた。
アルアも「はぁ?」という顔をする。
「いやいや。巻き込んだのは、そうだけどさー」
アンリミは胸を張る。
「だって、もう友達ですし。夜に一人で帰すのは危ないです」
言い訳みたいに聞こえるのに、目は本気だ。
そして、少しだけ照れている。
「……それに」
アンリミが私の手をとる。
今度は強く握らない。
触れているだけ。
「一緒にお泊まり、しよ?」
その言い方が、あまりにも可愛くて。
私は抵抗の言葉を探す前に、心が折れた。
「……分かった」
言った瞬間、アンリミが嬉しそうに笑う。
アルアが呆れたため息を吐く。
「聖女って、自分の立場分かってるー?」
「分かってますー!」
二人のやり取りに、少しだけ夜が戻る。
△▼△▼△▼△
王城の白は、王都の白より静かだった。
廊下の灯りは柔らかいのに、影が濃い。
柱の陰が、さっきの裂け目を思い出させる。
アンリミは私の手を引いて、子どもみたいに早足で進んだ。
歩くたび、髪の水色が揺れる。
「……ねぇ、リミちゃん」
「なぁに?」
「さっきの。暗殺、って……」
言いかけたところで、アンリミが少しだけ顔を曇らせる。
でも、すぐに笑おうとする。
「うーん。あんまり考えない方がいいよ。シルアちゃんは関係ないから」
遠ざけているようで、守ろうとしてくれているのが分かる。
――でも、関係ないはずがない。私は、もう見てしまった。
部屋に通される。
ふかふかのベッド。
白い布。
窓の外には、またソルニアの光が降っている。
アンリミは私の横に座って、肩を並べた。
近い。
近すぎて、呼吸がぶつかる。
「……今日は少し力を使い過ぎてしまいましたね」
アンリミは目を閉じる。
「でも大丈夫です。私、慣れていますから」
慣れてる、という言葉が。
十六歳の口から出るのが、変だ。
私は思わず口をついた。
「こういうの……慣れたくないよね」
アンリミが目を丸くする。
それから、少しだけ笑った。
「……シルアちゃんは優しいです」
その声は聖女じゃなくて、
ただの女の子の声だった。
アンリミは、私の指先に自分の指を重ねた。
「……大丈夫です。今日はちゃんと寝ますから」
指先が温かい。
でも、温かさの下に、薄い震えがある。
「シルアちゃん……相談したいことがあるのですが……」
△▼△▼△▼△
朝。
窓の外は白い。
光が、いつも通り降っている。
昨夜の暗さが、夢だったみたいに。
でも夢じゃない。
肌の内側が覚えている。
寝台の端に座っていると、隣のベッドから小さな寝息が聞こえた。
アンリミが丸くなって寝ている。
髪がシーツに広がって、水色が薄く溶けている。
……かわいい。
そう思ってしまった自分が、少し悔しい。
ノックの音がして、扉の向こうで声がした。
「聖女さま。お目覚めでしょうか。……それから、シルアさまも」
さま。
違和感がすごい。
アンリミが「はーい」と眠そうに返事して、起き上がった。
目をこすっている姿が、王都で見た“仮面”を完全に捨てている。
扉が開く。
そこにいたのは――見慣れた顔が三つ。
リトリー。
アルティナ。
カムイ。
リトリーが、一歩入った瞬間に固まった。
視線が部屋の中を滑って。
ベッド。
アンリミ。
そして私。
「……え、ちょっと待って」
声が裏返る。
「シルアが王城にいるって聞いた時点で驚いたけど……これ、どういう状況?」
リトリーの目の前。
私は――アンリミに片腕を抱かれていた。
抱かれていた、というより。
抱きつかれている。
アンリミは、にこっとする。
“聖女”の笑顔に寄せているのに、目が子どもっぽい。
「私たち、お友達ですから」
リトリーが私の方を見る。
「説明して」と言わんばかりの圧がある。
アルティナは尻尾が分かりやすく、ぴんと立っている。
カムイは眉間に皺を寄せたまま、短く言った。
「……何があったんだ」
喉が乾く。
どこまで話すべきか。
私は息を吸って、吐いた。
言葉を選ぶ。
「その……とりあえず、これだけは伝えとくね」
三人の視線が私に集まる。
私は言った。
「この後、大商帝国スレインに行くことになった」
リトリーとアルティナの顔が同時に固まった。
「……は?」
「え、スレイン!? あの、商人の国の!?」
カムイは短く息を吐いて、私を見る。
「……理由」
私の返事より先に、アンリミが元気よく言った。
「私が決めました!」
リトリーが目を細める。
アルティナの尻尾が左右に揺れる。
カムイの眉間が、さらに深くなる。
私はアンリミの腕の中で、小さく肩をすくめた。
理由なんて、あまり言いたくない。
昨日、勢いで決めてしまったなんて――言えるわけがない。




