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第一章・第三十話 不滅聖城

「……シルア。起きろ」


低い声が、布団の上から落ちてくる。


次いで、ふわりと獣毛の匂い。

尻尾が布団を叩く音が、今日は昨日よりやたら元気だった。


「起ーきて! 朝! 今日は起きるんでしょ!」


「……あさ……」


喉が、まだ夜の底に沈んでいるみたいで。

声にしたはずの言葉が、息に溶けて出ていった。


「もー、昨日と同じじゃん」


リトリーの声が笑っている。

笑っているのに、布団の端を剥がしてくる手は容赦がない。


「昨日は夕方まで寝てたんだよ? 今日も同じことしたら、また置いていくからね」


「……やだ……」


言った瞬間、自分でも驚いた。

置いていかれるのが嫌、なんて。


アルティナが、私の顔の横に顔を出す。


「シルア、ほんとに眠いの? 昨日の夜も……夜更かし?」


「……う」


返事の途中で、舌が止まった。

夜の王都、星と光の間。手の温度。

思い出そうとすると、胸の奥がきゅ、と小さく鳴る。


カムイが短く息を吐く。


「行くぞ」


「……まだ……」


「起きるまで待つ気はない」


「カムイ、朝から冷たい!」


アルティナが抗議して、でもすぐ私へ戻ってくる。


「ねえ、ほら。起きたら朝ごはん。王城の近くの決闘場、早いんだから」


「……決闘……」


その単語だけで、少しだけ目の裏が明るくなった。

会いたい、という気持ちが、眠気の底から指を伸ばしてくる。


リトリーが、布団の端を持ち上げて覗き込む。


「よし。じゃ、最後の質問だからね。起きる?」


「……起きる」


言い切ったつもりだったのに、声がふにゃっと崩れた。


「うわ、頼りない」


アルティナの尻尾がぱたぱたと鳴って、私の布団が揺れる。

揺れが心地よくて、危うくまた寝そうになって。


「……寝る……」


「起きて〜!」


リトリーが笑いながら私の肩を揺らして、ようやく私の体が布団から剥がれた。


△▼△▼△▼△


朝食は、宿の食堂の隅で。

窓から白い街が見える。光の粒が、今日も雪みたいに降っている。


木の皿の上のパンは、昨夜と同じ硬さ。

スープは香草の匂いがするのに、味がやさしすぎて、逆に目が覚めない。


私はスプーンを持ったまま、数秒止まった。


「……シルア、今止まってたよ」


リトリーが言う。


「止まってない」


「止まってたって。スープが冷めちゃうよ」


アルティナが口いっぱいにパンを頬張って、もごもご言った。


「ねむねむ……」


「お前が言うな」


カムイが呆れたみたいに言う。


私は、口にスープを流し込んだ。

温かいのに、眠気がほどけるどころか、体の奥へ溶けていく。


(……だめだ)


目を閉じたら、落ちる。

私は無理やり噛む。パンが硬い。硬さが、今はありがたい。


「……行ける?」


リトリーが、真面目な声で聞いた。


私は頷いた。頷くのにも時間がかかった。


「……行く。目的、あるから」


アルティナが嬉しそうに耳を立てる。


「おー! 目的! 私も不滅聖城を倒したい!」


カムイは、私の目元を見て眉を寄せた。


「……影狼の時とは大違いだな」


「あの時は必死だったから」


「そんなもんか?」


「……そんなもん」


言った瞬間、自分で少し笑いそうになって、喉の奥で止めた。


△▼△▼△▼△


王城のすぐ下にある決闘場は、朝の空気をまだ冷たく残していた。


白い石の通路。高い壁。

その向こうから、すでに人のざわめきが溢れてくる。


角を曲がった瞬間。


「……え」


声が漏れた。


長蛇の列。

“長蛇”なんて言葉が遠慮してしまうくらい、白い道を埋めている。

決闘場の入口から、ずっと。ずっと先まで。


「朝早いのに、これ……」


「昼はもっとすごかったよ」


リトリーが肩をすくめる。


アルティナが興奮して尻尾を振る。


「こんなにいるのに誰も不滅聖城に触れることすらできないんだよね?」


「言い方」


「事実だろ」


カムイが短く言って、列の最後尾へ向かう。


私は歩きながら、頭がふわふわしていた。

人の声と足音が、波みたいに押してくる。

目の奥が、たまに白くなる。


(……寝ちゃダメ)


歩きながら寝そうで、私は唇を噛んだ。


その時。


少し前の方で、誰かが手を大きく振っているのが見えた。

紫の髪。

隣に、黒髪の小柄な影。


「おーい! こっちこっち!」


クロウだった。

その横で、シャルラが無言で手を上げている。上げ方が控えめすぎて、挨拶なのか分からない。


「やっぱり二人は誰かと違って朝に強ーい」


リトリーが言いながら、二人のところへ近づく。


クロウがにやっとして、私を見る。


「お、シルアの嬢ちゃんも参加すんのか? 昨日は寝てたって聞いたが」


「……うん」


私は頷いた。頷いた、はず。

たぶん、首が落ちた。


クロウが笑う。


「眠そうだな。列が羊の群れにでも見えたか?」


「……見える」


正直に言うと、アルティナが吹き出した。


「だめだよシルア、ほんとに寝そう!」


カムイが私の横で、低い声を落とす。


「そんなので本当に戦えるのか」


私は、一拍置いてから言った。


「……戦いが目的じゃないから」


「へえ?」


クロウが興味深そうに眉を上げた。


リトリーは、私の横顔をちらっと見て、何も言わなかった。

言わないけど、たぶん分かってる顔。


シャルラが、短く。


「……会うことが目的?」


誰のことか言わなくても、分かる響きだった。


私は、うん、とだけ返す。

返した直後、目がまた白くなって、意識がふっと沈む。


(……落ちる)


足が止まりかけたとき。


空気が、変わった。


△▼△▼△▼△


決闘場全体を、極光が包んだ。


光の粒とは違う。

雪のような優しい降り方じゃない。


上からではなく、世界の中心から広がるみたいな、眩しい波。

白の街が、白を超えて、目が焼ける。


列にいた人たちが一斉に声を上げた。


「うわっ……!」


「な、なんだ!?」


「目が……!」


手で目を覆う影。膝をつく人。

ざわめきが、驚きの形に変わる。


私は――。


眩しいのに、嫌じゃなかった。

光が皮膚を撫でる感覚がして、胸の奥に沈んでいた重さが、すうっと薄くなる。


眠気が、削られていく。

引き剥がされるんじゃなく、温かい湯でほどけていくみたいに。


息が、深く入った。


(……あ)


目が、開く。

視界がはっきりして、足裏が石を捉える感覚が戻ってくる。


クロウが、目を細めて辺りを見回した。


「今の……聖女さまの光か?」


その一言で、周囲の空気が一斉に“理解”へ落ちた。


「聖女さまだ……!」


「祝福だ……!」


「我らのために……!」


歓声が、熱狂の形で噴き上がる。

さっきまで驚いていたのに、その驚きを燃料にしてさらに燃える。


「聖女さまー!!」


泣く声まで混ざって、列がうねる。

誰かが地面に額をつけて祈り始めた。


リトリーが、引いた顔で私を見た。


「……これ、毎回なの?」


アルティナが耳を伏せて、尻尾だけ困ったように揺らす。


「う、うるさい……」


カムイは眉間を押さえた。


「愛が重い」


私は、胸の奥が妙に軽いのを感じながら、彼らの顔を見た。

三人が、さっきまでの私を知っている顔で、今の私を見ている。


「……え、シルア?」


リトリーが言う。


「急に目が覚めたね。さっきまで、半分寝てたのに」


「そうそう! 今、いつものシルアの目だよ!」


アルティナが覗き込む。


カムイが、疑うように。


「……何があった」


私は、答えを飲み込んだ。

光の正体も。名前も。――二人だけの秘密だから。


代わりに、肩をすくめる。


「……友情パワーだよ」


リトリーが一拍止まって、吹き出した。


「あはは、どういうこと?」


アルティナも笑って、カムイが呆れたように息を吐く。


シャルラだけが、私の顔を見て、何も言わない。

その目が少しだけ細くなる。


クロウが、肩を鳴らすように笑った。


「いいじゃねえか。元気ならよ。ほら、並ぶぞ。順番は……まあ、そのうち回ってくるだろ」


列は、少しずつ進む。

熱狂は収まらないまま、決闘場の入口が近づいていく。


△▼△▼△▼△


中は、思ったより広かった。


白い円形の舞台。

周囲に段になった観覧席。

剣やいろんな武器を持った人間が、蟻みたいにぎっしり詰まっている。


そして――罵声。


「アルアァ!」


「不滅ぶった城が!」


「今日こそ落とす!!」


歓声も混じる。

同じ口から、聖女への賛美とアルアへの憎しみが、矛盾なく吐き出されている。


列の前方で、空気が割れるみたいに声が走った。


「出たぞ……!」


「聖女さまだ……!」


視線が一斉に上を向く。


決闘場の高い位置、特等席へ繋がる通路に、白い影が現れた。

小柄で、水色の髪が光を拾う。


アンリミ。


その隣を、欠伸でもしそうな歩き方でついてくる男がいる。


白を基調とした服。黒髪。無気力そうな顔立ち。

腰には”二本”の剣。


そして――頭頂。


大きな、ありえないほど目立つアホ毛。


(……あ)


噂の形が、目の前に立体で現れた。


アルア・ホーミリア


それはとても最強には見えない姿だった。


罵声が飛ぶ。


「死ね!」


「聖女さまから離れろ!」


「お前さえいなければ!」


アルアは、欠片も気に留めない。

視線を観覧席に投げるでもなく、ただ前を見て、手を軽く上げた。


「えー、それではー……今日もこの、くだらない決闘を始めたいと思いまーす」


声は棒読みみたいに平らで、場の熱と噛み合っていない。

逆に、場の熱だけが浮き彫りになる。


「ルールは、ボクに触れられたら負けでーす。いじょー」


短すぎる説明に、会場が一瞬止まって――すぐ怒号に戻る。


その“止まった一瞬”を縫うみたいに。


誰かが剣を投げた。

誰かが火球を放った。

誰かが氷の槍を作って飛ばした。


ルール説明の最中だ。

でも誰も気にしない。“今当てたら勝ちだ”とでも思っているみたいに。


飛んだ剣が、アルアの胸へ一直線に――


空気が曲がる。

剣の軌道が、突然“頭の上”へ引っ張られて、大きく跳ねた毛の根元へ収束していく。


火球も。氷槍も。

渦を巻くように上へ引かれて、次の瞬間――


それらをアホ毛が、ひょい、と避けた。


避けた、というより。

そこにあるはずの一本が、世界の都合で“そこにないことにされた”みたいに、すり抜ける。


投げた人間たちが叫ぶ。


「まただ……!」


「くそっ!」


アルアは、面倒くさそうに眉を動かしただけで、腰の二本の剣にも触れなかった。


「……危ないからやめてねー」


言い方は軽いのに、誰も笑わない。


私は、息を忘れていた。

見た目の脱力と、能力の異質さが釣り合っていない。

“最強”は、凄みじゃなく、ズレでそこにいる。


隣で、リトリーが小さく呟く。


「……すごい」


アルティナは目を輝かせている。怖がってない。

カムイは、静かに息を整えている。

クロウは、口元だけ笑っているのに、目が冷えていた。

シャルラは、じっとアルアを見ている。瞬きが少ない。


アンリミは、特等席へ移動していく。

一望できる場所。

そこに腰掛けると、完璧な微笑みで観衆へ手を振った――


(……え?)


特等席の、アンリミの横。

そこに、なぜかルネアがいた。


白い欄干にもたれて、当然みたいな顔で。

そして、当然みたいにアンリミへ身を寄せて、何かを喋りかけている。


距離があるから声は聞こえない。

でも、口元の動きがやけに落ち着いていて――“同じ席を用意して”と言っているみたいだった。


アンリミは微笑んでいる。

けれど、それは観衆に向けた“聖女の笑顔”で、どこか硬い。


作り笑いだ、と分かってしまう。

口角は上がっているのに、目が笑っていない。


「……え、あれってルネアだよね?」


リトリーが、思わず声を落とした。


アルティナも、尻尾の動きが止まる。


「ええ!? なんであそこに……」


カムイは目を細める。


四人分の驚きが、同じ方向へ固まる。

私の胸の奥に、冷たいものがひとつ落ちた。


ルネアが何か言って、アンリミが小さく頷く。

作り笑いのまま。

まるで、笑顔という仮面を外せない場所に縫い付けられているみたいに。


それでも、ほんの一瞬。


ルネアが視線を外した隙に、アンリミの目がこちらへ落ちて――

硬い笑みがほどけるみたいに、少しだけ、友達の目で笑った。


私の視線に気づいたみたいに、小さく手を振ってくれる。


胸が、きゅっと鳴る。


「おいおいおい!」


クロウが、急にでかい声を出す。


「聖女さまが俺に手を振ってくださってるぞ!」


「何言ってんだ」


カムイが即座に返す。


「どう見ても俺だろ」


「……は?」


クロウの眉が吊り上がった瞬間。


ごす。


アルティナの拳が、カムイの腹に入った。

軽くじゃない。ちゃんと入った。


「……ぐ」


カムイが苦しそうに息を吐く横で。


ぐい。


シャルラが、無言でクロウの足を踏んだ。

踏み方が丁寧で、逃げ道がない。


「いってえ!! シャルラ!?」


シャルラは何も言わない。

ただ視線だけで「黙れ」と言っている。


私は、思わず口の端が上がった。

アンリミが微笑んだまま、こちらを見ているのが見えて――少し恥ずかしくなって視線を逸らした。


△▼△▼△▼△


決闘が始まると、列は“消えていく”みたいに進んでいった。


挑戦者が一人、また一人。

舞台に立って、叫んで、剣を振るい、魔法を撃ち。

そして、終わる。


終わり方は、いつも同じだった。


アルアは、舞台の中央に机と椅子を置いて座っている。

机の上には書類の束。

ペンを走らせて、時々ページをめくって、整理している。


――戦っているように見えない。


挑戦者が突っ込む。

剣が唸る。

火が走る。風が切り裂く。氷が弾ける。


全部、届かない。

届きそうになると、空気が歪む。

全てが、頭の上へ吸い寄せられる。


それをアホ毛が、避ける。

避けるたびに、会場がざわめく。

避けるたびに、挑戦者の顔が歪む。


そして、挑戦者が息を切らした一瞬。

あるいは、攻撃に夢中になって足元を忘れた一瞬。


アルアがいない。


次の瞬間には、挑戦者の背後にいる。


指先が、肩や背中や額に、ぽん、と触れる。

それだけで終わり。


触れられた挑戦者は、凍ったみたいに止まってから、膝をついたり、悔しさに叫んだり、笑ったりする。


「……決闘、って感じじゃないよね」


リトリーが小声で言う。


「ほとんど動かないのに、ずっと一方的!」


アルティナが悔しそうに言う。

悔しそうなのに、尻尾は楽しそうに揺れている。


私は、舞台の上を見つめながら思った。


(みんな、勝ちたいんじゃない)


勝つのは、もう無理だと分かっている顔が多い。

それでも投げる。撃つ。斬る。


ただ一度でいい。

あの人に“当てたい”。

それだけの熱が、ここを埋めている。


――そんな気がする。


△▼△▼△▼△


列が進み、ついに、私たちの番が近づいた。


係の兵が、次の挑戦者を呼ぶ。

リトリーが一歩前へ出て、剣の柄に手を添えた。


「じゃ、行ってくる」


軽い言い方。

でも背中は、ちゃんと戦う人のそれだった。


「無理しないでね!」


アルティナが言う。


カムイは短く。


「油断するな」


クロウが笑う。


「触れられなきゃいいだけだ。簡単だろ?」


「簡単なら、こんな列になってない」


リトリーが返して、舞台へ上がった。


私は、息を吸う。

アンリミのいる特等席が見える。

その横にはルネアがいて、まだ何か話しているのが見えて、胸の奥が少しだけざらついた。

それでも、視線が合った気がして、心臓が一度だけ速くなる。


リトリーは、真正面から歩いた。

派手な構えはしない。

剣を抜く音だけが、白い空間に澄んだ。


アルアは椅子に座ったまま、書類の束を揃えている。

顔も上げない。


「……始めるよ」


リトリーが言った。

言い方は軽いのに、刃は軽くない。


踏み込む。


一歩目が速い。

床を蹴る音が遅れて聞こえるくらい、体が前へ滑る。


斬撃。

水平。鋭い。空気が裂ける。


――届く。


誰もがそう思った距離で。


刃が、ずれた。


リトリーの剣先が、アルアの首筋へ向かうはずだった軌道が、ほんの僅か、上へ反らされる。

反らされた先――頭の上。


アホ毛。


吸われかける感覚に、リトリーが眉を寄せる。

手首で無理やり修正し、二撃目。


今度は斜め。

肩から腰へ落とす軌道。


また、ずれる。

今度は横へ。空気が、そこだけ柔らかくなったみたいに、刃が滑る。


「……なにこれ」


リトリーの声が、初めて乱れた。


彼女は踏み込む。

小刻みな連撃。

刃が何度も白い空気を切り裂く。


けれど、その“切り裂き”が、切り裂けていない。

刃が当たる寸前、世界が刃を拒む。

拒むのに、手応えはない。

ただ、目的地だけが、少しずつずれていく。


リトリーが歯を噛む。

足を止めない。

距離を詰めて、間合いを潰して、身体で押し切ろうとする。


剣を当てることが無理なら、柄で。

肘で。肩で。体当たりで。


「……っ」


リトリーが踏み込んだ瞬間。


床の空気が、ふわりと軽くなった。

足裏が捉えたはずの摩擦が、消える。


一瞬、バランスが浮く。


リトリーが立て直すより早く。


アルアが、いない。


そして。


背中に、軽い感触。


ぽん。


「はい、負けー」


棒読みの声が、すぐ後ろから聞こえた。


リトリーの肩が、僅かに落ちる。


「……そっか」


悔しそうに笑って、振り返る。


アルアは、もう椅子に戻りかけている。

ペンを取り直している。


リトリーは、剣を納めながら呟いた。


「剣のほうが、勝手に動くんだ……」


舞台を降りてきた彼女が、私たちを見る。


「無理だよ、あれ。技とか以前に、当たってくれない」


アルティナが悔しそうに唸る。


「むむむ……!」


カムイは、静かに言った。


「確認できた。正面からは通らない」


クロウは、楽しそうに口角を上げる。


「じゃあ、正面じゃなきゃいいってことだな」


シャルラが、短く。


「……行く」


クロウが手を上げた。


「俺が先だ。派手なの見せてやるよ」


係の声が、次の挑戦者を呼ぶ。

クロウが舞台へ上がった。


△▼△▼△▼△


クロウは剣を抜かない。

手のひらを掲げて、にやりと笑った。


「おいおい、不滅聖城さんよ。今日も暇そうだな?」


アルアは椅子に座ったまま、書類をめくっている。


「……忙しいよー」


「嘘つけ」


クロウが指を鳴らす。


空気が、甘ったるくなる。

花の匂いじゃない。鼻の奥を刺す、薬草を煮詰めたような匂い。


紫色の靄が、クロウの足元から滲むように広がった。

床を這い、白い石を汚すみたいに見える。


観客席がざわめく。


「これ毒か……!」


「危ねえぞ!」


クロウは楽しそうに笑って、靄を操る。

靄が細く伸びて、糸になり、次々に絡み合って“檻”を作る。


アルアの周囲を囲う。

逃げ道を潰す。

上も下も、隙間なく。


そして、クロウが手を握った。


檻が、一気に凝縮する。

ただの毒じゃない。

密度が上がるたび、空気が重くなる。喉が焼けそうになる。


(……当たる?)


私が息を止めた瞬間。


毒が、曲がった。


檻の角が、急に流れを変えて、上へ、上へ――頭の上へ吸い上げられていく。

吸われるのに、破れない。

破れないまま、意思を奪われた蛇みたいに引き寄せられる。


大きなアホ毛へ。


「……っ」


クロウの目が、初めて大きく開いた。


「流れが……!」


毒が、そこまで来て。


アホ毛が避けた。


避けるだけじゃない。

吸い寄せられた毒の束を、紙一重でかわし続ける。

一本の毛が、踊るみたいに。


毒の刃が、空を切る。

刃が空を切るたび、クロウの顔が歪む。


「……これも通じねぇのかよ!」


クロウが歯を見せて笑う。

笑い方が、冗談のそれじゃない。


次の瞬間、クロウは毒を“爆ぜさせた”。

紫の光が瞬く。

檻そのものを破裂させ、広範囲へ撒き散らす。

逃げ場を作らない――自分も巻き込む覚悟の撒き方。


観客席が悲鳴を上げる。


でも、アルアは動かない。


毒の粒が飛ぶ。

飛んだ先が、全部――上へ引っ張られる。

吸い寄せられて、回避されて、空を切って、また吸い寄せられる。


クロウは舌打ちして、踏み込もうとした。

距離を詰めて、剣で――と動いた、その瞬間。


背後に、気配。


ぽん。


肩に触れる指先。


「はい、負けー」


クロウが固まって、ゆっくり振り返る。


アルアは、無気力そうな顔で言った。


「危ない力だなー。人に向けないでもらいたいものだよー」


クロウの笑いが、一瞬だけ消えた。


「……善処するよ」


言い方だけは軽い。

でも目は、鋭く細いままだった。


アルアが続けて、どうでもよさそうに言う。


「この国じゃなかったらもっと強力だったろうねー。聖女の光で、だいぶ弱まってるし」


クロウは舌打ちだけして舞台を後にする。


舞台を降りると、クロウは私たちに肩をすくめる。


「まいったな。毒の流れまで持ってかれるとは思わなかった」


リトリーが言う。


「クロウの力にも驚いたけどあれも通じないんだね」


シャルラが前へ出た。

小柄な背中が、舞台の白に飲まれそうに見える。


「次、私」


声が小さいのに、会場が妙に静かになる。

それは、彼女の“静けさ”が周囲を削るからだと思った。


△▼△▼△▼△


シャルラは剣を抜いた。


抜く音が、短い。

構えも短い。

無駄がない。


能力を使う気配はない。

ただ、身体の内側から魔力が巡る感覚だけが、遠目にも伝わってくる。


――速い。


一歩が、もう刃の届く距離。

刃が白い空気を切って、残像みたいに見える。


アルアは椅子に座ったまま、書類を整えている。

その無関心が、逆に挑戦者を煽る。


シャルラは連撃を重ねる。

上、下、横。

斬るたびに軌道が変わる。

変わるのに、狙いは一本に絞られている。


だが、リトリーと同じ。

刃が届く寸前、ほんの僅かにずれる。


シャルラは顔色を変えない。

変えないまま、速度を上げる。


床を蹴る音が消える。

体が軽くなって、刃が風の線になる。


(……すごい)


剣技だけで、ここまで。

身体強化の制御が、恐ろしく正確だ。


それでも。


アルアに触れられない。


シャルラは距離を詰める。

刃が弾かれるなら、刃を捨てる勢いで踏み込み、柄で突く。


――突きも、ずれる。


空気が、そこだけ斜めになるみたいに、突きが逸れる。


シャルラの眉が、ほんの僅かに動く。

悔しさが、表情じゃなく、呼吸の浅さに出る。


その瞬間。


アルアが消えた。


ぽん。


シャルラの肩に、軽い指先。


「はい、負けー」


シャルラは、固まってから、ゆっくり振り返る。


「……ち」


小さな舌打ち。

頬がほんの少し膨らんで、すぐ引っ込む。


それが、妙に子どもっぽく見えてしまって、私は目を瞬いた。


シャルラが降りてきて、私たちの横に戻る。

何も言わない。

でも足取りが少しだけ乱れている。悔しさ。


アルティナが、前へ出た。

目が燃えている。


「次、私!」


カムイが、彼女の背中に言う。


「ティーナ、落ち着け」


「落ち着いてるもん!」


尻尾がぶんぶん振れている。

落ち着いてない。


△▼△▼△▼△


アルティナは剣を抜く。

金属の音が、明るく鳴った。


まずは確かめるみたいに踏み込む。

剣で斬る。

リトリーと同じように、刃が僅かに逸れる。


「……やっぱり!」


アルティナは悔しそうに歯を見せて笑った。

悔しいのに楽しそう。

戦うのが好きだ、と体が言っている。


「じゃあ、これはどう?」


剣を納めないまま、彼女は大きく息を吸った。


胸が膨らむ。

空気が、彼女へ集まる。


(……来る)


私は直感で息を止めた。


アルティナの能力は“圧縮”。

狙ったものに圧力を加える。


彼女が狙うのは――アルアの“周囲”。

一点じゃない。空間ごと。


「……っ」


アルティナが、吐く。


見えない手が、決闘場の中心を握り潰したみたいに。


床が軋む。

空気が悲鳴を上げる。

紙が舞う。

アルアの椅子がきしみ、書類の束が一斉に持ち上がって――押し潰される。


圧力が、目に見えないのに“見える”。

空間が歪み、白い床の線が曲がる。


観客席がどよめいた。


「う、嘘だろ……!」


「やれるんじゃねぇか……!?」


クロウが、目を見開いて呟く。


「あの犬っころ、あんなにつえぇのかよ……」


「犬っころ言うな」


カムイが反射で返す。

返したのに、目は舞台から離れない。


圧力は、さらに増す。

アルアの周囲にあったものが、ぐしゃり、と音を立てそうな勢いで圧縮されていく。

椅子が、書類が、床の小石が、目に見えない壁へ押し付けられて形を変える。


――でも。


アルアは、傷ひとつつかない。


圧がかかっているはずなのに、彼の輪郭が揺れない。

世界が潰れているのに、彼だけ“外側”にいるみたいだ。


アホ毛が、ふわりと揺れる。


圧力が形を持ってアルアの髪に収束しようとする気配がある。

けれど、圧力は物質じゃない。

空間の状態そのもの。


それでもアホ毛は、吸う。

吸って、避ける。


避ける、というより。

圧縮されたはずの中心が、次の瞬間には僅かにずれていて、アルアのいる場所だけが“そこじゃない”ことになっている。


アルティナが、歯を噛んだ。


「……当たって!」


叫びじゃない。祈りに近い声。


圧力が限界まで高まって、床が一瞬だけ沈んだ。

白い石が割れそうな音がした気がする。


そして、ふっと圧が抜けた。


アルティナが息を切らす。

額に汗。

目はまだ燃えているのに、膝が少し揺れている。


舞台の中心は、ぐしゃぐしゃだった。


書類は、悲惨な塊になって散っている。

椅子は傾いている。

床の白が、そこだけ乱れている。


アルアは無傷で、でも――書類を見て、初めて表情を変えた。


「……あ」


平らな声が、少しだけ沈む。


「……書類が」


アルティナが、はっとして耳を伏せた。


「ご、ごめんなさい……!」


アルアはため息もつかない。

ただ、散らばった紙を拾い集めるみたいに手を伸ばして――


その瞬間、アルティナの肩に、ぽん。


「はい、負けー」


アルティナが固まってから、力なく笑った。


「……うう、悔しい。……でも、ごめん……」


「いいよー。書類を能力の対象に入れなかったボクが悪いんだ。直せばいいしー。……今日は寝れなくなったけど」


棒読みのまま、アルアは紙の塊を見つめている。

そこに心があるのかないのか、分からない。


アルティナが戻ってきて、クロウが肩を叩く。


「派手だったなあ。会場ごと潰すかと思ったぜ」


「潰してない!」


「でも精神ダメージは与えられたんじゃない?」


リトリーが言うと、アルティナは申し訳なさそうにする。


カムイが、私を見た。


「次だ」


その一言で、空気が少しだけ変わった。

私の心臓が、静かに鳴り直す。


舞台の白が、遠い。

アンリミのいる特等席が見える。

彼女は、私を見ている――その横にルネアの影があるのが、嫌でも視界に入る。


(……ようやく、話せる)


係の声が響いた。


「次の挑戦者!」


私の番が来た。

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