第一章・第二十八話 夜遊び
「……この国の、聖女……?」
口にした途端、舌が自分のものじゃないみたいに、少し遅れて動いた。
目の前の少女――アンリミ・ソルニアは、小さく頷く。
頷き方まで丁寧で、なのにどこか気まずそうで。
「はい。……ええと、その……」
言いかけて、彼女は困ったように笑った。
聖女だと名乗ったのに、偉そうにしない。
むしろ、急に“肩書き”だけが宙に浮いてしまったみたいに、肩がほんの少し縮んでいる。
「驚かせてしまいましたよね。ごめんなさい。私、こんな感じで名乗るの、あんまり慣れてなくて……」
「……そりゃ、驚いたけど」
私は息を呑んで、呼吸を整えた。
驚きすぎて胸が痛い。けれど、さっきまで頭を削られるみたいだった痛みが消えているから、身体の感覚のバランスが逆におかしい。
アンリミは小さく手を振った。
「私、すごい人じゃないんです。……たまたま、そういう立場になっただけで……」
“たまたま”で済む言葉じゃない。
国を覆う規模で光を降らせるのを“たまたま”なんかで片付けていいわけがない。
でも、その謙遜は嘘じゃなくて。
彼女の声が、ほんの少しだけ苦しそうだった。
「……あなたは?」
アンリミが、言葉を慎重に選ぶみたいに聞いた。
「お名前、聞いてもいいですか。その……あなたのことが気になって」
私は一瞬迷って、それからちゃんと口にした。
「シルア。……シルア、です」
自分の名前を言うと、胸の奥がわずかに温かくなる。
少しだけ、地面に足がつく感じがした。
アンリミは「シルア」と一度、音を確かめるように復唱して、頷いた。
「シルアさん。……いい名前。響きもなんだかあの人に似ていて」
あの人?でも名前を褒められるのは嬉しい。
私が唯一覚えていたものだから。
「ありがとう」
沈黙が落ちる。
その沈黙が、怖くない。
私は、彼女のフードの影――左目の紋をもう一度見る。
見た瞬間に頭痛が来たことを思い出して、反射的に視線を逸らした。
「……どうして、ここに? 聖女さまなら……もっと、こう……」
王城の中とか。護衛に囲まれているとか。
言葉を探していると、アンリミが先に笑った。
「そうですよね。普通は、そう思います」
笑っているのに、薄いガラスみたいに脆い。
「私……たまに、息が詰まるんです」
アンリミは、夜の王城を見た。
「聖女さま、って呼ばれると……私の言葉も、表情も、全部“正解”じゃないといけなくなるでしょう? 間違えたら、国に関わってくるから」
「……」
「でも、私は十六歳で。こうやって座って、風の匂いを嗅いで……ただ、それだけの時間が欲しくなるんです。ほんの少しだけ、“ただの女の子”に戻りたい」
その言い方が、痛いくらいに分かる。
私は“戻る場所”がないのに、彼女には戻りたい場所があるのに戻れない。
同じじゃない。でも、似ている。
似ているから、胸がぎゅっとなる。
「……お疲れさま」
気の利いた言葉は出なかった。
でも、嘘は言いたくなかった。
アンリミは驚いたみたいに瞬いて、それから目尻を少しだけ柔らかくした。
「……そう言われたの、久しぶりです」
声が小さくなる。
まるで、誰にも聞かれないように、そっと置くみたいに。
「アルア以外に……こういう話をしたの、初めてかもしれません」
アルア。
不滅聖城。護衛。嫌われ者。アホ毛。
馬車の中で聞いた情報が、一気に繋がっていく。
私が息を呑むと、アンリミは照れたようにフードの縁を指でつまんだ。
「……あの、シルアさん」
「うん」
「その……お願いが、あります」
言い方が、急に幼くなる。
聖女の声じゃない。
「お友達に……なってくれませんか」
胸の奥が、軽く跳ねた。
友達。
簡単な言葉なのに、遠い。
私は、頷いてしまうのが怖くて、でも頷きたくて。
間を置いて、ゆっくり答えた。
「……いいよ」
アンリミの顔が、ぱっと明るくなる。
光の粒より、もっとはっきりした明るさ。
「本当ですか?」
「うん。ただ……」
私は視線を落として、指先を握った。
「私は旅の途中だから。ここに長くはいられないと思う。だから、ずっと一緒にはいられないよ」
嬉しそうだったアンリミが、少しだけ肩を落とす。
ほんの一瞬。
それでもすぐに、彼女は笑ってみせた。
「……そっか。残念です」
本当に残念そうなのに、笑うのが上手すぎる。
その“上手さ”に、また胸が痛む。
「でも、友達になってくれたの、嬉しいです。国民の人にはこんなこと言えないですし……ねえ、シルアさん。どうして旅をしているんですか?」
問われて、私は息を吸った。
言っていいことと、言えないことがある。
でも――この子には、少しだけ言ってもいい気がした。
さっき、痛みを消してくれた。
“聖女”の力で。
それでも彼女は、私を見下ろさなかった。
「……私、記憶がないの」
アンリミの表情が、固まる。
「記憶……喪失、ですか」
「うん。自分が誰だったか、どこから来たか……分からない。だから手がかりを探して、世界中を歩いてる」
アンリミは、しばらく黙っていた。
夜の風が、フードの裾を揺らす。
「……記憶喪失」
彼女は、その言葉を噛むみたいに繰り返した。
それから、私の顔を見る。
「さっき、急に頭が痛くなりましたよね。……私の目を見て……」
私は頷く。
喉の奥が少し苦い。
「あなたの目を見た瞬間、少し何かを思い出しかけた。……でも、すぐ痛くなって、怖くて。ごめん」
「謝らなくていいです」
アンリミは首を振った。
その動きが、小さくて強い。
「でも、同じ目をした知り合いがいるって……その人の時は何か思い出さなかったんですか」
「いる。……ただ、こんな近くで見たのは初めてで。だから、刺激になったのかも」
私は、そっと彼女の左目を見る。
今は痛まない。怖さだけが薄く残る。
「その目は……何なの?」
アンリミは少し迷ってから、フードをほんの少しだけ上げた。
夜の薄明かりの中で、紋がはっきり見える。
三本の線が、中心へ吸い込まれていく。
「これは……越眼と、アルアがそう呼んでいました」
「越眼……」
「何かの壁を越えた人が、持つ目。……開いている間、身体の感覚が鋭くなって、剣の扱いも、魔力の流れも……全部、遠くまで届くようになるって聞きました」
“聞きました”と、彼女は付け足した。
自分のことなのに、断定しない。
あまり詳しくないのだろうか。
「普通は、開いたり閉じたりできるんです。私は……ずっと開いたままでないといけないのですが」
アンリミの指が、左目の下をなぞる。
触れ方が、少しだけ痛そうだった。
「有名な開眼者は、私や四大国の頂点に立つ方々ですね」
私は、ゆっくり息を吐いた。
四大国の頂点。
そこに並ぶ名前の重さが、夜の空気より重い。
「……少ないんだね」
「はい。そう多くないです」
アンリミが頷く。
だからこそ、私の胸の中の違和感が、はっきり形になる。
少ないはずなのに。
私は、もっと大勢が――同じ紋の目を開いているのを見た気がする。
もっと近くで。もっと当たり前みたいに。
“気がする”のに、確信だけが胸の奥に残る。
それが怖い、けれど同時に嬉しい。
初めて、自分の記憶に触れた感じがしたから。
私は唇を噛んで、笑いそうになるのを抑えた。
アンリミが、その表情を見て、ふわっと微笑む。
「少しでも思い出せて……よかったですね」
優しい声。
「頭痛の方は、もう大丈夫ですか?」
「……うん。大丈夫」
「よかった」
それから彼女は、急に元気な声を出した。
「じゃあ、夜の王都を一緒に回りませんか? シルアちゃん」
「……ちゃん?」
私が聞き返すと、アンリミは胸の前で手を組んで、少し身を乗り出した。
「はい! 友達ですから」
“友達”を言うのが、嬉しくてたまらないみたいに。
「シルアちゃんも、私のこと……リミちゃんって呼んでくれますか?」
「……リミちゃん」
口にすると、変な感じがする。
でも、悪くない。
アンリミは目を丸くして、それから笑った。
笑い方が、さっきよりずっと軽い。
「……うれしい」
その一言が、子どもみたいで。
私は、少しだけ笑ってしまった。
「でも、聖女がこんな夜中に出歩いていいの? 危ないんじゃ……」
アンリミは、胸を張った。
「大丈夫です!」
即答。
迷いがない。
「アルアが、なんとかしてくれるので。……あ、アルアっていうのは私のお世話と護衛をしてくれる人なんですよ」
知ってる、とは言えなかった。
馬車で聞いた話の“知ってる”は、本人の前で言うには軽すぎる。
「一応、この国で一番強い人で……今は寝てますが」
そこで、アンリミの声が少しだけ弾む。
明らかに弾む。
「彼の力は、今も私を守ってくれているので、大丈夫です!」
アルアの話になった途端、彼女が少しだけ軽くなる。
私はその変化に、なんだか妙な納得を覚える。
アルア・ホーミリアとは素で接しているのだろう……。
きっと国民に見せられない自分を見せれる唯一の相手だから。
アンリミは私の手を取った。
小さな手。温かい。
「行きましょう!」
引っ張られて、私は立ち上がる。
夜の白い街に、二人分の足音が増える。
もしかしたら私は二人目かもしれない。
△▼△▼△▼△
改めて王都の夜は、昼の白さと違っていた。
白い石は、月の光を薄く抱えているだけで。
光の粒が落ちても、ぎらぎらしない。
むしろ、静かに滲んで、街の輪郭を少しだけ柔らかくする。
アンリミは手を繋いだまま、細い路地へ入った。
大通りの熱から外れた場所。
花の匂いが濃くなる。
壁に描かれた青い模様が、夜だと落ち着いて見える。
「ここ、好きなんです」
アンリミが言う。
「昼は人が多すぎて……息が詰まる。でも夜は、石の音が聞こえるでしょう?」
確かに。
遠くの噴水の音。誰かの笑い声。
全部が混ざらずに、ちゃんと別々に耳に届く。
「聖女さま、って呼ばれると、皆さん……近いのに遠いんです」
アンリミは、前を見たまま言う。
「近づいて、祈って、涙を流して……でも、私のことは見てない。……見てるのは“聖女”だけ」
私は、繋いだ手に少し力を込めた。
言葉の代わりに。
アンリミが、少しだけ指を絡め返してくる。
「……シルアちゃんは、ちゃんと見てくれますよね」
「見るよ」
「嬉しいです」
彼女は小さく笑った。
そして、通りの角を曲がる。
そこには、小さな広場があった。
真ん中に噴水。
水は光を拾って、銀色の糸みたいに落ちている。
噴水の縁に座ると、白い石がひんやりして気持ちいい。
アンリミは靴の先を揃えて座った。
貴族みたいな所作。
でも、綺麗な横顔の表情は、やっぱり普通の女の子だ。
「これ、飲みます?」
アンリミが小さな瓶を取り出した。
透明な液体が入っている。
「……それ、どこから」
「内緒です」
彼女はいたずらっぽく笑った。
もう聖女の顔じゃない。
「でも、喉が乾くでしょう? さっき……頭も痛かったし」
私は少し迷って、受け取った。
口をつけると、甘い花の味がした。
冷たくて、喉が生き返る。
「おいしい」
「よかった」
アンリミは自分の分も飲んで、ほっと息を吐いた。
その吐息が、夜の空気に溶ける。
私たちはしばらく、噴水の音を聞いていた。
言葉がなくても、間が壊れない。
「……シルアちゃん」
アンリミが、ふと声を落とした。
「もし、記憶が戻ったら……怖いですか?」
怖い。
たぶん、怖い。
戻った記憶が、今の私を否定するかもしれない。
でも――怖いだけじゃない。
「……怖い。でも、知りたい」
「そうですよね」
アンリミは頷く。
頷き方が、少し大人びている。
「怖くても知ろうとする、それって強くないとできないことです」
「強くないよ」
「強いです」
彼女は譲らない。
その譲らなさが、妙に嬉しくて、私は視線を逸らして笑った。
「私の力じゃ記憶喪失はどうにもできないのが残念です」
アンリミが残念そうに言う。
「リミちゃんの力って……?」
「……あ」
呼び名を聞いた瞬間、彼女の頬がほんのり緩む。
「ふふ。私の力は、“負”を浄める光を生み出すことです。……苦しさとか、痛みとか、汚れや影霊、そういうものを薄くしていく光」
なるほど。だから、あの頭痛が――針を抜くみたいに消えた。
「どれくらい届くかは……私の魔力次第、かな」
言い方が少しだけ照れくさい。
魔力量でここまでの能力になる。
そう思って私は噴水の向こうを見る。
ここからも、夜の王城が見える。
「……王城、行ったことある?」
私は聞いた。
アンリミは一瞬、変な顔をする。
「ありますよ。……住んでますから」
「あ……そっか」
「ふふ」
笑われた。
恥ずかしい。
でも、彼女の笑いは柔らかくて、刺さらない。
「王城は、昼も綺麗ですけど……夜のほうが、私は好きです。昼は、“見られる場所”だから」
彼女は噴水の水面を見た。
水面に、光が落ちて消える。
消える瞬間が、やけに優しい。
「夜は、私が“見る側”になれる。……そういう時間が少しでもあると、明日も頑張れるんです」
私は、その言葉に返せる言葉を探して、見つけられなかった。
代わりに、もう一度「お疲れさま」と心の中で繰り返した。
「……ねえ」
アンリミが、顔を上げる。
「私、同年代の女の子のお友達……いないんです」
「……そうなんだ」
「うん。いないようにしてた、のほうが近いかも」
彼女は笑って、ごまかすみたいに言った。
「小さい時、この国の人で私とお友達になってくれた人はいたのですが……もういなくなってしまいましたし」
その言葉は、私の胸に小さく刺さった。
私は、逃げるみたいに視線を動かして、違う話題を探す。
「……さっき言ってた越眼。開くと、何か見えるの?」
アンリミは少し考えてから、指先で空をなぞった。
「世界が……線で見える感じです」
「線?」
「はい。剣の軌道とか、風の流れとか、人の重心とか。……あと、魔力が通る道。全ての力の流れが見えるんです」
淡い説明なのに、想像だけが妙に鮮明になる。
「でも、いいことばかりじゃないです。見えすぎて、疲れることもある。……だから普通は、必要な時だけ開くものなんですが」
アンリミは小さく肩をすくめた。
「私、常に必要な時にいるので倒れてしまうこともあるんです。そんな時は、アルアが……」
そこで、また声が弾んだ。
「……アルアが、頭をぽんってしてくれます」
ぽん。
そんな簡単な動作で、救われるのか。
救われるんだろう。
彼女は、そういう救いに縋れるほど、日々を背負っている。
「……アルアって、優しいんだね」
私が言うと、アンリミは胸を張った。
「世界で一番です!」
即答。
そして、照れたみたいに目を伏せた。
「……たぶん。うん。たぶん」
“たぶん”がつくところが、可愛い。
私は、馬車で聞いた「嫌われ者」という言葉を思い出して、噴水の水面に視線を落とした。
守っているだけで、嫌われる。
守られているだけで、崇められる。
この国は、強さと愛の距離が歪んでいる。
「……シルアちゃん」
アンリミが、また私の手を引いた。
「次、行きたい場所があるんです」
噴水を離れて、さらに坂を上る。
高い場所へ。
夜の風が強くなる。
白い手すりに沿って歩いていくと、王城を真正面に見渡せる、小さな展望台みたいな場所に出た。
欄干に手を置くと、石が冷たい。
街の灯りが、光の粒と混ざって、星みたいに瞬いている。
アンリミは、そこに立って、深呼吸した。
「……ここ、私の秘密基地です」
「秘密、って言ってる時点で秘密じゃなくなる」
私が言うと、アンリミは笑った。
「シルアちゃんには、ばらしてもいいの」
言い方が、無防備で。
胸の奥がふっと緩む。
私は、夜の王城を見た。
薄く光っている。
あれは、聖女の光なのか。
それとも、王城そのものの白なのか。
「……ねえ、シルアちゃん」
アンリミが、私の袖を軽く引く。
「また、明日もここで私に会ってくれますか」
その言葉が、お願いというより祈りに近くて。
私は、頷いた。
「……もちろん」
アンリミの目が、嬉しそうに細まる。
「約束」
「約束」
言ってしまった。
約束は、重いもの。
でも、今は――重いものを、少しだけ抱えてもいい気がした。
△▼△▼△▼△
夜は、思ったより早く溶けた。
王都の空の端が、ほんの少しだけ薄くなる。
光の粒が、夜より目立ち始める。
「……そろそろ、戻らないと」
私が言うと、アンリミは名残惜しそうに唇を尖らせた。
「うん……」
それでも、頷く。
頷けるのが、偉い。
私たちは手を繋いだまま、宿へ向かった。
道は静かで、白い石畳が朝の匂いを先取りしている。
宿が見えた時、アンリミは足を止めた。
玄関の前。青い花の模様。
「ここなんですね」
「うん。……みんな、寝てるはず」
「起こしちゃだめですよ」
「分かってる」
囁くみたいな会話。
アンリミは、私の手を両手で包んだ。
小さくて温かい。
「シルアちゃん。……ぜひ、いつでも王城にも来てくださいね。歓迎しますから」
王城。
あの白い塊の中へ。
想像すると、喉が少し乾く。
でも――行かなきゃいけない気もする。
私の記憶の手がかりが、そこに落ちている気がするから。
アンリミは続けた。
「それと……アルアも越眼を開けるので。今度会ってみたら、また何か思い出すかもしれません」
「……また、頭痛くなるかも」
私が言いかけると、アンリミは笑って、胸を張った。
「私が掻き消します。安心してください」
“掻き消す”。
さっき、針を抜くみたいに痛みが消えた感覚が蘇る。
あれは、救いだった。
「……ありがとう、リミちゃん」
私がそう呼ぶと、アンリミは嬉しそうに肩をすくめた。
「うん」
それから、少しだけ表情を真面目にして言う。
「シルアちゃんも……気をつけて。私が言うのも変だけど、この国あんまりまともな人がいないから」
まともな人がいない。
聖女もそう思ってはいたんだ。
私は、頷く。
「リミちゃんも。……帰り道気をつけて」
アンリミは小さく笑って、最後にもう一度だけ私の手を握った。
「また明日!」
「またね」
アンリミはフードを深く被り、白い街の影へ溶けていった。
背中が小さくて。
なのに、背負っているものが大きい。
私はしばらく、その消えた場所を見ていた。
――国民がああなってしまうのがなんとなくわかった気がする。
あの子を見たら、心が揺れる。
まだ崇めるほどなのはわからないけれど。
でも、それが彼女を苦しめるんだろうとも思った。
△▼△▼△▼△
宿の扉を開ける時、心臓がまた跳ねた。
ギィ、と鳴りそうで怖い。
私は指先に力を入れすぎないようにして、そっと押す。
……音は、出なかった。
廊下は薄明るい。
光の粒が床に落ちて、消える。
私は忍び足で階段を上がり、部屋の前に辿り着く。
耳を当てると、寝息が聞こえた。
アルティナの、柔らかい呼吸。
カムイの、少し低い呼吸。
リトリーの、軽い呼吸。
全部がそこにあって、胸がほどける。
私は扉を少しだけ開けて、滑り込む。
ベッドへ戻り、布団に潜った。
体が冷えていたのに、布団の中は温かい。
瞼を閉じると、夜の王都の光と、星と、噴水の音が残っている。
それから――越眼。
怖いのに、嬉しい。
分からないことが増えたのに、初めて“私の記憶”が、確かにそこに触れた気がしたから。
私は、その喜びを胸の奥で噛み締めたまま。
深い眠りに落ちた。




