第一章・第二十七話 記憶のカケラ
翌日。
まだ「朝」と呼ぶには心許ない淡い光の中で、私たちは宿を出た。
降り続ける光の粒が、夜明けの輪郭をぼやかしている。
それでも、空気だけはちゃんと朝だった。少し冷たくて、肺の奥が目を覚ます。
門へ向かう道は、昨日より人が多い。
聖女の色に染まった格好の人もいれば、荷を抱えた商人もいる。
みんな、同じ方向――王都へ。
街の出口の少し手前で、クロウが先に手を振っていた。
紫がかった髪が光に濡れて、妙に艶っぽく見える。
隣のシャルラは相変わらず静かで、わざわざ影の濃い場所を選んで立っていた。
「おう、来たな。早いじゃねえか」
「そっちは早すぎ」
リトリーが眠そうな目のまま返す。
クロウは笑って肩をすくめた。
「癖なんだよ。こういう待ち合わせ、遅れると落ち着かねえ」
アルティナが尻尾をぶん、と振る。
「馬車で行くんだよね? どこから乗るの?」
「この先だ。もうすぐ出るぞ」
クロウが顎で示した先に、白い木枠の馬車が並んでいた。
荷台に布を張っただけの簡単なものから、ちゃんと屋根のあるものまで。
“王都行き”の札が、雨みたいな光の中で揺れている。
私たちは、その中でも比較的しっかりした屋根付きの馬車へ案内され、木のベンチに腰を下ろした。
木の匂いと、乾いた布の匂い。
馬の息が近い。
アルティナが落ち着かないみたいに尻尾を揺らして、カムイの膝に軽く当てる。
「ティーナ、尻尾……当たってる」
カムイが小さく言うと、アルティナは一瞬止めて――わざとらしく、もっとゆっくり揺らした。
「楽しみで勝手に動いちゃうんだもん。仕方ないし」
「……そうか」
返事は淡いのに、カムイの耳がほんの少しだけ動いた。
リトリーは私の隣に座ると、掌を空に向けて、ぱちんと指を鳴らす。
落ちてきた小さな革袋を受け取って、中身をさっと確かめた。
「……よし。移動前って、意外と忘れ物しやすいんだよね」
「それ、リトリーだけでしょ」
アルティナが言って笑う。
クロウがそのやり取りを聞いて、楽しそうに口元を歪めた。
「仲いいなぁ、お前ら」
シャルラは言葉を挟まない。
ただ、私たちの足元――馬車の床に落ちる影を、一度だけ確かめるように見た。
△▼△▼△▼△
馬車が動き出すと、街の白い壁がゆっくり後ろへ流れた。
石畳が途切れ、土の道になる。
草が濃くて、畑の縁がやけに柔らかい。
光の粒が落ちるたび、草の色が一瞬だけ薄くなる気がして――でもすぐ戻る。
見間違いなのか、世界の癖なのか、まだ判断がつかない。
「王都ってさ、どのくらい絶景なの?」
アルティナが外を見ながら言う。
「端的に言うと、白い」
クロウが即答する。
「ここの街も白いが、王都は“白さ”が違う。そこら中に光が降ってるだろ? 石まで光ってんじゃねえかってくらいだ」
「そんなに光ってたら目、開けてられないよ」
リトリーが笑う。
「さすがに比喩だが、ほんとにすげぇぞ」
クロウは冗談みたいに言って手をひらひら振った。
「ま、楽しみにしとけ。王城なんて見た瞬間、息が止まる」
カムイが外へ視線を向けたまま、短く言う。
「……人が多いな」
確かに、大勢の人が王都に向かって歩を進めている。
「聖女さま目当てだろ」
クロウが言う。
「王都なら、見ようと思えばいつでも見れるからな。この光の中心に」
中心。
その言葉が、胸の奥に小さく引っかかった。
私は手のひらを握って、ほどく。
落ちてきた粒はすぐ消える。
消えるくせに、世界はそれで満ちている。
「……推し活、って言ってたっけ」
私が言うと、クロウは笑った。
「言った言った。ここじゃ、ほとんどの国民が聖女さま推しだ」
アルティナが真面目な顔になる。
「でもさ、推し活って、もっとこう……可愛い感じじゃない?」
「この国のは可愛げがない」
リトリーが即答して、ため息をついた。
「前の殴り合い、まだ頭に残ってる」
クロウは肩を揺らして笑う。
「まあ、殴り合いはまだマシだぜ。王都の方は――」
言いかけたところで、前の馬車から声が飛んできた。
屋根のない馬車。
そこに乗っている男たちが、酒でも飲んでいるみたいに声を荒げている。
「――今回こそ当ててやる。あいつの顔に一発、どかーんとな!」
「無理無理。お前じゃ、あのアホ毛野郎に届かねぇよ」
「だから俺様の力で火だるまにしてやんだよ!」
笑い声。
乱暴な言葉。
馬の蹄の音に紛れても、妙に耳に刺さった。
アルティナの尻尾が、すっと警戒の角度になる。
リトリーの指が無意識に膝を叩く。
カムイは黙って前を見たまま、肩の力だけを落とした。
私も、背中が少し固くなるのを感じた。
「……今の、物騒すぎない?」
アルティナが小声で言う。
クロウは前の馬車をちらりと見て、口の端を上げた。
「お、気になったか」
「気になるよ」
「だよなぁ」
クロウは軽く息を吐く。けれど声の温度は変えない。
「ありゃ、不滅聖城に決闘を挑みに行く連中だ」
「……不滅聖城?」
アルティナが首を傾げる。
カムイが短く続けた。
「レオフィーナさんと同じ類だ。ソルニアの最高戦力と言われてる」
「へえ。……たぶん聞いたことある、ような」
クロウがわざとらしく相槌を打つ。
「そうそう。“不滅聖城”アルア・ホーミリア。聖女さま唯一の護衛だ」
そこで一拍置いて、クロウは肩をすくめる。
「で、聖女さまに張り付いてる護衛が“男”だろ? それが気に食わねえってんで、国中の男に目の敵にされてんだ」
さらっと言うのに、内容だけが妙に軽い。
嫌われている。理由が、男だから。
アルティナが眉を寄せる。
「え、それだけで? 理不尽だよ」
リトリーも頷いた。
「なんか……可哀想な人だね」
クロウは肩をすくめる。
「可哀想、で済むならまだ優しい。聖女さまの護衛は“この国で一番強いもの”って、昔から決まっててな」
前の馬車から、また笑い声が聞こえる。
「あのクソアホ毛、ぶった斬ってやるからな!」
「今日こそ、聖女さまの前から引きずり下ろしてやる!」
その声が、軽い。
重い言葉を、軽く投げている。
クロウが続ける。
「だから不滅聖城を倒して自分が最強になろうとする奴らや、単純に不滅聖城が嫌いな奴らが、毎日決闘を挑んだり……殺しにかかったりしてる」
「毎日!?」
アルティナの声が少し上ずる。尻尾が驚きでふわっと跳ねた。
リトリーも目を丸くする。
「決闘はともかく、いきなり殺しにかかって来るなんて……!」
クロウは、ほんとにしょうがねえな、みたいな顔で首を振った。
「あまりにも攻撃が当たらなくて、もう誰も躊躇しねぇのさ」
「当たらないのに、殺しにいくの?」
アルティナが呆れたみたいに言う。
「当たらないから、安心して殺しに行ける」
クロウは笑う。
その笑い方が、変に優しい。
「最強さんからは手出ししてこない。だからケガもしねえ。……あわよくば、聖女さまの隣に立てるかもしれねえ、ってな」
カムイがぽつりと漏らす。
「……最低だな」
「だよなぁ」
クロウは同意してみせる。
シャルラが、小さく言った。
「……馬鹿」
それだけ。吐き捨てるみたいに。
でも、その一言にちゃんと感情がある分だけ、彼女がこの話題に引っかかっているのが分かった。
私は外を見た。
草が濃い。
川が澄む。
土が、薬草みたいな匂いを持つ。
その全部の上を、光が降り続ける。
なのに、人の中だけが、どこか乾いている。
私は、どんな人なんだろう、と思った。
不滅聖城。
ソルニアの最高戦力。
聖女の護衛なのに嫌われている人。
そして、その中心にいる聖女。
ちゃんとこの目で見てみたい。
△▼△▼△▼△
日が傾いてきた頃、街道の色が変わっていった。
白い石が混じり、道の端の柵が整っていく。
遠くに見える建物も、全部どこか白い。
雲が薄いせいか、空の青がやけに淡い。
光の粒が降って、空と地面の境目が曖昧になる。
「見えたぜ」
クロウが言った。
指差す先に、白い塊がある。
最初は霞んだ壁に見えたのに、近づくほど、それが街だと分かる。
街というより、白い波。屋根も壁も塔も、全部が光を返している。
その奥に、さらに大きな白いもの。
王城。
息が止まる、と言ったクロウの言葉は誇張じゃなかった。
喉が、勝手に閉じる。
「……うわ」
アルティナが、声にならない声を漏らした。
尻尾は揺れているのに、動きが遅い。
リトリーも口を開けたまま目を瞬く。
「真っ白……」
カムイは何も言わない。
でも、視線が動かない。
その景色は、圧を纏っているかのようだった。
ここに住んでいる人は、毎日これを見て、毎日光を浴びて、それでも足りなくて、聖女の話をするんだろうか。
門の前は人で溢れていた。
兵の動きは揃っていて、声も揃っているのに、周囲の民衆の熱だけがバラバラだった。
「聖女さま万歳!」
「今日も尊い……!」
「アホ毛野郎は早くどいてくれ!」
最後の一言だけ、妙に刺々しい。
アルティナが小さく肩をすくめた。
「……ほんとに嫌われてる」
クロウが笑って、手をひらひら振る。
「だろ? 王都は特に濃いぞ」
門を抜けると、石の匂いが変わった。
磨かれた石の匂い。
水の匂い。
花の匂い。
白い建物の影が落ちるところだけ、影が濃い。
そこに光が落ちても、影は消えない。
消えないのに、その影が“きれい”だった。
「さて」
クロウが伸びをして言った。
「ここからは別行動だ。俺たちは、王都でやることあるからな」
「用って、何?」
アルティナが素直に聞く。
クロウは笑って、ごまかすみたいに指を鳴らした。
「大人の用事だよ」
「胡散臭い」
リトリーが即答する。
「褒め言葉だな」
クロウは悪びれない。
シャルラは私たちを一度だけ見て、目を細めた。
「……気をつけて」
誰に向けた言葉か分からない。
でも、そのまま二人は人混みに紛れていった。
紫と黒が、白の中に沈むみたいに消える。
私たちは宿を探すために通りを歩いた。
白い石畳が光を返して眩しい。
でも、眩しいのに痛くない。
ただ、世界の輪郭が薄くなる。
「王城、近いね」
リトリーが言った。声が少し小さい。
「近い。……というより、でかい」
私が答えると、リトリーは笑って肩を寄せた。
「そう! すごく立派だよね!」
リトリーと一緒にいると、なんだか元気をもらえる。
そんな気がする。
宿は、思ったよりすぐ見つかった。
白い外壁に、青い花の模様が描かれている。
宿の主人は愛想が良い。けれど目だけは忙しなく、客の出入りを数えているみたいだった。
人が多いからだろう。
大きい部屋を一つ取って、荷物を置く。
窓から見える王城を、また見てしまう。
本当に綺麗だ。
「ずっと馬車で腰痛いし、もう寝よ」
アルティナが言って、無理に明るく笑った。
「明日、いっぱい見て回りたいし」
「そうだな」
カムイが頷く。
リトリーは私の隣のベッドに腰を下ろして、髪を指で梳いた。
「シルア、疲れた?」
「……うん。ちょっと」
馬車で移動してきただけなのに、息が重い。
この国の空気は、肺より先に心に入ってくる。
蝋燭を消しても、部屋は真っ暗にならなかった。
窓から入り込む光が、薄明るさを残す。
それでも、目を閉じると眠りは来た。
△▼△▼△▼△
深夜。
目が覚めた。
何かに起こされたわけじゃない。
ただ、ふっと目が開いただけ。
喉が乾いていて、胸の奥が落ち着かない。
窓の外は静かだった。
王都はうるさい――と聞いていたのに、夜は程よく静かだった。
横を見ると、三人はぐっすり寝ている。
寝息が小さくて、安心する。
それでも寝付けなくて、私はそっとベッドを抜けて靴を履いた。
ドアを閉める音すら怖い。息を殺して廊下へ出る。
廊下も薄明るい。
光の粒が落ちて、床で消えていく。
階段を降り、玄関を抜けた。
夜の王都は、昼ほど白くなかった。
白は少し灰色を含んで見える。
人の声が少ないから、石の音がよく聞こえる。
自分の足音が、丸く響いた。
風が通って、花の匂いがした。
通りを歩くうちに、少し高い場所へ続く坂を見つけた。
白い手すり。
坂の先に、小さな丘。
そこにベンチが見えた。
吸い寄せられるみたいに歩いて、ベンチに座る。
遠くに王城が見える。
夜なのに、城は薄く光っている。
星は、その上にいる。
光の粒が降っても、星は消えない。
ただ、少し滲むだけ。
私は空を見ながら、自分の手のひらを見た。
冷たさの輪郭。
ソルニアに入ってから、その輪郭がぼやける。
ぼやけると、怖い。
ぼやけると、安心する。
両方が同時に胸にある。
「……私は、何をしたいんだろう」
声にすると、すぐ消えた。
光の粒みたいに。
考えていると、足音がした。
静かな足音。
私の後ろで止まる気配。
「お隣、よろしいですか」
女の声。柔らかい。
でも、どこか距離がある。
振り向くと、フードの深い外套を着た小柄な少女が立っていた。
白い布で髪を半分ほど隠している。
でも、隠しきれない色が見えた。
水みたいな薄い青。
「……どうぞ」
私は少しだけ身体をずらした。
少女は礼儀正しく座る。ベンチがわずかに軋む。
「ここ、いいですよね」
少女が言った。
「静かで、綺麗で。……私も、よく――こっそり来るんです」
「こっそり?」
「はい。本当は、こそこそする必要なんてないんですけど」
その言い方が、妙だった。
少女は笑った。
笑い方が、どこか疲れている。
私は横顔を盗み見る。
フードの影で目は見えにくい。
でも、光の粒がひとつ落ちて、影の縁をなぞった瞬間――
左目が、見えた。
瞳に紋がある。
三本の線が、中心へ吸い込まれるように寄っていく紋。
「……その目」
言ってから、胸が小さく跳ねた。
レオフィーナが影狼と戦っていたとき。
あの時の目も、こんなふうに“開いて”いた。
同じだ。
少女は驚いた顔をして、少しだけフードを上げた。
「この目を……見たことがあるんですか?」
声が少し低くなる。
探るみたいな音。
「……ある」
私は頷いた。
「強い人が、こういう目をしてた」
少女は、少しだけ安心したみたいに息を吐く。
そして言った。
「お知り合いに、強いお方がいらっしゃるんですね」
「……うん」
嘘じゃない。
でも、全部は言えない。
言えないことが、増えていく。
私はもう一度、少女の左目を見た。
近くで見ると、その紋は綺麗だ。
綺麗で、怖い。
そして――思い出しかける。
私は、これをもっとたくさん見たことがある。
もっと近くで。
もっと大勢の。
そう思った瞬間。
頭の奥に、針が刺さったみたいな痛みが走った。
息が止まる。
視界が揺れる。
降り続ける光の粒が、針みたいに鋭く見える。
私は両手で頭を押さえた。
「っ……」
声が出ない。
痛みが、内側から削ってくる。
骨の中を掻き回されるみたいな。
少女がすぐに立ち上がる気配。
「大丈夫ですか」
手が、私の肩に触れた。
あたたかい。
その温度が、逆に怖い。
「……っ、だい……じょ……」
言いかけたところで、痛みが強くなる。
少女は一瞬迷うみたいに息を吸って、それから手を合わせた。
「剣よ」
次の瞬間、私の周りに光が生まれた。
降っている光とは違う。
もっと近くて、もっと密で、もっと――やわらかい。
肌に触れて、刺さらない。
むしろ、包まれる。
その光が、痛みの針を一本ずつ抜いていくみたいに、頭の奥がほどけていく。
息が戻る。
視界が、元に戻る。
私は、ゆっくり手を下ろした。
少女の手のひらの間に、淡い光が残っている。
それはすぐ消えない。
降り続ける光より、意志がある。
「……その力って」
私が呟くと、少女は少し困ったように笑った。
困った笑い方。
隠しきれない諦めが混じる。
「やっぱり……ソルニアの方ではありませんよね」
そして、彼女は静かに言った。
「申し遅れました」
フードの影が揺れて、左目の紋がはっきり見えた。
「私はアンリミ・ソルニア。この国の聖女です」




