第一部・第二章 探し物
ルギアは私を連れて、町の細い通りへ入っていった。人混みを避けるみたいに、石畳の端を選んで歩く。
荷車がぎしぎし鳴り、子どもが走り、呼び込みの声が飛ぶ。誰もが腰に剣をぶら下げているのに、怖さより先に“当たり前”が目に染みた。
《鳩の羽根亭》
少し傾いた看板が揺れていて、扉の隙間から焼いたパンの匂いが漏れている。
ルギアが振り返って、笑った。
「ここさー、飯うまいんだよね〜。腹減ってるでしょ」
鈴がちりん、と鳴る。
カウンターの向こうに、肝の据わった顔の女主人が立っていた。こちらを一瞥して、短く言う。
「いらっしゃい」
視線が私の腰元に落ちて、すぐ顔に戻る。ほんの一瞬。けれど、その一瞬に“この世界の確認”が詰まっていた。
「部屋空いてる? あと水一杯ちょーだい」
「部屋は空いてるよ。水は勝手に飲みな。……そっちの子、顔色悪いねぇ」
「……はい」
女主人が鍵を机に置き、顎で二階を示す。
「二階、右。休みな。昼はそのうち食わせるから」
言い方はぶっきらぼうなのに、突き放す感じがない。
ルギアが私の背中を軽く押すみたいにして言った。
「ほら、行っといで。無理しないでさ」
「……うん」
階段へ向かう途中で振り返ると、ルギアはもう入口の方へ歩き出していた。ひらひら手を振って、あっさりと。
鈴が鳴って、銀髪が外の光に消える。
――ほんとに、ここでお別れなんだ。
私は鍵を握り直して、二階へ上がった。
△▼△▼△▼△
部屋は狭かった。けれど、扉を閉めた瞬間、静けさが胸に落ちてきた。
ベッドに腰を下ろして水を飲む。喉の奥がようやくほどける。
それから窓辺に寄った。
通りが見える。人が行き交い、剣が揺れる。剣は武器というより、生活の道具――そう見えてくるのが怖い。
しばらく眺めていると、“剣で生活する”が本当にそのままの意味だとわかる。
井戸端で、女が剣の柄を軽く撫でた。すると桶の中の水面が、波紋も立てずに持ち上がる。薄い水の膜が手の形になって、こぼれないまま別の桶へ移った。
別の家の前では、男が剣を鞘ごと軽く振る。薪の端に小さな火が点き、息を吹きかけると安定した。派手じゃない、料理の火だ。
パン屋の前で、少年が剣を掲げると布がふわりと浮いた。乾かしているらしい。風が“そこだけ”通っている。
みんな、慣れている。
魔法というより、暮らしの手癖みたいに。
その中で私は、腰の剣に触れる。軽い。命の重さなんて、どこにもない。
……でも、これがないと私はここを歩けない。
窓ガラスに自分の顔がうっすら映る。泥は落ちた。でも目の奥の空白だけは、まだそのままだった。
△▼△▼△▼△
数日が過ぎた。
私は宿で寝て、水を飲んで、ご飯を食べて――あとは働いて、また寝る。そんな日が続いた。女主人は余計なことを聞かない。代わりに、皿を拭けとか床を掃けとか、そういう“生きてる側の仕事”だけを寄越してくる。
その雑さが、ありがたかった。
昼前。皿を運んでいる女主人に、ずっと引っかかっていたことを聞いた。
「……あの、私」
「なに」
「ずっとタダで食べさせてもらってるけど……お金って……」
女主人は手を止めずに言った。
「あんたを連れてきた銀髪の男がね。金貨を一枚置いてったんだよ」
「……金貨」
「そう。『足りなかったら皿洗いでもさせて』って。……あんた、色々やってくれてるから、心配しなくていいわよ」
冗談みたいに言って、女主人は鼻で笑った。
胸の奥が、少しだけきゅっと縮んだ。
ルギアの顔が浮かぶ。あっさり消えた背中。置いていったのは、金貨一枚。
……それだけで、私はここにいられている。
△▼△▼△▼△
その日の昼。
鈴がちりん、と軽く鳴った。
「こんちはー! 鳩の羽根亭! ご飯まだいける?」
明るい声が響く。
入口に立っていたのは、女の子だった。私と同じくらいか、少し上。動きやすそうな服で、腰には剣。目が生きていて、足取りが軽い。
女主人が「ああ、また来たのかい」と呆れた顔をする。
「だってここ、落ち着くんだもん! ね、おばさん、いつもの!」
「おばさん言うんじゃないよ。……座りな。今、出す」
女主人は私の方を見て、「今日はもう休憩しな」と顎で席を指した。
「ほら。座りな。飯の時間だよ」
「……はい」
私は端の席に座る。
スープとパンが運ばれてくる。私はスプーンを握って、まだ引っかかっていたことを口にした。
「……私、ほんとに、これで……」
女主人は分かってるみたいに言う。
「金の話なら、さっき言っただろ。気にするなら働きな」
「……働いてるもん」
「じゃあさっさと食いな。倒れられたら面倒だよ」
その一言で、変に詰まっていた喉がほどけた。
向かいから声が飛んでくる。
「見ない顔ね。旅人? 名前は?」
女の子が、にこっと笑っていた。人懐っこいのに、距離を詰めすぎない笑い方。
「……シルア」
名前だけ言うと、女の子は目を丸くして、それから嬉しそうに頷いた。
「シルアか。いい名前! 私はリトリー。よろしくね」
「……よろしく」
リトリーは一瞬だけ、私の腰元に視線を落とした。すぐに戻す。自然すぎて、私は見なかったふりをした。
そしてリトリーは、待ちきれないみたいに本題を切り出した。
「ねえ、シルア。ちょっと手、貸してくれない?」
「……私が?」
「うん。人手が足りなくてさ」
女主人が口を挟む。
「また面倒なの持ってきたねぇ」
「面倒って言わないでよ! 面倒なんだけど!」
リトリーは頬を膨らませてから、私に向き直る。
「町の外れで、荷運びの依頼があるの。森の手前まで。道はわりと安全なんだけど、最近ちょっと変なのがうろつくって話があってさ」
変なの。
その言葉だけで、胸の奥が小さく跳ねた。
でも私は首を横に振れなかった。理由は自分でもわからない。ただ、ここで断ったら、また一人になる気がしたから。
「……わかった。できる範囲で」
リトリーの顔がぱっと明るくなる。
「やった! 助かる!」
女主人がため息をつきながら、私の皿を指差した。
「まず食いな。動くのはそのあと」
「はーい!」
△▼△▼△▼△
それから、私はリトリーと町の周りで働いた。
荷運び、採集、簡単な護衛。リトリーは手際が良い。町の人と顔なじみで、頼まれごとをさっさと片付ける。
私はその横で必死に真似をした。剣の扱いも、歩き方も、喋り方も。
“普通のふり”をして、普通の中に溶けようとする。
ある日、荷物を運びながらリトリーが言った。
「シルアってさ、どこの出身?」
「……わからない」
「え?」
「思い出せない。名前だけ」
言った瞬間、空気が一瞬だけ止まった。だけどリトリーは、驚ききった顔をしない。驚いたあと、すぐに“どう扱えばいいか”を決めた顔になる。
「……そっか。じゃあ、今はここが仮の出身ね」
「仮の……?」
「うん。鳩の羽根亭出身。強そう」
「強そうじゃない」
「おばさんが強いから、強そうだよ!」
笑いながら言う。その軽さが、ありがたかった。
別の日、町外れの丘で休んでいると、リトリーが遠くを指差した。
「あっちの道、商隊がよく通るんだよ。軍国方面ね。逆は商国」
「軍国……?」
「軍事国家のアルガルド、大商帝国のスレイン。あと、獣王連邦のガゼル、神教国のソルニア」
リトリーは指を折りながら、当たり前みたいに続ける。
「そ。大きい国が四つあるんだ。ここの町は、どこにも属してないって顔してるけど、実際は全部の影響受けてる」
国がある。道がある。まだ知らない場所が、当たり前に広がっている。
なら、歩けば何かにぶつかるかもしれない。
それが怖くて、でも――少しだけ、嬉しかった。
そんな中で、噂だけが残った。
森で私に絡んできた二人組が、ぱたりと消えたこと。
探しても見つからないらしい。
いなくなった、という事実だけが、町の隅に薄くこびりついていた。
私はそれに触れないようにした。
触れたら、ルギアの影を追うことになる気がしたから。
△▼△▼△▼△
ある夕方。
宿の裏手で、私は一人になれる隙を見つけた。
洗濯紐が揺れ、木箱が積まれている。人の気配はない。
腰の剣を外して、手の中で転がす。見た目は剣。だけど命じゃない。
私は息を吐いて、剣を放った。
地面に落ちて、鈍い音がした。
――戻ってこない。
ルギアの剣は手元に戻ってきていた。
町の人たちの剣も、持ち主から離れると戻ってくるところを何度か見た。
知っていた。わかっていた。なのに胸が少しだけ縮む。
「……やっぱり」
拾い上げて、土を払う。剣は黙ったままだ。
私はそれを腰に戻して、宿へ戻った。
そのとき私は気づいていなかった。
木箱の陰から、リトリーがこちらを見てしまっていたことに。
目を丸くして息を止め――すぐに、物音を立てないよう引っ込んだことに。
△▼△▼△▼△
夜。
宿の小さな部屋で、私は窓の外を見ていた。暗い通りを、最後の客が歩いていく。腰の剣が、灯りを受けて一瞬だけ光った。
「……ねえ、シルア」
背後からリトリーの声がする。
「なに」
「今日さ。ご飯食べてる時の顔、ちょっとだけ“ここにいない”顔してた」
「……」
図星だった。
リトリーは続ける。
「思い出せないの、つらいよね」
その言葉が、胸の奥の空白に触れた。
私は言葉を選んで言った。
「まあね。……だから最近思うの。知らない場所を見れば、何か思い出すかもしれないし。思い出せなくても……自分で決めたって思える」
リトリーは少し黙って、それから軽く笑う。
「いいじゃん。そういうの、私結構好きだよ」
「……好き?」
「うん。自分から逃げないところ」
私は視線を逸らした。逃げないわけじゃない。怖いから、進むんだ。
それでもリトリーは、勝手に結論を出すみたいに言う。
「じゃあさ。一緒に旅しない? 世界中を回ってみようよ!」
「……一緒に?」
「一緒に! 私も、ちょうど次の仕事探してたし」
言いながら、リトリーはいつもの調子で肩をすくめる。
「それに、シルアって放っておくと、無茶しそうだもん」
「しない」
「するよ」
即答で言われて、言い返せない。
私は小さく息を吐いて、頷いた。
「……ありがとう」
リトリーは照れたみたいに鼻を鳴らして、わざと明るく言った。
「よし。さっそく明日から準備だね! まずは装備と、お金と――ご飯!」
「最後は絶対それ」
「大事だから!」
笑い声が小さな部屋に広がる。
腰の剣は相変わらず軽い。
でも、歩く理由がちゃんと形になった気がした。




