第一章・第二十六話 川での出会い
翌朝。
夜明けと言うには頼りない薄明るさの中、リトリーと一緒に宿の一階へ降りた。
光の粒は相変わらず降っていて、窓辺の床に淡い点々を残しては消えていく。
焼いたパンの匂いがして、少しだけ肩の力が抜けた。
アルティナは先に起きていたらしく、椅子に座ったまま尻尾をぶんぶん振っている。
「おはよ! 外行こ! 外!」
「声でかい」
後ろから来たカムイが、短く言った。
リトリーは眠そうに目をこすりながら、ぼそっと続ける。
「……もう外? まだ早いよ」
「だって、なんだか疲れが吹っ飛んだんだもん!」
アルティナが胸を張る。
「うさぎでも狩ろうよ。ね、カムイ!」
「……狩る必要あるのか」
「必要とかじゃなくてさ。散歩ついで。気分!」
尻尾が元気に揺れる。
カムイは一瞬だけ言い返しかけて、それを飲み込んだ。
「……分かった。危ないことはするなよ」
私はパンを一口かじって、口の中に残る甘さを飲み込んだ。
昨日の“満たされすぎる”感じがまだ薄く残っていたけれど、朝の空気はそれを少し剥がしてくれる。
「じゃ、行こう」
リトリーが立ち上がり、指をぱちんと鳴らして空を見上げた。
次の瞬間、空から小さな袋が落ちてきた。
ひとつ、ふたつ。
リトリーが軽く受け止めて、肩にかける。
さっきまで眠そうだったのに、もう行く気満々だ。
でも、その軽さはいつものリトリーで、少し安心する。
△▼△▼△▼△
街の外へ出ると、石畳が途切れて、柔らかい土と草の匂いに変わった。
街道の脇に広がる畑は整っているのに、緑がやけに濃い。
光の粒が草に落ちて、葉の縁がほんの少しだけ透ける。
踏みしめた足元が、ふわっと沈んだ。
「……柔らかい」
アルティナが靴底を確かめるみたいに言って、尻尾を左右に揺らす。
「土が生きてる感じがする」
「生きてるって……」
リトリーは笑いながらしゃがみ込み、指先で草をかき分けた。
「……あ、これ」
摘み上げた葉は、見覚えのある形だった。
私が覗き込むと、リトリーが眉を上げる。
「薬草だ。しかも、かなり質がいい」
「ここ、畑じゃないのに?」
アルティナが首を傾げた。
そのまま少し進むと、薬草が増えた。
道の端だけじゃない。
少し外れた草むらにも、同じ匂いが点々と混じっている。
歩けば歩くほど、足元の“普通の草”が減っていった。
リトリーは立ち上がって、半ば呆れたみたいに空を見上げる。
「……やばい。ほぼ薬草畑じゃん」
「畑じゃなくて、野だろ」
カムイが言う。
言いながら、足元を一度だけ見た。
私もしゃがんで葉を一枚摘む。
指先に残る冷たさが、いつもの冷たさと少し違う。
草の冷たさ。
土の湿り気。
その上に光が落ちて、すぐ消える。
消えるのに、残るのは匂いと、妙に澄んだ感触だけだった。
「……これも、光のせいかな」
ぽろっとこぼすと、アルティナがすぐ反応した。
「え? 聖女さまの?」
尻尾がぴん、と立つ。
カムイは少しだけ眉を寄せて空を見た。
「降り続けてるなら……影霊だけじゃなく、他にも影響は出るだろ」
「土が浄化されてる、とか?」
リトリーが言い、摘んだ薬草を指で軽く擦る。
擦ると、薬の匂いが強くなる。
「“浄化”って言葉、いかにもこの国って感じだけど……でもまあ、ありえるね。水にも土にも、全部に降り注いでるし」
アルティナが薬草の群れを見渡して、少し困った顔をした。
「なんか……すごいね。同じ剣の力とは思えないや」
私は手のひらを開く。
そこに落ちた粒は、すぐ消える。
冷たさの輪郭が、今日も少しだけぼやけた。
「採っていく?」
リトリーが聞いてくる。
「少しだけ」
そう言うと、リトリーは頷いて薬草を束ね、空へ放った。
落ちていかない。
吸い込まれるみたいに消える。
アルティナが難しい顔をする。
「こんなに生えてるなら、売れないんじゃ……」
「別の国で売ればいいんだよ」
「なんだか良くないような……」
二人のやりとりに、カムイの肩がほんの少しだけ落ちた。
「……別に、なんだっていいだろ」
その呟きが、いつもより柔らかかった。
△▼△▼△▼△
草むらを抜けると、小さな森があった。
「うさぎ、いるかな」
アルティナが鼻をひくひくさせる。
獣人の鼻はいい。
「匂いするか?」
カムイが聞くと、アルティナが真剣に頷いた。
「するよ。たぶん近くにいる」
そう言いながら、アルティナは少し先へ走っていった。
足音が軽い。
草が柔らかいから、音が丸い。
私はその背中を見送りながら、木の根元に生えている別の草を見つけた。
葉の形が違う。
でも匂いが薬草に近い。
「これも……」
私が言うと、リトリーが覗き込んで目を細めた。
「うん。見たことないけど……薬効はありそう」
「知らないの?」
「全部知ってたら薬師になってるよ」
リトリーは笑って言う。
カムイが遠くを見たまま言った。
「……森の中なのに明るいな。ガゼルとは大違いだ」
森を抜けた向こうにも、また緑が広がっている。
木々は確かに日光を遮っているのに、空から降る光は葉と葉の間をすり抜けて森を照らす。
止む気配はない。
「確かに明るいね」
リトリーが肩をすくめた。
「聖女さまが止めない限り、降り続けるのか〜」
その言い方に、私の手のひらが少しだけ疼いた。
“止めない限り”。
止める、という選択肢がどれくらいの重さを持つのか。
想像しかけて、やめた。
想像しただけで、胸が詰まる。
△▼△▼△▼△
森を抜けた先で、川の音が聞こえた。
水が石に当たる、さらさらという音。
街の水路より、ずっと生っぽい音だ。
川辺に出ると、水が――怖いくらい澄んでいた。
底の石が見える。
藻の揺れが見える。
水面に落ちた光の粒が砕けて散っても、水は濁らない。
アルティナが真っ先に駆け寄って、しゃがみ込む。
「うわぁ……なにこれ……きれい……!」
尻尾がふわふわ揺れる。
カムイも近づいて、片膝をついて手を入れた。
「冷たいな」
「ここで休憩しよ」
リトリーが言って、水をすくう。
指の間から落ちる水が透明すぎて、落ちているのか分からないくらいだった。
私は川の縁に座って手を浸した。
冷たさが、手のひらの奥の冷たさと重なって、一瞬だけ区別がつかなくなる。
でもすぐに、川の冷たさだけが残って、私の冷たさが後ろに引っ込む。
「……綺麗だね」
そう言った。
言葉が軽い。
それが、ちょっとだけ嬉しい。
「ね」
リトリーが頷いた。
そのとき、少し離れた岩陰から声がした。
「……きれいだろ?」
男の声。
低すぎず高すぎず、妙に馴れ馴れしい温度。
私たちは揃って顔を上げた。
川辺の少し上、草の生えた斜面に二人組がいる。
男は紫がかった髪で、年は――私よりずっと上に見える。
旅装なのに、どこか余裕がある。
隣の女は小柄で、艶のある黒髪。
目は半分ほど伏せられていて、こちらを見ているのか見ていないのか分からない。
でも、視線だけは刺さった。
「……誰?」
アルティナが小声で言い、尻尾が警戒の角度になる。
カムイが立ち上がり、さりげなく私たちの前に出た。
「旅人か」
男は笑って、両手を軽く上げる。
敵意がない、の形。
「そうそう。こっちも休憩してたんだ。邪魔したなら悪かったな」
その声の軽さに、リトリーが先に息を吐いた。
「邪魔ってほどじゃないよ。……ただ、びっくりした」
「すまんなぁ。つい声かけたくなっちまって」
男は川を顎で示す。
「この川、すげえだろ。これも聖女さまの光とやらのおかげなんだぜ」
その言葉が出た瞬間、アルティナの尻尾がぴん、と立った。
「え、やっぱり?」
「ははっ、わかりやすいやつだな」
男は笑う。
「影霊が出ないだけじゃねえ。汚れも、病まで……“良くないもの”はだいたい浄化しちまうんだ。当代の聖女さまの力は、歴代の中でも随一だぜ」
言葉が当たり前みたいに流れた。
浄化、という言葉は昨日から何度も耳に入っているのに。
こうして川を見せられて聞くと、妙に納得してしまう。
病気さえ。
土も、水も、人も。
それを昼夜問わず降らせ続けている、誰かがいる。
「……そりゃ、崇めるよね」
リトリーがぽつりと言った。
男が肩をすくめる。
「だろ。崇めるどころじゃねえけどな。まあ、ここまでくると、祈りっていうより……趣味」
趣味、の言い方がやたら生々しくて、アルティナが変な顔をした。
「趣味って……」
「推し活、ってやつ?」
リトリーが半笑いで言うと、男が指を鳴らした。
「それそれ。そんな感じ」
隣の女は、ずっと黙っている。
でも、川面に落ちた光を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
嫌そうにも見えるし、ただ眩しいだけにも見える。
「……この国の人……じゃないよね?」
リトリーが男に聞いた。
男は首を振る。
「ああ、外からだ。ちょっとこの国に用があってな」
男は笑顔のまま続ける。
「俺はクロウだ。で、こっちは……」
クロウが隣を見て、軽く顎をしゃくる。
女は短く言った。
「シャルラよ」
声は小さい。
会話を増やしたくなさそうな声。
アルティナが手を振る。
「私はアルティナ! こっちがカムイで、リトリーで、シルア!」
名前を呼ばれて、私は頷いた。
クロウは私の顔を一瞬だけ見て、すぐ笑った。
「よろしくな。旅人さんたち」
その一瞬が、妙に正確で――変に感じたのは、気のせいだろうか。
私は自分の手のひらを握って、ほどいた。
△▼△▼△▼△
六人で、川辺に散らばるように座った。
クロウは勝手に距離を詰めてくるタイプで、でも押しつけがましくはない。
近づいたぶんだけ、こちらが引く余地を残す。
そういう、嫌に上手い距離の取り方。
シャルラは少し離れて、岩の影に背を預けている。
影。
この国の影はどこも普通なのに、彼女のいる場所だけ少し濃く見えた。
光がそこだけ避けているみたいに。
気のせいだ、と自分に言い聞かせる。
「で? その感じだと、最近街に入ったばっかか?」
クロウが聞いてきて、リトリーが頷いた。
「うん。昨日から」
「疲れただろ。この国、聖女さまの話しかしないからな」
「ホントにそう!」
アルティナが真顔で繰り返す。
「どこ行っても聖女さまの話、どこ見ても同じ横顔!」
「ある意味すげえよ。統一感」
クロウが笑った。
「でもまあ、あいつらの気持ちも分かるぜ。実物を見たら、男どもが惚れ込むのも納得する」
その言葉に、アルティナの目がすっと細くなった。
次の瞬間、視線がカムイに飛ぶ。
「……ねえ」
「何だ」
カムイが答えると、アルティナがやけに低い声で言った。
「カムイも、惚れちゃうの?」
尻尾がぴく、と揺れる。
揺れ方が、冗談じゃない。
カムイは一拍置いて、真面目に否定した。
「ならない」
「即答だ」
リトリーが言って笑う。
クロウは面白そうに眉を上げた。
「お、仲いいな」
「幼馴染だもん」
アルティナの尻尾がまた揺れる。
カムイはそれに何も言わない。
私は川面を見つめながら、クロウの言葉を頭の中で転がした。
実物。
見たら納得するほどの美貌。
人の姿に、人が惚れる。
それは普通のことのはずなのに、この国だと“普通”の枠が膨らみすぎている。
「……この国、聖女への愛が重いよね」
リトリーがぽつりと愚痴ると、クロウが大げさに頷いた。
「重い。マジで重い。俺も最初、息苦しくなった」
アルティナが思い出したみたいに言う。
「昨日、殴り合いしてた人いたよ。聖女さまのどこが最高か、で」
「いたいた。あんなのは定期的に起きる」
クロウが笑う。
「微笑み派と髪派とか、瞳派と声派とか。で、最後はだいたい拳になる。あいつら、元気あり余ってるんだよ」
リトリーがはぁ、と息を吐いた。
「影霊がいない分、余力が別の方向に回ってる感じ」
カムイが短く言う。
「平和の歪みだな」
その言葉に、クロウが口笛を吹いた。
「言うねえ。まあ、分かるぜ。平和って放っておくと変な形になるもんだ」
シャルラが、そこで小さく言った。
「……光、強い」
それだけ。
誰に向けた言葉でもないみたいに。
でも私の胸の奥に、その音が残った。
光が強い。
クロウが肩をすくめる。
「だな。夜も薄明るいし」
「夜が来ないって、変だよ」
アルティナが言って、川に小石を投げた。
水面が跳ねて、すぐ戻る。
波紋が広がるのに、光の粒はそれを気にしないみたいに降り続ける。
私はその波紋を見ながら、昨日の“胃が重い”感じを思い出した。
食べたのは少しなのに、言葉で満たされた。
「ところで」
クロウが急に明るい声を出す。
「お前ら、どこまで行くつもりだ?」
リトリーが首を傾げた。
「どこまで、って」
「旅だろ? ソルニアを通るだけか、それともしばらく滞在するのか?」
「……まだ決めてない」
リトリーが答える。
私たちの旅は、“決めながら進む”旅だ。
クロウはうんうんと頷いて、川の向こうを指差した。
遠くに、白いものが霞んで見える。
塔のような、壁のような。
「王都はあっちだ。ここらの街より、もっと絶景だぜ。白さが違う。光の濃さも違う」
アルティナが目を輝かせる。
「え、見たい!」
言ってから、はっとしたみたいに尻尾を一度止めた。
「……でも、愛の重さも増える?」
「増える」
クロウが即答して笑った。
「まあ、そんなもんは慣れちまえばいい。王城は見とく価値あるぜ。俺たちも明日から王都に向かうしな」
「明日?」
リトリーが聞き返す。
クロウは頷いた。
「そう。用があるって言っただろ。王都の方に用があってな」
旅の途中で同行者が増えることは、珍しくない。
そして――この国は、確かに少し息苦しい。
道を知ってる人がいるなら、それだけで楽になる。
「一緒に行く?」
アルティナが言って、私とリトリーを見る。
目がきらきらしているのに、その奥に小さな不安も混ざっている。
見たい、でも怖い。
私も同じだ。
カムイが低く言った。
「……俺たちが邪魔にならないなら」
その言い方が、カムイなりの慎重さだった。
クロウは大きく笑って、手を振った。
「邪魔になんてなるかよ。むしろ道中、退屈しなくて助かる。こいつ全然かまってくれねぇからな」
シャルラは何も言わない。
リトリーが私を見る。
目で聞いてくる。
私は手のひらを握って、ほどいて、頷いた。
「……うん。一緒に行こう」
その言葉が口から出たとき、川の上を風が通った。
光の粒が少しだけ流れて、でもすぐ元の落ち方に戻る。
変わったのは、たぶん私たちの方だ。
王都へ行く、という形がひとつ決まった。
決まった瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなるのに――同時に、重さも増える。
聖女の中心へ近づく。
光の中心へ近づく。
そこに、何があるのか。
「じゃ、明日だね」
リトリーが言って、いつもの調子で笑った。
「王都、楽しみ」
アルティナが大きく頷き、尻尾がぶんぶん揺れる。
「見に行こう! 絶景!」
カムイは短く息を吐いて、空を見上げた。
「……なんだか騒がしくなりそうだ」
私は川の水をすくって、一口だけ飲んだ。
澄んだ冷たさが喉を通る。
胸の奥の“満たされすぎる”感じが、ほんの少しだけ薄まった。
光の粒が、今日も静かに降り続けていた。




