第一章・第二十四話 世界を介した言実
王都の外れ。門へ続く石畳には、祭りの飾りがまだ残っていた。
色布が風に揺れて、昨日の太鼓の余韻みたいに、空気だけが少し浮ついている。
私たちはその下を、荷の軽い背で歩いた。
荷物が少ないのに、足取りは軽くない。――手のひらの冷たさが、まだ消えてくれないせいだ。
門の前にレオフィーナが、兵の流れを邪魔しない場所で腕を組んで立っていた。
いつものように堂々としているのに、視線だけがほんの少し硬い。
「お、来たな」
それだけ言って、近づく私たちを一人ずつ見ていく。
怪我の具合。顔色。
確かめる視線が、どこか優しい。
リトリーが先に手を振った。
「レオフィーナさん。見送りって、なんか照れるね」
「照れねぇよ」
即答。
でも、口元がほんの少しだけ緩んだのが分かった。
アルティナは尻尾を落ち着かせようとして、逆にわたわたしている。
カムイは相変わらず寡黙で、門の向こうを見ていた。
リトリーが、ふと思い出したみたいに首を傾げる。
「ねえ、そういえばさ」
その声が、門前のざわめきの隙間にすとんと落ちた。
「神域は落ち着いたって聞いたけど……他の森の影獣は大丈夫なの? 龍じゃなくても普通の人の手には負えないよ」
“影獣”。
口にした瞬間、背中が少し冷えた。あの黒い塊の感触が、まだ目の奥にいる。
レオフィーナは眉を寄せ、口の中で一度言葉を転がした。
「……それなんだが」
言い直すみたいに、短く息を吐く。
「実は最初にあんたらが相手してたやつ以外、神域の外での報告は上がってねぇんだ。影霊の報告も、あれからぴたりと止んじまった」
「え……ほんと?」
アルティナの耳がぴんと立つ。
尻尾も、信じたいっていう揺れ方をしてしまう。
「嘘ついてどうすんだよ」
レオフィーナが少しだけ肩をすくめた。
「まあ、あたしの予想じゃ……もう出てこねぇだろうな」
最後の一言は、どこか遠くへ投げたみたいだった。
言い終えると、レオフィーナはふっと私に視線を戻す。
私は口の端がひりつくのを感じた。
祠の影霊――大量の影は、どうして祠の前にいたのだろう。
神域の奥。獣王の場所。
まるで祠の結界が解かれるのを待ってたみたいに。
最初の影獣も、誰かが“そこに置いた”みたいだった。
偶然じゃない。目的があった。そんな気がする。
……でも、何のために。
「……どうして」
気づいたら声が出ていた。
「影獣は、どうしてあそこに……いたんだろう」
問いは疑いというより、怖さに近い。
答えが欲しいんじゃない。答えが“ある”こと自体が怖い。
レオフィーナは少し黙った。
その沈黙が、簡単な答えがないことを言っていた。
「分かんねぇ」
やっと出た声は、悔しそうだった。
「……ただ」
レオフィーナは一度だけ、拳を握って、ほどいてから言った。
「あんたなら、いつか答えを見つけられる」
その言葉が、背中を押すみたいに胸に当たった。
押されて、少し痛い。痛いのに、立っていられる。
リトリーが、わざと明るく笑う。
「うん、もちろん。私たち、すごいんだから」
レオフィーナが小さく笑った。
そして、いつもの乱暴な手つきでリトリーの頭を軽く撫でる。
「怪我すんな。……元気でいろよ」
それはまるで、祈りみたいに聞こえた。
アルティナが慌てて頭を下げる。
「レオフィーナさんも。……無茶しないでね」
「誰に言ってんだ」
そう言いながら、レオフィーナはアルティナの尻尾の揺れを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
カムイを見ると、カムイは目をそらす。
アルティナの尻尾が、余計に落ち着かなくなる。
最後に、レオフィーナは私の前に立った。
近い。金色の髪が眩しい。
「……シルア」
名前だけで喉が詰まる。
返事をする前に、レオフィーナは低く言った。
「あんたのやったことは正しかった。――神域のことは気にすんな」
手のひらが、きゅっと握り込まれる。自分で。
「……うん」
それしか出ない。
レオフィーナは、私の握った拳を見て鼻で笑った。
「そんな顔すんな。あんたが自分で選んだなら、背負うのも自分だろ」
言葉を置いて、少しだけ後ろへ下がる。
それが“行ってこい”の合図だった。
門が開いている。
外の道が、陽に乾いている。
私たちは歩き出した。
数歩進んで振り返ると、レオフィーナはまだそこにいた。腕を組んだまま、動かない。
見送る背中じゃなくて、見送られる背中を私が背負っているのが、なんだか変だった。
△▼△▼△▼△
王都が遠ざかると、祭りの音も遠ざかった。
太鼓の代わりに、馬車の軋みと、草を踏む音が増える。
道はなだらかで、空は広い。
なのに、胸の中だけが狭いままだった。
「ねえ」
アルティナが私とリトリーの間に顔を差し込む。
「どこの国に行くの? このままどこでも行けるよね。……ね、ね、早く言って」
尻尾がわくわくで暴れている。
昨日まで死にかけてた人の尻尾とは思えない。
リトリーが、私の代わりに答えるみたいに頷いた。
「昨日の夜、シルアと話したんだよね」
私は小さく息を吸ってから言う。
「神教国ソルニアに行く」
「ソルニア……!」
アルティナの目が丸くなる。
カムイが、ほんの少しだけ眉を動かした。驚いたのか、納得したのか分からない。
「影霊が出ない国、だったよね」
アルティナが思い出すみたいに言う。
「ああ。……確か光が降る国だったな」
リトリーが頷いて、指先を空に向けた。
「“雪みたいに”降るんだって、冷たくない光が。影霊が寄りつかないんだってさ。――行ってみたいって、ずっと思ってた」
“行ってみたい”。
その言葉が、私には少し眩しい。
私は、正直に言うのが怖かった。
ソルニアを選んだ理由には、逃げも混ざっている。
ここにいれば、いつか利用されるかもしれない。
私の力を、私のためじゃなく使われるかもしれない。
だから――遠くへ。
光の国へ。影が薄い場所へ。
「……大丈夫かな」
ぽろっと落ちた声は、私のものだった。
リトリーは笑いもせず、軽く肩をぶつけてくる。
「大丈夫でしょ。今までは影霊ばっかりで大変だったけど、ソルニアには出ないんだから」
「雑だね」
「雑なくらいが、生き残るの」
アルティナが「わかる!」と大きく頷いて、また尻尾が揺れる。
カムイは少し遅れて「……無理はするなよ」とだけ言った。
その“無理”の範囲が、誰よりも広い人なのに。
△▼△▼△▼△
ガゼルを抜けて、しばらく歩いた。
木の密度が少しずつ減って、土の匂いが軽くなる。
神域の半分を失った場所の“空白”は、ここからは見えない。見えないのが余計に怖い。
日が傾きはじめたころ、道脇の岩陰が不自然に濃く見えた。
影。
ただの影じゃない。影が“厚い”。
「……来る」
私が言うより先に、リトリーが立ち止まっていた。
アルティナは剣を抜いた。尻尾がすっと下がる。
カムイの手が剣の柄に添わされた。
岩陰の影が、ぬるりと起き上がる。
輪郭が獣でも人でもないまま、冷たい気配だけが形になる。
影霊――小型。
それでも、胸の奥が反射で縮む。
手のひらが、また冷たくなる。
「……やる?」
アルティナが低い声で言う。
リトリーももう剣を抜いている。抜き方が静かで、逆に怖い。
私は一歩前に出かけて――止まった。
カムイの声が、背中側から落ちる。
「少し待ってくれ」
いつもより、柔らかい声だった。
「試したいことがある」
アルティナが一瞬、眉をひそめる。
「今それ言うの?」
「今がいい」
短い会話。
でも、カムイの目は揺れていなかった。
影霊が、こちらへ滑ってくる。
足音がないのに、距離だけが減る。
カムイが一歩前へ出た。
剣は抜かない。代わりに、低く言う。
「止まれ。動くな」
いつもの、短い命令。
“声”が刃みたいに届いて、相手の動きを縫い止めるやつだ。
影霊が、ぴたりと止まった。
身体が影なのに、縛られたみたいに、揺れさえできない。
「……消えろ」
カムイの声に余計な力はない。
命令は命令として、ただ真っ直ぐに落ちる。
影霊は――消えない。
止まったまま、ぬらりとした“生”だけが残る。
カムイは、一度息を整えて――言い方を変えた。
「……“世界よ”。影霊を消せ」
「えっ」
言葉が、空気の芯を叩いたみたいに響いた。
“誰かに届く”んじゃない。――世界そのものに、落ちた音だ。
影霊の内側から、白い光が滲んだ。
滲む、じゃ足りない。
燃える。内側から焼かれる。
影が悲鳴を上げたように震えて、音にならない声を漏らす。
そして、霧みたいにほどけて――ほどけた先から光に喰われて、消えた。
残ったのは、道の上の普通の影だけ。
冷気が、なかったみたいに引いた。
「……え」
アルティナが目を見開く。
尻尾が驚きでぴんと立って、次の瞬間、ばたばた揺れた。
リトリーも息を呑んで、カムイと、影の消えた場所を交互に見る。
「今の……いつもの命令と、違ったよね。『世界よ』って……」
「……ああ。少し、ヒントをもらってな」
カムイは淡々と言いながら、私を見て微笑んだ。
まるで感謝しているみたいな表情だ。
アルティナが半歩、詰め寄る。
「すごい……! もうサポートだけじゃないじゃん」
リトリーが、言葉を探しながら笑う。
「なんか反則……って言ったら、怒られる?」
二人の声が揺れるほど、私の胸の奥は沈んだ。
カムイの言葉――“世界よ”。
その響きが、私の中の記憶を引っ張り出す。
『世界よ。神域の半分を捧げる。ガゼルの影を祓い切って』
口にした瞬間、森が傾いた感覚。
青さが“失われる”音。
カムイの言葉は、何も払う必要がない。
森も、地面も、匂いも、何も失っていない。
ただ影霊だけが、光に焼かれて消えた。
何も犠牲にしていない。
罪悪感を抱く必要がない。
――ずるい。
そう思ってしまった自分が、一番嫌だった。
「シルア?」
リトリーが私の顔を覗き込む。
楽しそうな目が、途中で心配に変わる。
「……平気」
平気、って言葉は便利だ。
平気じゃない時ほど、使える。
カムイが私を一度見た。
何か言いかけて、やめたみたいに口を閉じる。
その沈黙が、余計に胸に残った。
△▼△▼△▼△
旅は続いた。
街道途中の小さな町で水を補給して、乾いたパンを買って、夜は野営もした。
焚き火の匂いは、どの国でも同じだ。
肉の焼ける匂い。煙の刺激。
それだけで、少しだけ“普通”に戻れる気がする。
アルティナは道中、ずっと元気だった。
元気すぎて、カムイに絡む頻度が増える。
「ねえカムイ、あの“世界よ”ってやつ、もう一回やってみてよ。『世界よ、私を褒めろ』とか!」
「効かない」
「えー。じゃあ『世界よ、カムイを素直にしろ』!」
「効かない」
「効いてほしい〜!」
尻尾が不満でぶんぶん揺れる。
カムイは相変わらず短い返事しか返さないのに、逃げない。
逃げないのが、たぶん答えだ。
リトリーは地図を広げる代わりに、空を見て方角を確かめる癖がついた。
時々、必要なものを“空から”出してくる。
そのたび私は、あの人の軽さに救われる。
私だけが、夜になると手のひらの冷たさを思い出した。
何もしていないのに、冷たい。
握れば握るほど、冷たさが形になって残るみたいだった。
それでも、歩いた。
歩くしかない。
そして――国境が近づいたころ、空気が変わった。
最初は匂いだった。
草の匂いが、少し薄い。水っぽい。
次に、音が変わった。風が、柔らかい。
「……ねえ、見て」
アルティナが立ち止まって空を見上げる。
私もつられて見上げて――息を止めた。
淡い光の粒が、降っていた。
雪みたいに、ふわふわと。
でも冷たくない。触れても温度を奪わない。
ただ皮膚の上を滑って、すぐに消える。
「なにこれ……」
アルティナが手を伸ばす。
粒が指先に触れて、消えた。
消えた場所だけ、ほんの少し軽い気がする。
胸の奥の重さが、少しだけ薄くなるのを感じた。
影が、遠い。
影霊の気配が、世界の外側へ押し出されていくみたいに。
リトリーが、得意げでもなく言った。
「ソルニアだよ」
「……え」
「これが、ソルニアの光。聖女さまの力ってやつ。影霊は触れただけで溶けるみたいに消えるんだって」
“聖女”。
その言葉が、光の粒と一緒に落ちてくる。
神を崇める国じゃなくて、聖女を崇める国。――そんな話をリトリーがしていた。
カムイが、空から降る粒を見て短く息を吐いた。
「……本当に、降ってるんだな」
信じてなかったわけじゃない。
でも、目で見た瞬間に現実になる。
その現実感が、少しだけ怖い。
道の先に、白い標が見えた。
石でできた境界標。そこから先の空気が、もう違う。
アルティナが、ぽつりと言う。
「……新しい国だ」
その声が、いつもより小さかった。
尻尾も、静かに揺れている。
わくわくと、不安が混ざった揺れ方。
リトリーが私の袖を軽く引く。
「行こ」
私は頷いた。
手のひらの冷たさはまだある。消えてはいない。
でも、光の粒が落ちるたび、それが少しだけ“ここにいていい”って言われてる気がした。
私たちは境界標を越える。
淡い光が、肩に、髪に、剣に降る。
新しい音がする。
光の音。
そして――新しい国の匂いがした。




